人間きょうふ症
1話
笑顔が溢れきった日々を送るようになった。
そんな私の今の目的地はコンビニだ。そのためには、桜のトンネルで咲き乱れたあの道を久しぶりに歩かなければならない。私の歩いている向かい側の歩道では、荷物いっぱいのランドセルを大変そうに背負う子供たちが花びらを集めながら登校していた。そういえばもう、始業式か。そんなのすっかり忘れていた。私も本当は高校へ行くべきだよね。でもそんな気力は私にはもうない。
とりあえずコンビニに入って、自分の好きなレモンのティーバッグを買った。んじゃ、家帰ってティータイムにしようか。今時、蓄音機だなんて第三者からすれば、古いと思うが、好きなレコードをかけ、読書するのは、清々しいものだ。学校という牢屋に縛られないで、リラックスタイム。
このような日常を過ごして、数日経った頃だった。電話の着信音が部屋の中で響き渡る。私が通っていたとされる学校の電話番号だった。
「お電話失礼します。そちら、佐藤さんでしょうか。」
「はい、そうですが。ご用件はなんでしょうか。」
「私、今年からあなたのクラス担任になった、です。佐藤さんが4月から学校に来ていなかったので連絡したのですが、大丈夫なのかなって。」
「ちなみに、こなかった理由とかってありますか?」
「特にありませんが、緊急時以外に電話かけてくるのはやめていただけませんか?こっちもやることあるので。」
「あ、ごめんなさい、でも・・・」
「すみません、切ります。」
ぷーぷーぷー。担任の先生の話を遮り、電話を切ってしまった。先生はおそらく心配をしていただけなのかもしれないが、私にとってはお節介なことだ。
2節
先生からの電話から一ヶ月経った頃だった。私は相変わらず学校には行かないで、ティータイムでくつろいでいた。すると再び電話は鳴る。私はめんどくさがって着信拒否を続けていた。でも、何回も鳴って自分の時間に専念できないことから応答することにした。
「、やっと繋がった、。もしもし、佐藤さんのお電話で間違いないでしょうか。」
「はい、そうですが、どちら様でしょうか。」
「あ、申し遅れました。副校長のKと申します。佐藤さんが学校にこないことで、担任のM先生が困っていたようで、電話したんだけど、、。」
「そうですか。要するに、クラスに不登校がいると評判が悪くなるから、登校して授業に参加してほしい、と。」
「あ、いえ、授業には参加しなくても大丈夫です。ただ、学校に来てもらって、課題や皆が書いているノートの部分をお渡ししようかと。やっぱり、ね、授業遅れていたら嫌なんじゃないかと思って。」
「んじゃ、無理やり授業は受けさせないと。」
「はい、そうすれば佐藤さんも勉強を遅れないでいていいんじゃないかと。」
私は先生の話を受け入れないのも多少申し訳なく、素直に承諾した。
「了解です。んじゃ、明日伺います。」
「わかりました。では、放課後に来てくれればと思います。」
3節
次の日の放課後、私は学校へ向かった。久しぶりの学校は億劫な気持ちも混じっていた。ただ、学校側も配慮を考えてくれているから行かなければ、迷惑になるかもしれない。そんな思考が脳内で彷徨っていた。
学校に近づくと、校門前には背丈の高い、長いフレアスカートに涼しそうなブラウスと歩きやすそうなコットンパンプスを履いている女性が立っていた。あの気がかりな視線からしたらきっとこの人がK先生なのだろう。私は咄嗟に目を逸らしながらも、挨拶した。
「佐藤さんね。待っていたわ。」
「、、ども。」
「調子はどう?」
「、、まぁ。」
なんだ、この先生。あまりにも距離感が違う。なんというか、公平性のありそうな話し方で、不登校だからとかあまり気にしていないような。
「んじゃ、準備室へ行きましょうか。そこに教材があるので。」
私は少し頷き、K先生と一緒に準備室へ向かった。
「どうぞ。どこでもいいから座って。」
「、、ども。」
「じゃあ、説明しますね。佐藤さんの課題はこのプリントを全てやることです。期限は再来週の金曜日なので、毎日コツコツやれば終わります。」
「わかりました。」
「何か質問はある?」
「、、特に」
「じゃあ、これで終わりましょう。」
私は教材をすぐにカバンの中に入れ、学校を出て帰宅する。桜吹雪にやけ爛れた真っ赤な空の下で1人歩く道はなんだか寂しいような、そんな感じがした。
4節
課題はどの科目も解きごたえがあった。現代文だけは、少し難しくて一旦、諦めたけれど、休憩後に改めて解いた。一応、青ペンで添削したら終わりだ。早く出して、読書の時間を増やしたいから学校に電話をかけた。
「もしもし、お電話失礼します。2年A組の佐藤と申します。K先生はいらっしゃいますでしょうか。」
「少々お待ちください...」
数秒後、。
「お電話変わりました。Kです。」
「佐藤です。先日課された課題が終わったのですが、出しに行ってもいいですか?」
「もう終わったの?3日も経っていないよね?」
「はい、本読んでひとときしたいので終わらせました。」
「じゃあ、どうしようか。明日にでもくる?」
「そうします。」
「わかりました。明日は、大体午後3時に来てもらえればと思います。」
「はい。」
この日の会話はこんな感じで終わった。素早く時終わったからか、多少驚いていたようにも聞こえたが、やはり穏やかな話し方であった。
5節
学校に着く頃、K先生は前回と同様に校門前で待っていた。
「では、行きましょうか。」
先生はそう言って、以前と同じように準備室へと向かった。
「元気?」
「まぁ、はい。」
「そう、。本を読みたいとか言っていたけれど、普段はどんな本を読んでいるの?」
「、、医療の本とか、哲学の本とか、、」
「難しそうな本を読むのね。やっぱり好き?」
「好き、というか、人間の思考とか身体の構造を理解したいから読んでいるだけです。」
「もう少し詳しく聞かせてくれる?」
詳しくって言われても、どうやって言えばいいんだろう...。少し悩んでいた末、先生が改めて話し始めた。
「じゃあ、質問を変えてみよっか。それらの本を読んで、何か学べましたか?」
「、、少なくても医療は学べました。ただ、哲学は特に何も。読んでいても意味がわかりません。個人的にはおそらく何年経っても全てを理解することには無理があります。でも、もしかしたら何かわかるかもしれない、そんな気持ちで読んでいます。」
先生は神経を慰撫するような声で言った。
「哲学はそういうものです。知っているかはわかりませんが、あなたのクラスで倫理を教えています。私は大学で哲学を研究する学科に在学していました。いろんな人の哲学書や思想についての知識を深く調べました。しかし、完全に理解するところまでは辿り着くことはできませんでした。なので、佐藤さんの気持ちはわかりますし、それはいたって普通なのです。逆に、そこでベラベラ話し始めていれば、確かにきちんと理解しているのかもしれないけれども、今の私のように、ほとんどの場合はそこに書かれていることを丸ごと引用しているに過ぎないものです。」
すると先生は立ち、すぐ隣の本棚を漁り始めた。数分すると、
「人の何かについて知りたいのであれば、それは時間をかけて学ばなければならない。哲学の理解を向上させたいのだったら、まずはこれを読んでみるといいかな。佐藤さんは何について知りたいのかはわからないけれど、言う気になったら教えて。お勧めできる本を探しますから。あと、それが読み終わった時は、学校に来て、そのことについて話しましょう。ちなみに、登校する時は電話かけなくてもいいからね。」
何が目的なのか。緒が見当たらない。ただ一つ言えるとすれば、学校にいても、この先生といると、こんなにも短期間なのに心を落ち着かせて自分の意見が言えるのです。
6節(5節)
帰宅した私は、早速、先生に貸してもらった本を2日かけて読んだ。哲学史の内容が書かれている本であった。読み進めていくにつれ、だんだんとこんがらがる。ただ、それが面白いし、なんだか今の時代を生きる人間たちを考えさせられる。意味のわからないことを話題とし、意味のわからない表現をよく使う。本には顔の表情は書かれていないが、なんとなく話している時の心情と私が本で解釈している心情とは全く異なっているように感じる。それが今の人間と似ているように感じる。
そしてもう一つ思ったのが、この世界は「都合の良いもの」で構成されていることだ。本に、「現代では地動説が唱えられているが、中世に至るまで、天動説が主流となった。天動説を採用してしまうと、計算に矛盾が起きてしまうからである。」と書かれていた。この世界は概念でしかないという見解に基づいてしまった。ものも存在しているように感じているが、きっとそれは人間の目がそのような構造をしているだけなのかもしれない。もしかしたら、今読んでいる本でさえ、塵のような見た目をしているのかもしれない。学校とか家という建物でさえ、本当は存在していないのかもしれない。ここまで深く考えさせられた。
