あなたの隣で眠る夜
「初夜を⋯執り行わないのですか?」
ミレイユは、今、聞かされた言葉を反復した。
その言葉に、先程足を洗ってくれたり、何かと親切に世話をしてくれる部屋付きの侍女、セラは、何でもないことだとでもいうように、にっこりと微笑むと、
「左様でございます。奥様が遠路はるばる長旅でお越しくださったことに、旦那様も心配しておられまして。まずは、ゆっくり身体を休めるように、と」
子作りは、王命なのに、良いのだろうか⋯とミレイユは、戸惑った。
「あの、それで、旦那様は⋯」
何か不手際をしただろうか、本当に身体を心配してのことだろうか⋯。
不安に思うミレイユは、旦那様に謝罪をしなければ、と思い、セラに旦那様の所在を尋ねようとした。が、
「お休みの際の寝所は、旦那様もご同衾されますので、まずは、お互いを知ることも大事なことだと、僭越ながら申し上げさせていただきます。」
と、セラは言った。
(それだけで、いいの⋯⋯?)
セラは続けて「それと」と言うと、部屋の扉がノックされた。
セラが扉を開けると、2人の侍女が軽く会釈を交わしながら入ってきた。そして続くのは大きな荷物を抱えた男性使用人。
(そういえば、あれから侍女を増やされたのだったわ)
一人でも、十分な人数なのに、更に増やしてもらってなんだか、気の毒に思うミレイユだった。
そんなミレイユをよそ目に、部屋付きの侍女達は、衣装部屋へと使用人を誘導する。
「旦那さまより贈り物です」声の主は、セラだった。
「え⋯?贈り物⋯?」
ミレイユは、目を丸くした。
なぜかと言うと、先程から男性使用人が荷物を抱えては衣装部屋に置いて、荷物を抱えては⋯、と廊下と衣装部屋を往復しているからだ。
「奥様がお輿入れの際の荷物だけでは、なにかと不便だろうと。」
何でもないことのように言ってのけるセラ。
「急ぎ準備いたしましたので、既製服やありきたりの小物で申し訳ありませんが。」
申し訳なさそうにセラは言うので、ミレイユは、慌てて
「謝る必要なんて、これっぽっちもありません!
むしろこんなに良くしていただいたのに、王命も勤め上げられず、申し訳ありません⋯。」
最後は尻すぼみになりながらも、必死に謝った。
「目下の者にそんなに謝らないでくださいな。辺境伯夫人ですもの。当然と思ってお受け取り下さいませ。きっと旦那様も、奥様が喜んでお礼のひとつでも仰られたほうが喜ばれます」
「それに、本当に旦那様は奥様のお身体を心配なさっていますよ。」
気になっていることの返答を、セラは静かに答えてくれた。
セラは、続ける。
「この辺境伯領では、夏の盛りはあっという間に、過ぎ去ります。奥様の気分転換の外出も、どこでもお供いたしますよ」
と、言うとにっこりと微笑むのだった。
(私と歳があまり離れていないのに、なんて、しっかりとした方なんだろう⋯)
感心するミレイユの脳裏に、怒鳴り声が響いてくる。
『お前は、なにをやってもウスノロだな!』
『アンタ、人の話聞いてた!?こんな事も出来ないの!?』
『⋯チッ。簡単なことすら出来ないなんて、やっぱり元お嬢様は、平民とは違いますね』
『穀潰し』
『平民以下』
ミレイユの身体に重くのしかかる過去の声。過去だと分かっている。分かっているはずなのに――。
「奥様?」
セラの声で、現実に引き戻される。
「あ、ごめんなさい⋯。」謝るミレイユに、困ったように微笑むセラは、
「今晩の夕餉は、消化に良いものにいたしましょう。旅の疲れと、夏の暑さは、知らずに胃腸にも疲れを出しますからね」
と、やさしく言うのだった。
いつの間にやら、寝所である。
ミレイユは、広い広い寝台の端で仰向けになっていた。
(先におやすみして良い、と言われたけど、本当に良いのかしら?)
