三年
「荷物が、カバンひとつ?」
ライオネルは、家令の報告に耳を疑った。
「左様でございます。奥様を迎えに行った、馭者にも伺ったところ、奥様から『荷物はこれだけ』だと、言われたそうでございます」
「ふーむ⋯」
ライオネルは、顎に手をやり、やはり、調査書とは様子の違う家令からの報告に、唸った。
そこへ、執務室のドアをノックする音が。
返事をすると、奥方付きの侍女に任命された年若い娘だった。
「失礼します⋯。あの奥様の事でご報告が⋯」
入室を許可すると、瞳いっぱいに涙を溜めた侍女が顔を出した。
家令と違って、年若い娘だと正体を出したか、と構え、報告を促すと、侍女は
「私、耐えられません⋯。
あんな、あんなに若くて小さな子が⋯」
と、声を震わせ、頭を伏せた。
少女に暴力でも振るわれたのだろうか。
家令が、しゃくり泣きをする侍女を落ち着かせようと、ソファーに座らせる。
侍女が落ち着いてきた様子を窺い、話の続きを促した。
「私の実家で⋯。私が小さい頃に猫を飼ってたんですけど⋯」
と、嫁入りに来た少女は?と思ったが、とりあえず、何も言わずに話の続きを待った。
「⋯よく噛むんです。
それで、両親が『躾だ!』と言って、ミーちゃんっていうですけど。を、叩いてたんです。こう噛む度に頭をベシッ、ベシッと。親がそうしてたから、子供だった私も、そうするものかと思っていて⋯ミーちゃんをよく叩いていたんです。
でも、ある日、ミーちゃんの頭を撫でようとしたら、首をすくめて、耳も伏して、目をぎゅっと瞑って、ビクビクしたんです」
と、ここまでひと息に話したところで、家令が
「それは。それだけ、叩いてたら、まぁ、そういう反応しますわな」
と、ついポロッと言ってしまったようで、『おっと』と、口に手をあてた。
侍女は、大きく深呼吸をすると、
「奥様も⋯⋯首を、すくめられたんです」と、吐露した。
「えっ。お前、まさか、奥様を⋯!?」
と、家令が驚いて声を出す。
「ち、違うんです!!いえ、あの、違います。あの、ここまで来るのに、奥様が、長旅で疲れているだろうと、思いましたので、御御足を洗って差し上げようと。
ソファーに座る奥様の肌が真っ白で、窓からの夏の日差しが当たってしまって。日に焼けてはいけないと、ソファーの後ろのカーテンを閉めようとしました。
片手を上げたところ⋯目をギュッとつむって首をおすくみになられて」
ライオネルはその報告に、まさか⋯、と思った。
なおも侍女は「それと⋯、」と前掛けを握りしめ、続ける。
まだあるのか、とギョッとする、家令とライオネル。
「奥様の⋯御御足のつ、つめの形が⋯っ」
と、言い終わらぬうちに、侍女の声が震えだした。
家令が「つめが、爪がどうしたというのかね⋯っ?」
と、侍女に言葉の続きを催促した。
「つめが⋯爪が、歪――。いびつだったのです⋯ッ!」
と、言うと侍女はわっと前掛けに顔を覆って泣き出した。
爪が歪だとなにかあるのか、と家令もライオネルも先を待った。
鼻を啜りながら、声に落ち着きを取り戻した、侍女は続ける。
「貴族の爪は、本来、歪では、ありません。ちゃんと手入れをしているのです⋯。で、でも奥様の爪は、歪でした⋯。あれは、きっとまだ、生えてる爪を⋯は、剥がされ⋯て、いびつに。
つめのかたちが、変わるほど、何度も⋯、何度も剥がされた後だと、す、推察いたしました⋯っ!」
侍女は声を震わせそう話すと、前掛けで顔を覆い、泣き伏した。
ライオネルと家令は、侍女の様子と報告の内容に愕然とした。
ライオネルが、独りごちるように、呟く。
「彼女の家が取り潰しにあったのは、何年前だ⋯?
彼女の家が取り潰しにあって、何年経つ⋯?」
うわ言のように、繰り返した。
先程、放った書類に手を伸ばす。報告書の文字を目で追う。
手が震えた。文字を追うが、目が滑る。
「三年、三年でございます、旦那様⋯っ!」
家令が、自分で吐いた言葉に愕然と「三年も⋯」と、呟く。
しかし、すぐに主であるライオネルに向けて言い直した。
「わたしも、調査書に目を通させていただきました。たしかに、三年前と、記されておりました」
侍女の泣き声が一段と大きくなった。
ライオネルは、先程会った彼女を、思い出す。
夏の日差しに照りつけられた、白金の髪。
真っ白な肌。痩せた身体。
傷は、傷は無かっただろうか⋯。
思い出しながら、ポツリと言葉が出る。
「彼女は、なにか、罪を犯したのかね⋯?」
「いいえ、旦那様。咎人は、彼女の父上だけでございます」
家令が否定をする。
(そうだ、彼女に罪はない。ただ父親が罪人なだけだ。娘である彼女には、罪はない)
「もし、調査書の報告が事実だとしても、彼女は、家の財産を浪費しただけだ」
ぐしゃりと調査書を握りつぶす。
「この、調査結果は、全くのデタラメだ。大方引き取り先の使用人にでも伺ったのだろう」
沸々と腹の底から怒りが湧いた。
引取先の家には、支度金を渡していた。
しかし、彼女は、かばん一つで来た。
あまつさえ、暴力も振るわれていた。
家令は、奥方付きの侍女を、二、三人に増やすことにした。
耐えられなくなったら交代するように。
それも、奥方に気付かれないようにと、何度も侍女に念を押していた。
侍女は、何度も頷き、家令と共に部屋を出ていった。
しばらくして、侍女から奥様の湯浴みを終わらせた、という報告が入った。
目新しい傷は、無かったという。
ただし、手の指の荒れ具合は、労働者のようだったと。
子作りのための輿入れが決まり、発覚を恐れ、暴力は、止めたのでは、という結論に至った。
「卑劣な⋯」
髪が逆立つ感覚。背中が痛むほどの怒り——こんな感情は、生まれて初めてだった。