気合いでこの本を一通り読んでみたものの、全く理解が追いつかなく、先生にどこから語り出せば良いのかがわからない。しかも、脳を鉛に変換させてしまうような感覚がある。本を読み進めれば進めるほど、様々なことに目を向けてしまうからだ。なんだか、あの息苦しい記憶が段々と脳裏に浮かんで焼きつかれてしまう感覚も現れてきたような気もする。
外はそこまで暗くはなかったので、私は一通り読んだ後、すぐに学校に行った。先生を探して本をすぐに返した。
「先生、、この本はもう返します!」
「どうしたの?以前と様子が違うけれど」
「その本を読んでいると、かなり呪われているかのようで。なんだか、フェルマーの最終定理みたいな。」
先生は私の表現を理解してくれたのか、本を戻してくるからと、その間に3階の少人数教室で待ち合わせするよう言われた。
7節(6節)
「お待たせ。」
先生の目の前に座って言った。珍しく私の顔をじっと見つめ、いつものように落ち着いた声で話そうとしていた。
「佐藤さんの目って、色々語るのよね。あなた、もしかして、去年クラスメイトとなんかあった?」
本を読んだ時の奇妙な気持ちの後に続いたこの発言。きっと先生は知っていて、何か企んでいるに違いない。そう考えると、余計怖くなって私のわなわなした唇は音を発することができなかった。
「佐藤さん。私はあなたの味方です。電話の時の性格はどこへ消えたのですか?あなたは思っている以上に強いですよ。ただ、それを人前では発揮できていない。なぜなら、人の気持ちがわからなくなったから。いや、あなた自身の気持ちを理解していないから。そして、あなたに起きたそn」
「黙ってください!」
「あなたに起きたその出来事があなた自身をありのままでいさせるこt」
「だから黙ってください!」
「…ことができない。それだといつまで経っても自立できないまま大人になると言われ」
「だから黙ってって言っているじゃないですか!!もういい加減にしてください。私が話してもどうせ他の人たちみたいに責めますよね。こんなだから学校にも行きたくないですし、人と関わりたくないんです!」
感情が爆発して叫んでしまった。息を切らしながら、大声で叫ぶ私。なんて最低な人なんだ。言われていることが自分を苦しめているからって、怒鳴ってしまった自分が醜くて、すぐに荷物を持って家まで逃げてしまった。内心ではわかっている。こんなことは人間の行動として悪いことだってことは。
家について私は、すぐに自分の部屋に入り、ドアに鍵をかけ、布団の中に篭って枕を強く抱きしめた。自分は酷い人間。自分は悪人。目から川のように涙が流れ始めた。これからこのことをずっと引きずったまま生きなければならないのかな...。
8節
涙が止まっても、気持ちがどんよりしていて、ずっと布団の中に蹲っていた。その時、一本の電話がうっすらと聞こえた。その音に気がつき、私は布団から起き上がった。いつの間にか寝ていたみたいだ。応答しようとした時、留守電が流れ始めた。
「佐藤さん、先ほども言った通り、私はあなたの味方です。私の言葉を信じるのは難しいかもしれません。でも、騙されたと思って少し信じても良いんじゃないですか?まずは先日、課題を出しにきたような感覚で学校に来てみませんか。本のことは当分話しませんので、ご安心ください。なので、少しだけお話ししましょう。私のことが嫌でなければですが。メールでも電話でも良いのでお返事ください。」
この瞬間、私は電話をでた。
「もしもし、K先生、」
「出ましたね。」
「先ほどは本当にごめんなさい。ついカッとなってしまって。」
「それくらいのことは想定していたわ。でも、学校から出てってしまうことは確かに予想外だったけれども。」
「先生、私、、変わりたいです。皆に嫌われるのも、自分に自信がないのも嫌です。むしろ好かれたいです。また人の心を元気づけたいです。学校で授業も受けたい。でも、やっぱり怖い。周りの視線が怖いです。しかも、ここずっと人と関わることがなかったし、多分先生も知っていると思いますが、1年だった頃、空気が読めなくて皆に避けられるようになったんです。私はあの態度を取られても学校には行こうと頑張ったんです。1人でいることは嫌いではないのですが、とにかくあの空間が地獄のようで耐えられなくて...。」
話している時にはまた涙がポロリポロリと溢れ、声も掠れてしまった。でも、少しだけ気が晴れたような気もした。
「よく言えました。えらいです。佐藤さんは、優しく努力家だから時間の経過とともに、好かれる人となります。私にはわかります。あなたが頑張っている姿を見ましたから。前に渡したあの課題、あなたはほとんどの課題が完璧にできていた。現代文は少し苦手なのかな、という印象はありましたが、基本的には頭の良い回答をしましたね。」
「現代文、、。」
「大丈夫ですよ。作文に関しても、個人的には気に入っていて、とても文学的で現代の森鴎外って感じがしたわ。にしても、私が先ほど言った言葉に少し引っ掛かっているところがありそうな顔をしていますね。」
はい、そうですね、って顔に表情出ているの?私はそこまで表情を変えているつもりはなかったのに。でも、答えないとよねと瞬発的に考えていた。
「あ、はい。でもなんでわかるんですか。」
「先生という職業は、実際に教室にいなくてその子を見ていなくても、課題やテストの字などを見ればわかるものです。その人がどのような人なのか。あなたの回答用紙には何回も書き消した跡がいくつかの場所で残っていな。人は普段、苦手なことをしたがらないことが多い。でもあなたは、苦手な科目に対しても答えよう、答えようと熱心になっていたのじゃないですか?そこはもっと自信を持つべきところよね。」
「自信ですか。」
「まぁこのことは今度学校来る時に話しましょう。くるのいつ頃が良いですか?」
「、、んじゃ、明日の朝で。」
無意識にそう答えた。K先生と話していると、やっぱり心が落ち着く。
9節
私は朝早く学校へ行き、準備室で待機した。朝のホームルームが始まる時のチャイムが鳴り終わった頃に、K先生も入ってきた。
「おはよう。ちゃんと寝られた?」
「、、まぁまぁ。、、先生、先生のこと、少しだけだけど信じますからね?」
「えぇ。ちゃんと話を聞いて、できる限り助けるから安心して。」
俯いた顔で恐る恐る自分の身に起きた経緯について語り始めた。
元々留学をしていて、高校一年生となって帰国したこと。初期は帰国子女だからと皆からの評判は良く、成績もうう週だったことから当てにされることは多かったこと。人に頼りにされることはとても嬉しく、そのためにもっと頑張ろうと思ったが、精神的に不安定になったこと。それが原因で勉強を教えることだったり、課題を写させてあげられなくなったりして、クラスメイトに避けられるようになって、授業中、具合が悪くなって助けを求めても無視されること。先生側からの軽蔑的発言のことも全て話した。
「だからこれはもう無理だと思い始めました。なので、1年生の間だけはなんとしてでも我慢してきました。でも、2年生になってからも同じようなことがあるって考えると、やっぱり自分の気持ちを落ち着かせて、自分のペースで勉強とかした方が良いと思いました。私の親には本当に申し訳ないとは思うんです。でも、精神状態が不安定になるよりは、こうやっていたほうが気楽なんです。先生、これって頑固でわがままなんでしょうか。」
先生はずっと無言でいた。もしかしたら、私の相談に乗っていることを後悔しているのだろう。きっとそう。私が我慢すれば容易だけなのにも関わらず、言ってしまった。自分は醜い人間だ。そんなことばかり頭の中で考えていた時、泣き始める声がした。頭を少し上に傾けると、先生がハンカチを持ち、むせ返っていた。
「、、ごめんなさいね。なき沈んでいるところを見せるのははしたないよね。ここまで色々考えていたのね。頑張ったのよね。本当に、本当に偉い。」
先生の慰めと涙につられたのか、目から大きい涙が何粒も零れ落ちた。
「佐藤さん、本当にごめんね。優しくて努力家。そんな佐藤さんはもっと幸せを感じるべき。一旦、あなたのために何かできないか、考えてみます。」
涙を何度も何度も拭いながら、言っていた。
10節
次の日、私は久々に勉強をした。内容を理解していたとしても、その知識をどう使うのかを考える力を養わないといけないと思ったから。苦手な現代文は相変わらず手を出すことはなかった。
数時間たち、倫理の問題集を十数ページ解いた時だった。ふと、K先生が涙を流していた場面を思い出した。あの時、どう声をかけたら良かったのか。そんな思考がやめられなくなり、勉強はやめた。
昼ごはんをサッと食べ、制服を着て、家から出た。自分から行くにはかなりの自信が必要だったと思う。でも、それより先生のの表情が気になり、行くという選択肢しかなかった。
学校に入り、先生と会えないかなと考えながら、準備室に行こうと廊下を歩いていた時だった。すると、不図押し殺すような怒鳴り声が聞こえた。
「何ウロウロしてんだ!!授業中だろ!」
人が怒鳴るところを聞くのは久方ぶりで驚きのあまりに走ってしまった。
「止まりなさい!」
