その距離、二人分
シュトラール辺境伯領に着いて二日目、ミレイユは外に出ていた。
袖や裾や腰回りなどを詰めるために、ライオネルからの頂き物をあれこれと試着していると、侍女のセラから「気分転換にそのまま庭を散策してみませんか?」と誘われたのだ。
屋敷の庭は、たくさんの花に囲まれ、ミレイユの目を楽しませた。
「すごく、綺麗ですね⋯」
素直にそんな言葉が出た。
日傘を差してくれていたセラが、
「ここのお庭は旦那様もお気に入りで。
時たまに旦那様自らお水を撒いてくださることもあるんですよ」
と、教えてくれた。
黒髪の大きな男の人がせっせと水を撒いている姿を思い浮かべる。なぜだか心が、ホワンと温かくなった。
「閣下は、お優しい方ですね」
と、心のままにミレイユは、そう呟くと、
セラは、「そうなんです!」と、つい声大きく返事をしてしまった。
「あ、申し訳ございません。驚かせてしまいました。でも、奥様のおっしゃるとおり、旦那様は外見で誤解される事が多々ありますが、とてもお優しい方でいらっしゃいます。領民の事を第一に考えておりますしね」
「今は、奥様ですけど」と、セラはにっこりと微笑み、付け加えた。
ミレイユは、夏の暑さのせいだろうか、セラの発言によるものだろうか、は、分からなかったが、頬に熱が上がるのを感じた。
ミレイユがシュトラール辺境伯領への輿入れから、一週間――。
ライオネルを筆頭に、家令、部屋付きの侍女セラは、ミレイユの心身の変化について、執務室での報告が、日課となっていた。
ミレイユが輿入れする際は、監視が目的の報告会だったはずが、今は、庇護の下でミレイユが人らしく生活できているか、何か不便に思っていることが無いかを確認する会となっていた。
侍女のセラからの報告は、
「本日の奥様のご様子は、朝餉は、消化に良いものを中心に揃え、少ない量ながらも全て召し上がりましたが、昼餉は、軽い暑気あたりを起こしたようで、ほとんど手つかずにございました。
夕餉は、喉越しの良いものを、と思っておりますがいかがいたしましょう?」
セラは、ミレイユ輿入れ初日に執務室で泣いた日から意識が変わったのか、年頃の少女っぽさが抜けつつある。
そんなセラの報告に、ライオネルは軽く頷くと、
「深夜に、腹が空くかもしれん。夜食も準備しておくように」
と、提案した。
家令からの報告は、
「奥様のことで、男性使用人側と、女性使用人側で対立しつつあるようです。こちらからは、一人ひとりに時間を設けて、事情を聞いているのですが、男性陣のほとんどが都での噂を信じているようで。それに対して、奥様の世話係や身近に接したものが我慢ならず、反発しているようです」
家令からの報告に、セラが気まずげに俯いた。
「無理に抑えつけるようなことをしても、反発をしてしまうからな⋯。こればかりは、時が解決するのを待つしかないな」
ライオネルは、フッと溜息をつきながら、痩せぎすの我が妻を思い浮かべた。
最近は、当初の青白い肌色に比べ頬に赤みがさすほど、顔色が改善してきたが、まだまだ吹けば飛ぶような体型である。
毎晩日課にしている妻の頬に触れて、肉が付いてきたか確認しているが、痩け具合は変わらず。
ふと、頬に触れている時の妻を思い出す。
こちらをじっと見るつり目気味の大きな瞳、形容しがたいあの瞳の色を思い出す。光の具合で何色にも変わるのだ。
少しビクつく様子は、野良猫のようで、頬に触れるたびにピクリ、ピクリと動く姿は、可愛らしくも思える。
「旦那様⋯?」
家令の呼びかけに「ああ、すまん」と現実に引き戻されるライオネルだった。
ミレイユがシュトラール辺境伯領に輿入れしてから、半月が経った。
部屋付きの侍女セラをはじめ、屋敷の使用人たちは皆穏やかで、丁寧に接してくれる。
ライオネルも毎夜同じ寝所に入り、ミレイユのその日の出来事を、静かに聞いてくれた。
眠る前にはミレイユの頬に触れて『ふむ』と一言。そのまま、ふたりの間には二、三人分の隙間を作り眠るのも、相変わらず。
(⋯まだ、ライオネル閣下の理想には遠い、ってことよね)
ミレイユは、毎日しっかり三食を食べ、日課の散歩も続けていた。
過去と違って雑務に追われることもなく、ようやく身体が満たされてきた実感はある。
けれど王命は、まだ果たせていない。
(さすがに、ちょっと焦る⋯よね)
そんなことを考えていたある夜。
ふと真夜中にミレイユは目を覚ました。
なんだか、身体が重くて温かい。
そして、動けない。
何故、と思いゆっくり首を巡らすと、自分の身体になにかが巻き付いていた。
「え⋯?」
大蛇にでも囚われているのかと思ったら、ライオネルの腕だった。
「え、え?」
後ろから、ライオネルに抱きすくめられていた。
寝る前のライオネルとの距離は、かなり空いていたはず。
なのに、これは、どういう状況だろう。
(もしや、寝てる間に一線を越えて⋯?)と、寝衣の有無を確認したが、ちゃんと着込んでいるようだった。
つい、ホッとしてしまったが、直ぐ様に脳裏に『王命』という言葉がよぎる。
ベッドの端を確認すると、自分が寝ていた位置より随分と遠い場所に移動していた。
(わ、わたしから襲ったの!?)