なにぶん男性と同衾とは初めての経験である。
ぼーっと天蓋の模様を眺めていると、次第に“顔”に見えてくる。
(あれは、怒っている顔だわ。あれも顔みたい⋯)
そんなことを考えていると、ライオネルの私室へと続くドアが開いた。
「あ⋯っ」
ミレイユは慌てて、起き上がろうとすると、寝衣姿のライオネルから手で遮られた。
「せっかく休んでいるんだ。私のことは、気にせず」
そういうと、ライオネルは、ミレイユとは反対側の寝台の端に腰を掛けた。
そういう訳にもいかないと、ミレイユは起き上がり、
「あの⋯」と、ライオネルの広い背中に声を掛けた。
「今日の、あ、本日は過分にご配慮をくださり、ありがとうございました」
なんとか、お礼を伝えられた。ライオネルは、ミレイユに背中を向けたまま、
「いや、夫として当然のことをしたまでだ。
なにか、ほかにも必要なものがあるなら、遠慮なく部屋付きの侍女に頼むと良い」
そう言うと、溜息をついて、『さて、寝るか。』と、寝台へと上がった。
大きな、ライオネルが寝台へ上がると、重みで寝台が沈み、ミレイユの身体が傾いた。そして、
そのまま、ぼすっ、と顔から布団に倒れ伏した。
「だ、大丈夫か⋯!?」
慌てたライオネルに抱き起こされ、恥ずかしさで顔を真っ赤に染めたミレイユは、「は、はい⋯」と精一杯返事をした。
ミレイユの身体を支えていた、ライオネルは、
「君は、軽いな」
と、しみじみと言った。「それに細い」
ミレイユは、ライオネルの表情を盗み見た。
到着してすぐに会ったライオネルの値踏みするような表情とは違い、なにか痛みに耐えているような、そんな表情だった。
ミレイユは、何故初夜を執り行わないのか、察した。
(閣下は、痩せた女に興味を抱かないのだわ。)
ミレイユの出した答えを肯定するかのように、閣下ことライオネルは、顎に手をやり思案げに食事の内容を「鍛錬で部下どもに食べさせているメニューにするか、いや、しかし、しばらくは、消化に良いものを⋯」と、ブツブツと呟いている。
暗闇の中、ふたりの間に二、三人分ほどの隙間を作り、ミレイユとライオネルは寝台で横になる。
「閣下⋯」と、ミレイユに呼ばれた。
「なんだ?」と、返事をすると
「私、頑張って太りますので」
と、ミレイユから身体に関する前向きな決意を聞かされた。
ライオネルは、「ああ、ぜひそうしてくれ」と、返すと、「おやすみ」と寝入りの挨拶をした。
ミレイユは、その言葉に目を瞑り、自分が豚のように肥えている姿を想像しながら眠りにつくのだった。
辺境伯の朝は、早い。
まだ、日も明けぬ内に起き、己を磨き上げる鍛錬に時間をかけるのだ。
辺境伯は、いつもよりもなにか、子供の頃に戻ったような心地の良い感覚を不思議に思いながら、目を開けた。
「ん⋯」
起きて、驚愕した。
両腕に少女を抱いて寝ていたからだ。
一瞬、頭の中で混乱しながらも、(そういえば、嫁をもらったのだった。)と、思い出し、薄暗闇の中、腕の中の少女を見た。
やせ細った身体。
(人を抱いている感覚なんぞ無かった⋯)
侍女の言った、足の指の爪の件で、自分も情報をこの目で確かめたいと思っていたが、この体勢ではどうやら無理そうだ。
しばらく、少女の温もりにぼんやりとしながら、痩けた頬や、荒れた指を観察していた。
ふと、少女の閉じた目蓋に目をやると、昇る朝日に反射して、キラキラと光るものに気付いた。
少女は、泣いていた。
思わず、心臓が大きくひと鳴りし、ライオネルは、慌てて自分の顎を限界まで下げ、寝衣の着用を確認した。
どうやら、服は着ている。ホッとした。
「お⋯かあ⋯さま」少女が呟いた。
亡くなった母親の夢を見ているようだ。
ライオネルは、少女を起こさないように、そっと腕を引き抜くと、彼女がこちらに転がってこないように、慎重に寝台から抜け出し、部屋を出た。
鍛錬に来ていた部下から「閣下、今日は、遅いですね!!そっか!新婚だった!!」と、言われたので、ひと睨みしてやった。