声を響かせ、足音も段々と大きくなってきた。私は恐怖心を抱え、必死に少人数用の教室に逃げ隠れた。しかし、事もなく、居場所がバレてしまい、腕を掴まれ、引き摺られた。私はあわてふためて逃げようとしたが、握る力が強すぎてできなかった。その時、ドアをガラガラと開く。
「Y先生、どうしたんですか?」
聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
「こいつ授業中なのに廊下で散歩してたんで、教育させようと、逃げてったのを捕まえに。」
「あれ、佐藤さん?今日は自分の意思で来たのね。」
でも、私は男の先生がどうしても怖くて、声が出なかった。
「Y先生。連れてくのであれば、腕を強く握らないでください。そして、追いかけるってどういうことですか。このまま続くようだと、Y先生、あなた、問題になりますよ。」
K先生は鋭く言った。全て察していたようだった。
「あ、。すみませんでした。以後気をつけます。」
「その反省の言葉だけでは信頼はなくなります。きちんと行動にも移せるようにしてください。私は今、この子と用があり、お話ししますので、Y先生はもう大丈夫です。」
「佐藤さん、ごめんなさい。このことは親御さんに内密していただけるとありがたいです。」
Y先生はそう言って、どこかへ行った。
「佐藤さん、なぜ走ったのですか?もし、何かにぶつかったり滑ったりしたら、思わぬ事故に遭うことだって考えられたんですよ?」
「、、ごめんなさい。」
「今回だけよ。まぁそれはそうと、今日は勇気を出して学校に来たのね。」
さっきの鋭い口調から、すぐにいつもの優しい声に直して言った。
「え、えっと、、。先生、元気かなって、思って。」
「私は見ての通り元気よ。でも、他に何かあるんじゃないの?」
先生には敵わないんだと感じ、私は半笑いしていた。
「、、やっぱり先生はなんでもわかるんですね。なんか、読心術でも習得したんですか?」
「佐藤さんにとっては、そんなところかもしれませんね。まぁ話をしたいのであれば、準備室の方で少し待っていてもらえないかな。あと少しで20分ほどの教員会議が始まるから。」
「わかりました。待っていますね。」
私は微笑んで言った。
11節
先生が会議終わるのを待った。その間は、先生の読心術についてずっと考えていた。多くの人が持っているわけではないことは、感情が読み取れない自分でもわかっていた。だから、どうしたら読めるようになるのかは私には全くわからなかった。
悩みに悩んでいたところで、ドアが開く音がした。優しいオーラを放つK先生だった。
「お待たせ。今日はなんで学校にこようと思ったの?」
「なんでって、、先生のことが気になっていたからですよ。」
「ん?どういうことかな?」
「、、昨日、先生は目から涙が溢れていました。その時の心情が読み取れなかったんです。泣いている理由がわからなかったんです。それが気になって気になって、最終的に先生に聞こうかと思って、学校に来ました。」
「そうだったのね。あれはね、単に佐藤さんの話に既視感を感じたというか、なんというか。」
しばらく無言が続いたあと、先生は息を深く吸って言う。
「実は昔、私も学校に行くのが嫌でしょっちゅう学校を休んでいたの。でもね、休んでいたことで多少後悔している部分もあった。もしかしたら、この思いはあなたが将来に持つものと異なるかもしれないけれど、後悔してほしくないと思っている。今を大切に生きてほしい。授業は受けなくてもいい。でも、学校に来て勉強すること、課題を出すこと、コミュニケーションを取ることを忘れないでほしい。あと、苦手科目もきちんと勉強して、立派に卒業してほしいと思った。課題ではもちろん頑張りは見えたけれど、それだけだと足りないからね。」
「あ、、はーい。」
目を机から窓へゆっくりとそらしながら返事した。
「苦手なのはわかるけれど、現代文は他の科目でも必需なんだからね。今は現代文の先生ではないけれど、数年前までは担当していたから教えるよ。そんな顔はしない。苦手な人でも絶対に理解してもらえる自信しかないんだから。」
先生は微笑みながら言った。
12節
後日、私は先生に現代文の学習方法を教えてもらうことになった。先生は分厚い3冊の参考書とプリントがたくさん入っているファイルと机に置いた。
「勉強すること、こんなに多いんですね、、」
「これくらいやらないと大学受験間に合わないから。はいこれ、レジュメ。」
手渡された紙に一度、目を通してみる。
「直喩と隠喩の違いについて、、」
今までみてきたプリントの中で、文字の操り方が他のものとは異なっていて、字も間隔が開いていて、スラスラ読みたくなるような気持ちになる。
「これらを一通り読み終えてから、実戦問題を解いてもらいます。おそらく佐藤さんなら解けるはず。」
「問題が解けたら、現代文は得意ってことになりますか?」
「まぁ、得意の一歩手前って言ってもいいんじゃないかな。これから勉強は教えるから、読み終わったら、理解できなかったところを私に見せること。教えてあげますので、成績は上がると思います。まだ高校2年の春ですから、時間はたっぷりあります。ただ、1日に20ページは読み進めること。そうすれば一週間程度で読み終わります。読み終わったら、改めて学校に来てくださいね。ここまで聞いて何か聞きたいことはあります?」
「、、えっと、家じゃなくて学校で読んでおくのはありですか?」
「あ、え、あ、うん!もちろん。あなたが望むのであれば。教室は準備しておきますね。」
「ありがとうございます!」
なぜかわからないが、顔が熱くなり、勝手に頬の筋肉が上がってきた。そんな顔に、先生はじっと見つめて言う。
「なんか、顔が赤くなってきたけど、気分でも悪いの?」
「え、?そんなことないですけど。」
「あら、そう。でも熱っぽいんじゃない?ちょっとおでこ触らせて?」
生ぬるい先生の手のひらが額と接した。どういうわけか、顔がさらに熱くなってきた気がする。動機も、し始めているのかもしれない...。
「ん、、。熱、ありそうね。一旦、家帰ったほうが良さそうね。お母さん呼ぶ?」
「あ、いえ!?私は本当に大丈夫ですので!一人でも全然帰れますよ!」
「そう?じゃあ、帰ってきてから、私のメールの方に無事に帰れたこと知らせてくれる?心配しちゃうから。」
「わかりましたよ、、んじゃ、もう帰りますから。」
13節
気持ちがかなり昂っていたのか、この感情を抑えるのに必死だった。私らしくなかった。だから、自分の部屋の布団の中に潜ってそのくすぐったい感覚を抑えようとした。
数十分経ってもその感性はなおらさなかった。もしかしたら、久しぶりに趣味に専念すればなんとかなるかもしれない。そう考えて、ミニコラージュをし始めた。数年前から女子の中で流行っているのをインターネットで見て、クオリティの割には作りやすいことに感銘し、一時期ハマっていた記憶が蘇ってくる。
「当時は何かに縛られることもないで想像をいかせたよね...」
そう言いながら一品完成させる。頭の中で何か物足りなさを感じてしまった。空虚な気分がずっと続いた。この穴を埋めなきゃ。方法は思いつかない。なにかがおかしい。下手したら、さっき先生が言ったとおり、熱なのかもしれない。一旦、熱を測らなければ...。先生...。先生...。
「あ!!!メールしなきゃじゃん!忘れてた!!」
体温計のことは忘れ、瞬時にスマートフォンを開き、メールを打ち始めた。
"K先生、こんにちは。メール遅くなってすみません。1時間くらい前に帰宅しました。体調の方は学校にいた時と同じで熱っぽいみたいでした。でも一時的なものなんおで、明日治れば学校来ます。"
「おっけー。」
まだあの変な感覚の感情を持ったままお風呂に入ってすぐに寝た。明日は早起きするんです。感情も早く落ち着かせたいし。
14節
朝早く学校に行って、先生に準備してもらった教室で現代文のレジュメを読み始めた。20ページなんてあっという間に終わった。なので、次の日、そしてまた次の日のものを読み始めた。先生のプリントはわかりやすいから、その日のうちに全て読んでしまった。読み終わった140ページ全てが頭の中に入った気がしたので、職員室へ行き、先生を呼んだ。
「わかりやすくて、次から次と読みたくなってしまい、全て終わらせちゃいました。全部理解できたと思うので、実践問題をやりたいです。」
「早いのね。でも今日は問題を解かないよ。」
「それはどうしてですか?」
「忘却曲線って知ってる?」
「確か、今100%理解していたら、次の日には70%に、その次は50%しか定着していないやつでしたっけ。」
「そんな感じ。だから無闇に演習プリントをやるのも意味ないと思うの。今一通り読んでいるのであれば、明日もう一度読んでもらいます。その後にどう言ったことをするのか説明しますね。ちなみに、読むのがだるいとか言わせませんからね。急がば回れという言葉があるように、急いでいると後から苦労するだけだから。」
「先生はなんでもわかるんですね。読心術でも持っているんじゃないですか?今度教えていただけませんか?」