ライオネルの位置は変わりなさそうに思える。
なんせ、ミレイユ側のベッドの端が遠いのだ。
(きっと、私が襲ったらから閣下は身の危険を感じて、私を羽交い締めにして、そのままお眠りになったんだわ⋯っ!)
羞恥に震えた。
かすかな記憶に引取先での使用人同士の会話が蘇ってきた。
『最初は、誰だって怖いものさ。でも、殿方に任せればあとは、大丈夫さ。』
(任せなかった結果が、これなのね⋯っ!)
殿方に任せないと囚われるのだ、と思い知らされたミレイユは、羞恥で涙が、ポロポロこぼれた。
「んン⋯?」
異変を感じ取ったのか、ライオネルが目を覚ました。
ミレイユの姿を、認めたライオネルは、お手打ちを覚悟して身を固めるミレイユの身体をキュッと抱え直すとそのまま寝息を立て始めた。
(え⋯?⋯起きて⋯いない⋯?)
そっとライオネルの様子を確認しようとゆっくりと身じろぎして、後ろのライオネルに顔を巡らす。
眠るライオネルと―――目が合った。
「きゃ⋯、」と驚き、叫び出そうとする己の声を慌てて、飲み込む。
ライオネルもミレイユのこぼれる涙にギョッとして、ミレイユを抱く腕を慌てて離して起き上がった。
「すまない、ミレイユ。私が泣かせたのか⋯?」
と言いながら、忙しげにミレイユと自分の身体を見比べている。
ホッと安堵した表情になると、ミレイユに向き直り、
「どうして、泣いている?私が原因か?それとも怖い夢でもみたのか⋯?」
と、心配げに問うてきた。
(怒っていないの⋯?)夫を襲う妻に激昂するのかと思えば、全く怒る気配のないライオネルをミレイユは、不思議に思いながらも
「私が閣下を襲ったから⋯」と、正直に白状した。
ミレイユの言葉に、理解が追いつかない、と顔に書いたライオネルが「ああ」と合点がいった顔をして、
「違うぞ、ミレイユ。なんと説明して良いか、余計に混乱させるのは良くないので、簡潔に言う。毎晩、私たちは、こうして寝ている」
と、言い放った。
それを聞いたミレイユは「毎晩⋯私は⋯閣下を⋯襲って」と、呆然としながら、呟く彼女をライオネルは慌てて否定をした。
「ちが、違うぞ、ミレイユ。君は私を襲ってはいないし、私も君を襲ってはいない。私の重みで君が転がってしまうのかは、分からないが、気付いたら私たちは、ほぼ毎晩、こうして寝ているのだ」
ライオネルの言葉に頭が真っ白になった、ミレイユにライオネルは、続けてこう言う。
「私は、君とこうして眠るのは、嫌いではない。むしろ心地よく、よく眠れるのだ。しかし、君が嫌がることはしたくない。
君が嫌だと感じるのなら、今日は私は、ソファーで眠ることにするから、明日からは寝室を別にしよう」
そう言って、ミレイユの頬を伝う涙を拭うと
「君を泣かせたくは、ないんだ」
と、言った。
「でも、それだと王命が⋯」
というミレイユの言葉に、何故だがライオネルは、悲しげな表情になり、
「君に、無理強いはしたくない。王命だと義務で来た君には悪いが⋯」
とそう言うと、寝台から降り、ライオネルは私室へ繋がるドアから部屋を出ていくのだった。
一人残されたミレイユは、寝台に仰向けになる。
いつもライオネルが寝ていた側に首を巡らすと、真っ白のシーツが目に入る。
真っ白な、真っ白なシーツの海だ。
ライオネルの穏やかな顔を思い出す。赤い目が穏やかに自分を映し出す。
(今日からずっと、いないの⋯?)
無性に寂しくなった。
気付けば寝台から降りていた。
ライオネルの私室の扉の前に立つ。
ノックをするが、返事を待たずにミレイユは、語りかけた。
「ライオネル様、ごめんなさい。私、驚いてしまって。わたしも⋯ライオネル様と一緒に眠りたいです。あの、その⋯義務とかではなく⋯」
口に出すと、(ただの我儘では?)
とも、思ったが。
そう考えている内に、ライオネルの私室の扉が開いた。
「ライオネルさ⋯」ミレイユはそこで、ライオネルを名前で呼んでいることに気付き、慌てた。
「も、申し訳ございません。閣下」
慌てて言い直す、ミレイユをライオネルは、
「良い。そのまま、ライオネルで」
と、ミレイユを制した。
「あの、では、お言葉に甘えて、ライオネル様。寂しいので、わたしと一緒に眠っていただけませんか?」
と、小首を傾げてお願いした。
「ぐっ」とライオネルの喉から変な音が漏れた。
「君は、その、まぁ、良い。希望を口に出すことは、良いことだ」
と、寝台に戻りながら(警戒する野良猫に懐き始められたら、こんな感覚なのだろうか⋯)と思うライオネルだった。
翌朝、ミレイユは陽も上がらぬ内に目を覚ました。
目の前に布の壁があった。
ぼーっと、視線だけを動かすとライオネルの顔が間近にある。
(本当に、私たち、毎日抱き合って眠っていたのね。)
ライオネルの包み込むような温かさと、静かな心音にミレイユは、再び目を閉じるのだった。