「読心術ね、。少なくとも、今のあなたにはまだ早いですね。まずは現代文の理屈を理解しないと。マスターできるようになる時期になったら教えなくもないけれど...。」
15節
改めて学校に行き、あのプリントをもう一周読破した。先日と同様に先生を呼びに行った。
「きちんと読みましたか?」
「はい。」
「質問してもいい?」
「はい。」
「逆説はどういう時に判断できますか?」
「...例えば...命題がある時、一見合っているように見せかけて、実は、そこには矛盾が起きているときに逆説があるって考えられます。一般的にはこれが正しいとされていますが、実際の意味は違うんじゃないかとか...。«しかし»とか«だが»といった接続詞が使われる時に判断できます。」
「じゃあ、小論文とかで逆説の接続詞を使う時の注意点は?」
「二重否定になって主張したいことがおかしくならないように気をつけること。使いすぎに注意すべき...とかですかね。」
「ちゃんと理解しているのね。他にも質問したいところだけれど、今回はここで終わりにします。それらのプリントは返していただけますか?」
私はスッと手渡した。先生は再び話し始める。
「では、今度は演習問題を渡します。正答率が8割以上だったら、次のステップに進みます。出なければ、改めて精読してもらいます。」
「え...。そんなの無理ですって。」
「相変わらず自分に自信がないのね。」
「それは当たり前ですよ。苦手な科目なんですから。」
「でもさっきの質問に答えていたときの自信はどこに消えたのかしら。」
黙り込んでしまった。
「ハードルが変わる時に気持ちもすぐに変わる。演習問題をきちんと解ける自信がないのなら、また読む?」
「...やります」
「なんて?」
「問題やります。」
「そうでなくては。じゃあ、今渡します。もし解けなかったら...」
「また読む。」
「ちゃんとわかっていますね。期待していますね。」
少し強気なところを見せながら実践問題集を受け取った。家帰ってやり始めよう。先生にはできるって証明しないといけない。じゃないと、前には進めないんだ。
16節
中学生のときの運動会でもらった藍色のハチマキを頭に巻き、私にもできることを証明するためのモチベーションを上げた。
「なんだ、これ解けるじゃん。さっきの消極的な言動はなんだったんだろう。」
好きなモーツァルトの曲を蓄音機で流しながら、鉛筆をスラスラ動かす。
終盤に突入!そう思っていた。背筋に冷たいものがスッと走った感覚。手が少し震えて鉛筆を落としてしまった。…前にも経験した気がする。
「あなたの実力はそんなもんなんだね。ハードルが変わるだけで気持ちがすぐ変わる。」この言葉が浮上した。
「いや、先生は私に試練を与えているんだ。今はきちんと集中して解かないと。」
考えを改め、必死になって解くことを試みた。最終的には書き終わらせることができた。
「先生、終わらせたよ…。明日学校に行って、80%以上取れていると良いなあ」
今晩は鼓動を少し抑えて寝た。
17章
目が覚めると、テストを提出する日がやって来た。急いで学校へ向かった。先生は、例の教室で待っていた。
「おかえりなさい。」
「ただいま…って、え?」
「どうかしました?」
「おかえりなさいっておかしくないですか?家でもないのに」
「帰るところが家だけだとは限らないでしょう。」
「ま、まあそうなんですが、ここ、学校ですよ?」
「そんなに驚かなくても良いと思うけれど。そもそもここに帰ってきてるんだから、使っても良いでしょう?」
「先生、話が単純化されすぎてません?」
「そんなこと言われても、ねえ。社会は単純化して考えないとやってられないのよ。」
「はあ…。それはそうと、採点お願いします。」
「自信があるからそれを言うのかなあ?」
「そこまでないです!でも、頑張りました。」
例の問題のことは言及しないでおいた。先生はその場で青ペンを使って採点し始めた。
「そういえば先生、青でまるつけするんですね。」
「あなたが前に課題出したとき、それでつけていたからよ。赤はインパクトが大きすぎるのかなって。」
「まあ、半分当たってますね…。」
すると、先生は改めて添削し始めた。しばらく沈黙が続いた。その間、ペン先をじっと見つめた。
18章
採点は終わったようだ。
「佐藤さん、あなたは、満点だったわ。」
「そうですよね…8割取るわけないですよね…」
「取ってるよ」
「え、あ。取ってるんですか?ち、ちなみに何点です?」
「100点」
「え、私が…?」
「他に誰がいるのよ」
「嘘…ではないですよね?」
「私が嘘をついているように見えますか?」
私の表情筋がコントロールできなくなってきた。それでも笑顔になることを躊躇していたので、できるだけ平常を保とうとした。
「佐藤さん、次のステップに入りましょう。」
「え、あ、もう良いんですか?」
「当たり前でしょう。このテストで満点をとっているのだから。んじゃ、ちょっと待っていてくれる?」
先生はそう言って、教室から出て行った。数分後、ホチキスで止められている束のプリントをいくつか持ってきた。
「今のあなたなら、なんでも解けると思います。なので、全教科のテストを一旦解いてもらいます。そこに出た点数は、課題点と小テスト点として加点します。」
「じゃないと、成績が大変なことになりますもんね...」
「そうね。ただ、今はまだ行いません。これらのテストは来週の月曜日と火曜日に分けて実施しましょう。その時までにきちんと復習してきてください。」
「10科目ですね。体育と保健が一緒のものらしいので実質11科目だけれども。」
「わかりました。頑張ってみます。」
19章
帰宅し、3日くらい勉強に励んだ。家での学習は意欲が低下するため、カフェや図書館で長時間集中して問題集をひたすら解いた。
そしてテスト当日、脈拍が多少リズムを外しながらも学校の例の教室に行く。先生もまもない時間できた。
「おはよう。少し疲れているようだけれど、きちんと眠れた?」
「そこまで寝ていませんね。大体2から3時間くらい、だったと思います。」
「結構短いね。普段はどれくらいなの?」
「平均して4、5時間くらいだと思います。やることがあるので。」
「普段から短いのね。それで大丈夫なのであれば、良いとは思います。」
先生は何か聞きたそうにしていた。睡眠時間を削ってまで、家で何しているのか、だと思う。でも口には出さなかった。これはきっとわざと聞かなかったのだろう。
「では、テスト始めましょう。順番は現代文、数学、日本史、地学、コミュニケーション英語です。テスト時間は各30分で間の休憩は約10分程度にしましょう。質問はありますか?」
首を横に振った。
「わかりました。では、はじめ。」
20章
テスト開始の合図で鉛筆を持った。今時、ほとんどの人はシャープペンシルを使う。でも私は常に鉛筆派。そっちの方が集中しやすく、持ちごたえがあると言い聞かせている。
最初は現代文なので、少しは抵抗を感じている。それでも、前回のテストが満点だったことで、ある程度の知識と論理的思考力はあると実感できた。なので、気分に圧迫されることはんかった。全て時間配分に気をつけながら、流暢に問題を解いていった。
「やめ。鉛筆を置いて。」
鉛筆を置いたと同時に息を吐いた。
「...つかれたー」
「お疲れさま。次は古典ね。でもその前に10分程度休憩してください。」
「にしても、久しぶりのテストって案外疲れますね。」
「それは集中力がいるからね。今日はあと4つあるので、頑張りましょう。」
「はい。頑張ります。」
そう言って机上に上半身をだらっと乗せて休息した。
テストが再開すると、現代文のように問題を注意して読み、手を動かす作業に戻る。テストが終わる時は、上半身を机上に乗っける。このようなループで今日のテストは乗り越えた。
21章
テスト2日目。今日は得意である理系科目もあった。数学と地学の場合、制限時間は30分ずつとはいえども、すぐに解き終わらせた。大体15分くらいだったと思う。
最終科目はK先生が担当している倫理であった。教科書に書かれているものと同じものばかりだから、かなり簡単だったといえる。とはいえ、中には新聞に記載されていた内容もあり、思い出すのに時間はかかった。
テストの制限時間が終わると、先生は合図をする。
「二日間、お疲れさま。」
「ありがとうございます。どの教科も時ごたえがありました。でも、実際に解けたかといえば、ところどころ解き方を忘れてしまっていたところがあり、難しく感じた問題もいくつかありました。」
「どの科目も定期テストよりは難しめだから、解けなくても仕方ないね。んじゃ、これから採点しますね。」
丸つけをしている間は、先生の真剣な顔を覗いていた。視線をずっと感じていたのか、目を私の方に向けることが何度かあった。その時は目を逸らそうとしていた。まだ目を合わせることは苦手なのです。
長い時間の祭典が終わると、先生は少し驚いた様子で言う。
「佐藤さん、ほとんどの科目は9割でした。中には満点もありました。現代文もすごく成長しましたね。」
「本当ですか...!」
「本当よ。あなたの場合は知識の吸収力が高く、思考力もずば抜けているのね。難しいと言っていた箇所もほとんどあっていたし、そこまで心配はしなくても良いと思う。これからは受験勉強に集中しているだけでも良さそうなくらい。教科書の全範囲からたくさん問題出して、短時間でスラスラ書いているくらいなんだから。」
顔が熱くなった。今まで、何かで褒められることは滅多になかった。そのため、なんだが身体もくすぐるような気もした。先生は安心しながらも少し考え込んだ顔をして話し始める。
「そこで提案なのだけれど、一旦学校の授業を受け直してみない?」
え。先生は何を考えているのだろうか。自分の意識が身体から遠のいてゆくように、頭が真っ白になった。
22章
「何でですか...」
「出席日数が足りないと留年するからよ。大体60日を超えるとほぼ確定でまた2年生をやらないといけない。でも、佐藤さんは地頭良いし、1年やり直すのはもったいないよ。だから授業には出て欲しい。」
「...無理です。」
「理由はクラスメイト?」
少し頭を傾げた。
「大丈夫。私がいるのだから。もし何かあれば言って。その時は方法を探すから。これは約束する。」
「先生、本当に助けてくれるのですか...?」
「助けます。私が一度でも助けられなかったことはありますか?」
「ないですね。勉強に追いつくように課題を出してくれたり、苦手な現代文を教えてくれたり...。」
「そうでしょう。だから安心してほしい。実際に、佐藤さんは自覚していないのかもしれないけれど、思っている以上に強いし、思いやりのある人でもある。あなたが身に付けたかった例のスキルも今はあるから。」
確かに...。確かに先生は、学校が始まってから今までずっと救ってくれた。見捨てられることは一切なかった。以前、先生が言っていたように、一度は信じてみても良いのかな...。一度だけでも良いから。
「わかりました。登校します。」
「考え直してくれてありがとう。では、明日待っていますからね。」
先生はそう言って、いつもの安心するような笑みで手を振ってくれた。
23章
2年生となって初めての授業。薫風に吹かれる季節は何か新しい知らせを告げているような気がした。先生が助けに来てくれるという安心感を頭の片隅で理解していたからかもしれない。
でも、またあの雰囲気になるのかもしれない。椅子に書かれたあの言葉、ロッカーの鍵の件...思い出すだけでも何か不吉な予感を意識してしまう。なるべく深く考えないようには心がけた。
朝は早い時間、一番乗りで教室に入り、授業が始まるのを待った。その間にクラスメイトは次々と現れる。初めて見る生徒も一人。おそらく転入生かなんかだと思う。去年の前半は皆と話し、時間を過ごすことは多かったので、名前も顔も皆覚えている。担任の先生の顔も初めて学校に来た以来。
「それでは出席を取ります。」
ホームルームが始まり、担任は次々と名前を呼んでゆく。
「...えっとー。まあいないと思うけど、佐藤。」
「はい。」
「あ。君が佐藤か。よろしくー」
「あ、はい。」
私の席は最前列の前だから存在感あるはずだけれど。むしろ、目立っているよね。なのに、あまりリアクションがないのか…。
「はい、全員揃っていますね。今の時点では連絡は特にありませんので、ホームルームはここで終わりにしたいと思います。号令。」
「起立。気をつけ、礼。」
号令も終わり、授業の準備をする。1時限目は得意である世界史であった。準備も終え、イスにずっと腰をかけていたら、見覚えのある人物が目の前に立った。お嬢さま生活をしていると言われているA花さんだ。去年と同様に髪の毛はくるくるしていて、姿勢も綺麗だ。
「佐藤さま。お久しぶりですわね。最近はどうお過ごしでいたのです?」
相変わらず皮肉に聞こえる口調。それでも、気にしないふりをして話してみる。
「そうね、最近は受験勉強ってところかな。」
「授業をおサボりながらも、お勉強のなさるの。意外ですわ。」
「A花さんはどう?」
「わたくしですか?わたくしは、毎帰宅、«マリアージュ・フレールのマルコ・ポーロ»を淹れて、フランス語会話のレッスンをしていますわ。」
「マリアージュ・フレールはミント風味で、マルコ・ポーロのサブレとマッチしているから、味わい深いもんね。」
「あら、佐藤さまってティーにお詳しくて?」
またまた。皮肉の笑顔が懲りない。以前はkのじょが悪いように言っているかどうかを感じ取ることは難しかったけれど、今の自分はあの術を持っている。去年は、おフランス製がドーのコーのだとか言っていて、感嘆していたけれど、今は嫌味を言っているようにしか感じられない。ここで一つ賭けてみようかな。
「まあ、ティーに関しては、フランスと日本のものであれば多少わかるよ。」
この一言でA花さんが豹変した。
24章
「あら、そうでしたのねえ。では、これはどうでしょう。«エディアールのアールグレイ・インペリアル»。このティーの特徴を語ってみてくださります?」
「確か1854年からフランス老舗で売られている高級食材が扱われていると言われていて、黒い缶に入っているあの紅茶、ね...。インペリアルということもあるから、ベルガモットの香りに華やかな感覚を味わえる、色が多少暗めの紅茶よね。」
「...そ、そうだわね。正解ですわ。よくご存知で。なら、«クスミティーのアナスタシア»はどうですの?」
「簡単にいうと、100グラムで約3500円くらいする多少高価な紅茶で、ストレートすぎず、甘すぎず、というのが特徴的。同じくベルガモット、さらにはライム、レモン、オレンジフラワーの香りが芳ばしい、ってところかな。」
こうやって語っていると、チャイムがなる。
「今回は答えられたかもしれないけど、今度は答えられないようにしますわ!」
A花さんは、少し悔しそうな顔をしつつも、傲慢な笑顔でこの場を去った。
授業は始まる。2年生となって初めての授業はどんな感じなのだろうか。さっきからある不吉な予感は段々と大きくなりつつはある。
25章
「点呼を取ります。」
世界史の先生はそう言って、教卓に高そうなシルバーの時計をそっとおき、名前を次々と呼び始める。
私の名前にたどり着くと、
「あなたが佐藤さんですね。はじめまして。」
と一言放った。私は無言で頭を傾けた。あまり話したくない気分であったから。
出席を取り終わり、すぐに話の本筋に入る先生は、立板に水の如く話しているだけで、去年の世界史の授業と比べると、クラス内は静かだった。だから落ち着いて授業を受けることができた。
今日の授業はほとんどこんな感じで、何か嫌なことが起きることもなく終わった。帰りに、さっきの忌まわしい感覚は勘違いだったのかもしれないと考えながら、K先生と話に行くために少し駆け足で職員室へ向かった。
「佐藤さま、そんなに急いでどうしたんですの?」
「A花さん。特に何もないけれど。」
「そうですか。では、わたくしもついて行っても良いですの?」
「それは...。」
「佐藤さん。ここで何しているのですか?」
声をかけたのは、K先生だった。私が普段学校に来て一緒にはなう時よりも、背筋が凍りつくような声と目をしていた。これはきっと何かのサインだ。それを察して、これから怒られるかのように振る舞った。
「百合園さん、これから佐藤さんと用があるので、後でいらしてくれますか?」
A花さんは気を悪くしたような顔で先生にいう。
「あら、先に一緒になったわたくしを合理的なことに徹していらっしゃること。」
「すみませんね。大事なことなので。佐藤さん行きましょう。」
A花さんがどんなことを言おうと、先生はブレることもなくその場から私を脱してくれることに成功した。
「この教室なら、百合園さんが来ることもないかもね。」
26章
「本当に助かりました。」
「なんのことかしら。」
「百合園さんのことです。」
「あぁ、それくらい大丈夫よ。彼女に私たちが何をするかを知る権利はないからね。」
「にしても、、先生は私に優しいですよね。他の人といるときは、意外と冷たいのに。」
先生は、聞こえなかったかのように振る舞った。無言の状況も続いたので、気まずく感じたので、話す内容を変えることにした。
「あ、えっと、それはそうと、今日は大丈夫そうでした。」
「そう。一安心ね。明日も学校来られそう?」
心の底にあるあの不安の塊を抱きながらも、少し縦に頷いた。
「...なんかあったの?」
「...いや、特にないです。明日学校に来ますね!んじゃ!」
先生の顔を見ずにすぐに家へと向かった。先生はきっと察している。きっとでなく、絶対だね。先生には敵わないね。いつか、嫌に感じた時に先生にその思考を読心術で読み取られないようにしないと。先生には申し訳ないけれど、感情のせいで心配されたくない。
明日から通常通り行くことになる。A花さんの何でも知ろうとしたり、自分の方が知的ですよアピールをしたりするんだろうな。それでも迷惑はかけたくないから、行くんだけど...。
27章
学校生活は、順調そう。授業も静かだし、クラスメイトに何かされていることもないし。体力もだいぶ慣れてきた様子。そんな生活を二週間ほど立った後だった。
この日には午後に体育があり、朝早くきた私はロッカーを開け、体操服を取ろうと思った。しかし、体育袋がどこにも見当たらなかった。忘れたはずはないと思い、何度かロッカーや他の場所を見てみたが、それでもなかった。家に持っていった記憶もなく、どこかに忘れたのではないかと思い、体育館や更衣室へ探しに行った。探りに探ってみたものの、その痕跡がどこにもなかった。仕方なく教室へ戻り、体育は見学することにした。
奇妙に思ったのはこれだけではなかった。英語の授業が終わって、お昼を教室から取って中庭で食べようと思いながら、スクールバッグを開いた。入れたはずのランチボックスが見当たらなかった。
この時、何かを察した。おそらく、クラスメイトがやったのだろう。ストレスを抱えてしまうのもいけないかと思い、クラスメイトに見られないように、人気のない場所へ向かった。
すると、聞き覚えのある足音が耳の中に入り込んできた。
28章
「佐藤さん。ここで何をなさっているのですか?」
「...べ、別に、何もしてないよ。単に涼もうかなって。」
「あら、そう。てっきりクラスメイトから逃げていたのかと思っていましたわ。」
この状況に見覚えがあった。去年のアレ。記憶が段々と蘇ってくる。
「最近の生活はどうですの?」
「まあ、慣れつつ入るよね。」
多少の焦るを感じながら答えた。
「そうねえ。では、もっと慣れるために私からのアドバイスをあげるわ。」
A花さんは、指をパチンと鳴らした。足音とヒソヒソ声が聞こえ始めた。複数の女子が現れる。
「彼女をとびっきり可愛くしてあげて頂戴。」
私は一人のハサミを近づけてくる子を見て、放心状態になりかけた。正気を戻して、この状況から逃げ出さなければ。そう思い、ハサミを持っている子の逆側を突っ走ろうと考えた。逃げ始めた瞬間、他の女子たちも追いかけにきて、腕を引っ張ってきた。力づくで逃げようにも、数の多い相手には敵わなかった。ハサミの子が少しずつ近づいてくる。コトン、コトン、チョキ、チョキ。ローファと閉じたり開けたりするハサミの音が次第に大きくなってき、悪魔の歌の伴奏かのように聞こえる。
私の間近でハサミが大きく開かれた瞬間、
「何をしているのでしょうか?騒がしいですよ。」
29章
先生の声が廊下で鳴り響いたのであった。
「あら、K先生、いらっしゃったのですね。奇遇ですわ。」
「何をしているのですか?」
「K先生には関係のないことですわ。」
「いえ、それはないと思いますが。ハサミは振り回りていると危ないので私が預かりますね。そして、イエス・キリストみたいに佐藤さんを掴んでいるようですが、何かの儀式でしょうか?」
「K先生、わたくしのパパのことご存知ですわよね?」
「ええ。勿論存じます。」
「パパに言えば、K先生の職場がなくなることはわかっていらっしゃる?」
「ええ。それも存じます。」
「仕事辞めたいのかしら?」
「百合園さんは知らなくても良いことがあると思いますが。まず、彼女を手放してから話し合いませんか?」
「お断りするわ。下手なことすれば、佐藤さんに痛い目合わせるわよ。」
先生は、深く息を吸って言った。
「もしかして、そのハサミでです?それだと、あまり切ることではないのでは?私が切れ味の良いものを渡しましょうか?」
「え...。」
先生の試行錯誤が理解できずにいた。A花さんの味方についていたの...?先生に見捨てられたの...?でも、最初の手放すように促したのはどういうことなの?頭の中が真っ白になってしまった。
「あら、考え直したのね。やっぱり職場は失うと困りますよね。そうと来れば、K先生の手に任せるとしましたわ。では、あの小汚いモップを切ってもらいますわ。」
「わかりました。」
先生が目の前に来た。彼女の目は殺意が湧き出ているかのようだった。よっぽど私のことが嫌いだったのかな...。迷惑だったのかな...。
30章
先生は手に持っていた切れ味の良いと言っていたハサミを手放し、私の腕を引っ張りながら大声を出し、群衆から逃げた。なぜ置かれていたのかがわからない校門前のスクールバッグと先生の手荷物を持ち出し、学外へと疾走していった。状況を飲み込めずにいた私は、先生の速度に追いつくようにだけ走っていき、引き摺らないように試みた。
先生は学校の一駅先へまで速度を落とさずに走った。そして、突然立ち止まり、呼吸を整えながら「ごめんね。」の一言を放す。息がまだ荒れていながらも、ポケットの古銭入れを出し、近くの自販機にお金をいえて水を買った。
「佐藤さん。これを飲んで呼吸を整えて。これからの道は長くなりそうだから。」
私は水を受け取り、飲み始めた。ボトルを口から離した後、私は先生に尋ねる。
「先生、私って迷惑ですか?」
「迷惑であったら、ここまで連れてっていたと思う?」
いつもの落ち着いた声で返答する。
「にしても、よかった。なにかがおかしいと思っていたからそれに気づいてよかった。」
「でも、先生...。仕事は大丈夫なんですか?」
「まあまあまあ。なんとかなる。実は学内以外でも色々活動しているし。」
「学校の先生って副業ダメなんじゃ...。」
「鋭いところは突かなくて良いのよ。それはそうと、今からどこ行くかだね。一旦、こっちへ行こうか。」
先生は私の腕を引っ張っていった。たどり着いたのは、全世界で安くて着心地が良いとされているブランド店だった。
「好きなものを選んで。」
「え?」
「いいから。制服だと居場所がバレちゃうでしょう。」
「は、はい...。」
先生は何がしたいのだか。そう感じながらも先生の言葉に従った。
31章
「それ、似合いそうね。」
いかにも値段がお高めの大人っぽいアイボリー色のフレアワンピースをじっと見つめていた私に言った。
「そんなことないですって!私には勿体無いくらいです。」
「大丈夫。私の感性が間違うことはない。一旦、サイズチェックしようか。」
そう言い、ワンピースを手に取り、私の手を握って試着室へ行く。私は先生に渡されたワンピースを更衣した。
「似合うね。かわいい。んじゃ、買いましょう。」
「え、でもこれ...高いじゃないですか。私にそんなお金ないですよ。」
「誰が佐藤さんが買うと言いましたか?」
先生は私を強引に説得するのであった。最終的に私は折れてしまい、買ってもらうこととなって、その場で着替えることになった。大人っぽい洋服を着たのは初めてだった。今まで運動服ばかりだった私にとって、ある意味新鮮な気分を味わうことはできた。
「んじゃこれから、この狭き世界の何もかも捨てましょう。これからは、もしかすると、危険な目に遭うのかもしれない。私は捕まってもなんでもいい。でも、佐藤さんはどうしたいのか。あの高校にはもう戻れない。授業を特別に教えていたのも、こうなるとわかっていたからなの。副校長の私が言うのは本当におかしいことであるし、そもそも一般常識的におかしいことだけれど、どこか逃げましょう。たまには人生から逃げることは大事です。あなたがそれを教えてくれました。学校に行かずに、音楽を聴きながらのティータイムだったかしら。それで時間を過ごしていた。あなたの本来の幸せから切り離してしまったのは申し訳ない。でも、私はあなたに色々教えてあげたかった。今、この時点からあなた自身の意見を尊重してあげたい。佐藤さんは私が読心術を身につけていると思っているかもしれないけれど、実際にはないですよ。全て本からの情報を積み重ねただけです。«哲学を学ぶ»と言うのはつまり、こう言うことなのです。結局、全ては昔の人の思考に縋り付いているだけなのです。なので、あなたがどうしたいのかによって、あなたをそこまで導こうと思います。それが副校長としての最後の指名になると思います。不登校生活に戻っても良いですが、あなたの選択に委ねます。」
「私は...」
32章
どう答えれば良いのか、私にはどうしてもわからなかった。K先生に迷惑をかけているようにしか見えない。教員という仕事を失わせ、今では服を買わせている。そもそも先生の目的はなんなのか。そんなことも知らないでここまで逃げている。
逃げたかったあの現実からは避けることができた。私をいじめる者はいなくなって気が楽になった。でも、これは果たして正しい道なのか。学校に戻るべきなのではないか...。
「佐藤さん。あなたは迷っていますね。」
「先生にはなんでも見透かせれるんですね。」
「それはあなたが見透かされてほしいからでしょう。佐藤さんが私に何か訴えているようにしか見えませんよ。先ほど言ったとおり、読唇術ではありません。ただ、心は嘘をつけないんですよ。自分自身に嘘だと言い聞かせ、自分自身を騙そうとしている。それでは、壊れるだけです。だから身体はそれを誰かに伝えたい、甘えたい、そして不安をなくしたいと感じるようになる。
先生の言っていることは正しかったけれど、認めたくなかった。それがまた、私の顔に写ってしまうのだった。すると先生は
「ほらね。本当は悩みを全て聞いてもらいたいと感じています。要するに、今の時代でいう、ツンデレって者ですかね。」
33章
K先生と遠い街中で歩いている時、ふと考えた。もしこの二人でいる時間が長かったらどうなるのかって。2年生が始まって早々個別授業だとか読書だとか色々一緒にいる時間が多かった。今だと学校外というのもあるので、一緒の時間がもっと長くなる。その時の先生の感情はなんなのか。先生の気持ちだけは読み取ることができない。
「着きました。」
先生はものすごく豪華そうなタワマンビルを指差しながら言った。
「こ、これは?」
「私の知り合いから借りたビル。ちょうどアメリカに行かないといけないようで、その代わりに管理することを約束しました。なので、一時期、一緒に住みましょう。」
「え。先生、それは...。」
「どうしたのですか?」
「そんな気軽に言っていますが、本当に大丈夫なんですか?そもそも私は学校から逃げている時点でダメなことですし、先生と生徒同士ですし。」
「大丈夫だと思いますが。」
「いや、ダメです。やっていいことと悪いことの区別はしないと。先生が私を助けたいという気持ちはわかります。でも、こんなことをしていたら、先生が後で大変な目に遭います。」
「そうですか。わかりました。では、私は何があってもあなたの意見を尊重すると約束したので、ここでお別れしましょう。今は離れておいた方が良いかと。」
色々と頭の中は真っ白になりつつ、今後どうやって生きていこうか考えることにした。その間に先生はかわいいクマさんの絵柄がついた手帳に何かを書き込み、その部分を破りいった。
「佐藤さん。もし何かあれば、この連絡先にお電話ください。その時は佐藤さんの御相手をしますので。あと一つ。私の責任ではありますが、今、あなたは家から出て行ってしまった。そして学校からも逃げていった。住居はどうしますか。よかったら、その物件だけあ誰かにお願いして、住まわせていただけませんか。今は奨学金でなんとかすると考えて。あなたなら今後、活躍できるような気がするので。」
34章
先生の最後の言葉を受け入れ、新しい住処を探すことに。家族もクラスメイトも捨て、狭い狭いあの世界から逃げ出した今。全てが終わった気もしなくはないが、先生が以前言っていた言葉が思い浮かんでくす。
<実際に、佐藤さんは自覚していないのかもしれないけれど、思っている以上に強いし、思いやりのある人でもある。あなたが身に付けたかった例のスキルも、今はあるから。>
私の考えていることや性格は尊重してくれる。でもやっぱり、先生の考えていることはわからない。
「佐藤さん。今日からここがあなたの家です。そして、書類の手続きも完了しておきました。なので、私たちはここで一旦お別れですね。これから大変なことはたくさんあるかもしれません。それでも、あなたの思考を活かし、善い道を歩むこと。また、何かあれば、連絡ください。」
私は涙ぐみそうな顔をグッと堪えながら、頷く。
「先生、また機会があればよろしくお願いします。そして、今まで私を救ってくれようと頑張ってくれてありがとうございました。」
私はこれから泊まるアパートの前で突っ立って、先生が無言で少しずつ遠ざかっていくのを見送った。またね...。お元気で...。
35章
先生と離れてから数ヶ月経った。この期間中、私はアルバイトと勉強を両立した日々を過ごしていた。忙しさに飲み込まれそうな日もあった。それでも、勉強は不断にしてきた。全ては高校卒業認定試験のためだった。高校を離れた以上、私にはこれが精一杯であった。
<9/24 キーワード:心と乗り物(心揺さぶられるような感覚で)
昔からのメッセージ読み直して
僕らの関係を考えていたんだ
覚めそうで冷めないこの気持ち
いつか縁を切るだろうな
高所恐怖症の僕は
景色が見える高いところで
バスを見つめていた
あなたと電車でおわかれしたこと
切なく感じていたんだ
悲しさに塗れて歌い始めた
あなたについての歌を
一緒に歌っていたかった>
私が使っている分厚いルーズリーフのバインダーの最後のページにこの詩を見つけた。私が不登校だった時に書いたものだった。懐かしいと感じながら、何度も繰り返し読んだ。そういえば、幼い頃は音楽家を目指していたんだった。愛がなんなのか、なにが正義なのか、善い・悪いの区別はどうやって行うのか。それらの疑問を抱えながら私は作曲していたんだ。
「自分自身とか他人の気持ちなんてわからないのによく作詞したいと思うよね」
これが作曲する時の私の口癖だった。音楽はもちろん好き。でも、時には歌の気持ちに素直になれなくて。好きだけど嫌い。友達だけど敵。こんな時は他のことをするのがよいのだと自覚し、哲学への道を歩み始め、今の私に至る、と。
36章
久しぶりに音楽を聴きたくなった。蓄音機が置かれている喫茶店に行こうかな。きっと、人生を生きるためのインスピレーションが生まれてくる。そう期待し、息抜きのために外へ出た。
チャリン。喫茶店のドアを開ける。お客さんのいないガラ空きの喫茶店であった。
「いらっしゃい。お前さんみたいな若いお嬢ちゃんが来るようなところでないけど、大丈夫かい?」
カウンターでコップを拭いながら、一人の年配の男性が話し出す。おそらくその人がマスターなのだろう。
「えぇ。窓越しから蓄音機が見えたので、入ることにしました。」
「そうじゃったかい。あの蓄音機はのぉ、わしが妻と結婚するときに親戚からお祝いとしていただいたものじゃ。」
「へー。結構高そうですね。」
「さてはお前さん、マニアかい?」
「ま、まあ。過去に蓄音機を使って聞いていた頃を思い出してて。」
「その話、聞かせてくれんか?飲み物はサービスする。」
喫茶店のお爺さんは好奇心旺盛なのか、耳を傾けた。私の話を聞いてくれるんだとさ。なんと不思議な。
37章
「実は私が以前住んでいた実家にグラフォンがあって、嫌なことがある時、心を落ち着かせたい時にそれでよくクラシックを聞いていました。今の時代はスマートフォンやイヤホンを使用する人がほとんどで。確かに聴きやすさはありますし、気軽に聴けます。でも、それでは心は満たされなくて。レコードを優しく置いて、横にあるレバーをゆっくりと回すあの快感がたまらなくて。」
「その蓄音機はお前さんにとってなんなのかね。」
「それはもちろん命の一部ですよ。でも、今は会えない。だからその間はここに来てこれを眺めようかと思います。」
グラフォンを見つめ、撫でていた。懐かしい木材のざらざら感が自分の持っていたのと同じような肌触り。
「そうかそうか。いつでも歓迎だ。普段はどういうのを聞くんだね?」
「モーツァルトの『魔笛』です。モーツァルトのものであれば、『ピアノソナタ』とかも聞いていましたが、『魔笛』が圧倒的に好きです。他のクラシックもよく聴きますよ。」
38章
「一旦、かけてみるかい?」
「なにをですか?」
「お前さんが好きな『魔笛』じゃ。何度も聴いていたのに、急に聴かんくなれば、寂しさが増すじゃろう。」
“確かに...。“ と少し頷き、お爺さんはレコードをかけた。私は娘を怒鳴りつけるようなヒステリックな女王を思い描きながら、耳を澄ました。
地獄の復讐の炎燃え上がり
母の心を焦がす 娘よ
ザラストロ あやつが憎い
ザラストロ あやつを殺めよ
できないなら おまえは私の娘ではない
親とこの縁を切る
母との絆は終わり・・・(続く)
この歌詞が頭の中で再生され、いつの間にか目から涙が川のように流れてきた。懐かしい感覚を覚えながら、先生のことを思い出してしまった。
「大丈夫かね?」
「...」
彼の声が脳内で認識できず、私は無言。曲の世界に迷い込んだかのように、身体が麻痺してきた。
「おーい。聞こえとるか?おーい。返事せい。」
お爺さんは何か言っているようだが、なにを話しているのか、なにもわからんかった。頭が段々と朦朧としてきた。そして力も弱まってきたような気もした。次第には視界も暗くなった。
39章
ぴー。ぴー。ぴー。
聞き慣れない機械音が耳元で囁いていた。薄く目を開くと、見慣れない黒い点がいくつもある白い天井に、薄いオレンジ色のカーテンが自分の周りを囲っていた。ここがどこなのかを考えながら体を起こそうとしたが、金縛りのような感覚があり、起き上がれなかった。手足どちらもあまり動かせない。声は唸り声。私はどうしたものか。
数分して周りの状況が掴めるようになったのか、微かに話ごえが聞こえた。
「佐藤さんの容態はどうですか...!」
「落ち着いてください。きっと大丈夫ですから。」
「きっとでは安心できませんって!佐藤さんのところへ行かせてください。」
「静かに願います!他の患者様がご迷惑です。」
「でも...」
泣き噦るような声が段々と大きくなっていった。
「佐藤さん!佐藤さん!どこ!?」
以前にも聴いたことのある声だ。きっと...。
「せん...せい。ここに...います...。」
唸り声で返答した。私の声が聞こえたのか、足音が近づいてきて、カーテンが開かれた。
やっぱりK先生だった。先生は頑張って声を張ろうとする私を素早くぎゅっと抱きしめた。
「ごめんね。本当にごめんね。」
なんで謝っているのだろう。私、何かしたのかな...?
40章
「本当にごめんなさい。あなたを手放してごめんなさい。」
手放した...?一体なんのことなのか。先生は私をいつ手放したのだか。普通に価値観が合わなかったから離れただけじゃなかった?それが手放すことに繋がるの?私には意味がわからなかった。
先生は涙ぐんだ目を必死に擦っていた。
「先生、大丈夫...大丈夫だから。だから...もう...悲しまないで...」
「いえ、だめです。これは全て私の責任です。」
「な...んで...なんで...先生が悪いって...言うんですか。喫茶店のお爺さんは...?」
「佐藤さん、あなた、なにも覚えていないのですね。あのね、佐藤さん。あなたは、トラックに撥ねられたの。」
え?今、なんて?私が車に撥ねられた?なにおかしなことを言い始めたのだか。そもそも、先生はなぜここにいることを知っているのか。意味がわからなかった。
「あなたの大家さんが偶然それを見て、救急車を呼んだそうです。私にも連絡が来たので、それで駆けつけました。」
41章
状況が飲み込めなかった。私の容態も少しずつだが、回復はしてきて数時間経った頃だった。
「さっき、喫茶店のおじさんがとか言っていたよね。」
「あ、えっと。おそらくですが、私がとても幼い頃に話したことのあるお爺さんだと思います。今まで、あったことのない感覚でしたが、よくよく考えると、あったことがありました。そのお爺さんは、実家にある蓄音機と一緒のものを持っていて、私の好きなクラシック曲をかけてくれたんです。まあでも、多分自分の中の妄想だと思うので、語っても無意味だと思います。そういえば、私って、どこで車に撥ねられたんですか?」
「それは後に話すから、そのお爺さんの話をしてくれない?」
私が話題を変えようとするとき、どうしても先生はお爺さんの話を聞きたがる。先生は何か心当たりがあるのだろうか。私にはそこまで予測することができなかった。
42章
数週間して身体も動かせるようになり、退院できた。その後のことをいうと、以前に住むのを嫌がった、先生が友達から借りていたタワマンに居候することになった。初めて入るタワマンは、迫力がすごく、今までになかった感情を味わうことに。
先生はカードキーを使い、部屋を開ける。
「ここが部屋よ。今週はゆっくりしてね。」
二人で部屋に入る。とても大きい空間に本がずらりと並べられていた。いずれ憧れていた海外の図書館のような場所。私はこんな場所に来ることをなぜ嫌がっていたのか、不思議で不思議で仕方なかった。私が本に目を輝かしていた時、先生はいう。
「ここの本、読んでいいからね。」
先生のこの言葉で読む気力がさらに高まり、あまりの感情の昂りに早速読み始めた。
ページをペラペラとめくってゆく。知識が脳内に収納され、一冊読み終えるごとに一種の快感を味わう。こうして本をたくさん読んでいき、本のタワーができるのであった。
43章
ある日、いつも通り本を読んでいる私を先生は呼んだ。
「佐藤さん、見せたいものがあります。本当だったら、ここにきた初日から見せようかなと思ったのですが、あまりにも疲れてそうだったし、あまりにも本に没頭していたので、今日が良いかなと。」
すると先生は重そうにそこそこ大きい箱を運んできた。カッターを持ってきて、テープを切り、箱から蓄音機を出した。見覚えのある蓄音機だった。
「先生、これって...。」
「はい。そうです。佐藤さんが学校で話してくれた蓄音機です。」
「でもこれって...世界に二つしかないモデルのはず。なんで...」
「持っている理由ですよね。入院していた時、佐藤さんが幼いときにお爺さんにあったことがあると言っていましたよね。喫茶店のお爺さんは私の恩人なのです。だからというわけでもないですが、ちょうど彼の蓄音機を流そうかなと。」
先生はそう言って、蓄音機にレコードを置いた。
「懐かしいのよね。お爺さんがモーツァルトの曲をかけてくれたあの日のことが。」
私はこの一言でハッとした。私が見た夢はまさか...。
44章
私は先生の経験を見た。そう思ってしまった。きっと、先生も倒れたのかもしれない。単なるこじ付けなのかもしれないけれど。それでも良い。とにかく先生と話をしたい。
とある日の朝食。先生はコーヒーを片手にニュースを見ていた。そんな先生をじっと見つめた。
「どうしたの?顔に何かついてる?」
「いえ、先生って倒れたことがあるのかなって。」
「私?まあ、狭心症だったこともあって、倒れることは多かった方だと思うわ。」
「ちなみに先生の誕生日って1月27日ですか?」
「あ、えぇ、そうだけれど。どこで知ったの?」
「勘、ですかね。なんというか、狭心症だったら1月生まれとかの人がなりやすい病気として知られていますし。とはいえ、先生、今はその病気大丈夫なんですか?」
「なるほどね、勘が鋭いのね。そして病気のことだけれど、治療さえすれば治るから今は大丈夫よ。」
ここでほとんど確信した。にしても私、なんでここまで勘付いていたのだろう。直感には鈍い方であったはずなのに。
そこから、数日間は読書のふりをしながら、先生とあの例のお爺さんの関係について調査し始めるようになった。先生はきっと何かを隠しているに違いない。それはまるで、海の中の宝石なのかもしれない。知る価値は絶対にあるはず。
45章
数日後の夜だった。おやすにの一言を言うために、先生の寝室へ行った。
「...えぇ。佐藤さんも高瀬さんとお会いできたら、きっと喜びます。明日のお昼頃、伺いますね。」
私に聞かれないようにするためなのか、かなり掠れた声で先生は電話をしていた。そっと入るのも申し訳ないと思い、ドアから距離をとり、わざとドタドタと音を立てながら再び向かった。
先生はその音に察したのか、携帯電話を彼女の後ろに隠した。
「せんせー、おやすみー。」
「佐藤さん、今日はちょっとラフな感じなのね。」
「多分アドレナリンを使わなかったからそれが疲れに変化したのだと思います。」
「そう、。今夜はしっかり睡眠を摂るのよ。お昼はどこかに行くから。」
「どっかー...?」わざとあくびをしながら言った。
「眠そうだから、明日言うわね。」
「えー、まあおやすみ。」
寝室から出ながら言った。何か企んでいるはず、そう思った会話であった。
46章
朝となり、いつもはリビングでコーヒーを片手に持って飲んでいた先生の姿がなかった。
「せんせー、どこにいますかー」
遠くから先生の声が聞こえた。
「ちょっと今、手が離せないのー。15分だけ待っていて。」
一体どうしたものか。気になった私は、声の方面に向かって行った。どうやら倉庫の中で何かを探していたようだった。
「せんせー、手伝いましょうか?」
「いいわ。」
なんだか、氷のように冷たい返事をした。先生は、私がここに来ることを予想もしていなかったのだろう。
「んじゃ、朝ごはん食べてきます。」
それだけ言って、急いでその場から離れた。
47章
ちょうど正午にもなり、出かける時間となった。
タワマンから5分程度のいかにも古そうな住宅地を通った。その建物にはなんとなくだが、見覚えがあった。
「佐藤さん、どうかしましたか?」
「なんか、きたことがあるような気がして。幼かった時の記憶かもしれない。でも、デジャヴなのかもしれない。よくわかりませんが。」
先生は話を聞き流していたように思われた。普通なら、返答するはずの発言なのに。
沈黙の中、たどり着いたのは、あの夢で見た“喫茶店”だった。先生は堂々とドアを開いた。
「御免ください。高瀬さんはいらっしゃいますか。」
48章
「...はーい」遠いところから声がかすかに聞こえた。
「さあ、座りましょう。すぐに来ると思いますので。」
先生はそういうと、カウンター席に座った。数分後には高瀬さんと言われるお爺さんが表に出てきた。
「にしても、久しぶりだのぉ。二人とも。元気にしていたかい?」
「久しぶり?」
「なんだ、覚えておらんのかね。あんたぶっ倒れたんじゃぞ。」
「あ、高瀬さん!」
「あ、すまんすまん。」
状況が飲み込めなかった。そもそもぶっ倒れた、というのはなんなのか。もしかして、あの夢のこと...?だとしたら、先生は嘘をついていた?見たことがありそうなお爺さん。何が...。
また力が抜けるような、意識が遠のくような...。
バタッ。
「佐藤さん、しっかりして...!」
何かが聞こえる。でも認識できない。なーんだ。また、前と同じ...。
49章
ぴー。ぴー。ぴー。
ん。ここは...。ループしている。どういうことなのだろうか。カーテン越しに声が聞こえる。
「あなたの娘さまはまた狭心症で倒れてしまったようです。過度のストレスが原因なのではないでしょうか。」
「そんな...。私のあかりには、どうすることもできないのでしょうか。」
「今のところ、現状維持のみになります。ただし、彼女には正直に病気を持っていることを伝えるべきです。これから、彼女の方でも自覚して、コントロールさせるべきです。」
“私のあかり”?これはどういうことなのか。しかもお医者さんと思われる人物もどうして私を娘と称しているのだろうか。さらに混乱へ導いてく。
先生が先生ではなく、実は私の親で、その親は狭心症を患ってはおらず、むしろ私がその病気を持っていた。先生、いや、“お母さん“は嘘つき。全て計画通りのことだったのだろうか。私がお母さんに好意を持っていたのは、恋愛面ではなく、おそらく親子愛のようなものだったのだろう。
しばらく目を閉じたまま考えこんだ。すぐそこでお話をしている“お母さん”に意識が戻ったことがバレないように。
彼女がいなくなる頃には、横のテーブルに置かれている紙とペンを取り、メモを残した。
お母さんへ
私は人間不信になったため、旅立ちます。
探さないでください。
そして、さようなら。
これだけ病棟の机に残して、身体に付けられていた吸盤を外して、点滴の針を抜いて傷口にはそこら辺にあった絆創膏を貼り付けて、裸足のまま、その病院の部屋の窓から木へと身体を移した。
私はなんだったのだろうか。そんなことばかり考えながら、病院近くの森林へと走っていった。足はもちろん傷だらけで、痛みを感じていたけれど、そんなことはもうどうでも良かった。森の中をゼーゼー言いながら駆ける。もう、人間という存在と合わないことを願って。
人間はこわい。いつなにを考えているのかがわからないからだ。私はもう私でもないし、先生は先生ではなくなった。みんなもみんなではなくなるのかな。こわいな、人間は。
こちらのリメイク版『人間きょうふ症』を完成させた際、顔見知りの読者数名に伝えられたことがある。リアルな描写が多くあると。当時高校生であった私は、自分の気持ちに素直になりたい、自分の理想を見つけたい、というような考えが脳裏を巡らせていて、本作品を完成させるきっかけとなった。きっと自身が位置するところを整理したいと感じて書き始めたものでもあるのかもしれない。
そして現在、大学2年目が終わる時期になり、卒業論文に意識を持っていかなければならない期間に突入する。それでもなお、私は小説やエッセイを書き続けている。メモは、1年で100通にも及んだ。アイデアは思い浮かび、表現力の評価も良いと言われ続けた。ただし、構成が苦手で小説に良い味を出すことができない。それが、この『人間きょうふ症』にも現れていると思う。
そうであっても、最後まで読んでくれた方には感謝を述べたい。今まで、他のSNSで書いて公開してきた小説、つぶやきを消してしまう傾向が強かった。今は、もうしないと誓う。自分の道をしっかりと歩もうと思う。これからはしっかりと頑張ります。
あとがきも読んでいただき、ありがとうございます。