一ノ四
癖なのだろう。
少々伸び過ぎて目元に垂れる前髪を、津和蕗は長い指で撫でる様によける。
その仕草を見ながら、何を言い出したんだろう、この人は。と思う。
どうしたらよいか解らない。部屋の片隅で大人しく座る磯村に、視線をやって助けを求める。だが彼も丸い眼鏡を直し直し、拙い事を聞いてしまったと言う顔でブルブルと頭を横に振った。実に真っ当な反応だ。
何とも言えず、じんわりと沁みる様な何かを感じて額を押さえた。そうして、いつか誰かこの男に、冗談と言うのは面白いから冗談たり得るのだと教えなくてはならないな、と考えた。
「津和蕗さん、勘弁して下さい」
「あ、失礼。変な意味で言ったつもりはなかったんですが」
「いや、言った事が既に変です」
そんな事ないですよ、いや変ですと俺達が言い合っている内に、脇で磯村が立ち上がった。
「どうしました?」
見れば戸のない入り口に、女中の姿がある。芥子色の着物だから、さっきのとは別の女中だ。磯村は何やら言葉を交して、「ああ、そうか」とこちらに振り返る。
「お食事なんですが、どうされますか。あちらの食堂でお取りになるか、それとも部屋までお持ちしますか」
「いや、どちらでも」
「それなら僕に付き合ってくれませんか。ここに来て二日ですが、連れがなくてまだあの食堂を使った事がないんです」
そうした津和蕗の希望によって、俺達は食堂へと移動する事になった。
居間から食堂へは、玄関広間を挟んですぐだ。と言うのは、この建物は上から見ると凹の様な形をしていて、両脇の棟が底の部分に当たる玄関で繋がっているからだ。
だから食堂と居間は左右の棟にそれぞれ分れ、玄関の左に食堂、右に居間と、それぞれの壁に対面する形で出入り口がある。
因みに、その玄関広間の中央からは二階への大きな階段が伸びる。上った正面、漆喰の壁には大窓が切られ、ステンドグラスがはめ込まれていた。そこから左右に手摺り付きの通路が広がり、壁際まで行くと家の形に沿って奥向きに伸びた廊下に繋がる。二階は左が客室、右が主達の私室となっているそうだ。
しかしこの洋館、しつらえは立派だが規模はそれ程でもないらしい。客室だけでは数が足りず、現在は私室の一部も客に明け渡されていると聞いた。
それらを教えてくれたのは紋付袴の大仰な格好で、二人で使うには大き過ぎる食卓に食器や灯りを並べ、料理の皿まで運んで準備を整えてくれた磯村だった。手伝う隙もない程によく動く。
折角だから一緒に食べようと誘ったが、冗談か本気か、「お邪魔ですから」などと危険な事を言ってそそくさと行ってしまう。
そうしてみると、津和蕗が「連れがなくて」と言う意味が解る気がした。食堂も居間と同じに真四角で、畳に直すと二十畳に少し足りないと言う所だろう。真ん中に大型の食卓を置き、何脚もの揃いの椅子でその外郭を取り囲んでいた。けれどもその広い食堂にいるのは、俺達二人だけなのだ。
これで一人きりだったら、寂しいを通り越して寒々しいと言うべきかも知れない。
津和蕗のどこかとぼけた馬鹿な話に付き合いながら食事を終えると、いつの間にやら夜も深く、すっかりと更けてしまっていた。何だか疲れてもいたので、もう大人しく部屋に下がろうと言う事になった。
二階の客室に上る津和蕗と分かれ、俺は階段上から左右に伸びる通路の下。一階の壁に切られた戸を開ける。その先は棟に沿って奥へと伸びた真っ直ぐな廊下だ。
この屋敷は、ご丁寧にも通路にまで戸があるのだ。これは二階の廊下も同様で、だから階段を上った通路の上下、左右両端の壁には同じ様に奥へ伸びた廊下の為に四枚の戸が設けられている。
俺に与えられた部屋は一階で、居間側の棟の一番奥。そこへ通じるのは階段から右下の戸だ。
その廊下の距離を言うなら、戸口から向こうの端まで畳を縦に四、五枚敷いた程しかない。着替えのため夕刻ここを通った時に、そう確かめていた。あの時も厚い雨雲に薄暗くはあったが、今は一歩先も見通せない真っ黒な影しか見えなかった。
廊下の左手は中庭に面し、窓がずらりと切られていた。けれども幾つも並ぶその硝子さえ、今はただただひたすら暗い。
ザアザアと、忘れていた雨の音が身近に聞こえて来るばかりだ。
「ああ、そうか」
不意に思い当たり、戸を開け放したまま玄関へと引き返す。
本当に飛び込みの客だから、俺の部屋には何の準備もなかった。夜になったら燭台の一つも貰わなくてはと、着替えながらに考えていたのを思い出したのだ。
もう階段を上って二階の通路にいた津和蕗が、戻った俺を不思議そうに見下ろした。手摺りに寄り掛かった彼に、説明する。
「いや、灯りがなくてね」
「それならその引き出しにあるはずだよ」
納得した様に軽く頷き、言ったかと思うとスルスルと階段を下りて来た。迷いのない歩調で居間の入り口へ行き、壁際の棚に寄る。
その引き出しから華やかな柄の描かれた絵蝋燭を探し出して、一緒に見付けた燭台に立てる。そして傍のランプの火を移してから、どうぞと俺に差し出した。
随分と親切だ。感じ入ると同時に、やはりこの人は身分ある人ではないかと考えていた。何をしていても爪の先まで端正で、所作に洗練を感じるのだ。
それに蝋燭の事もある。高価そうな絵蝋燭に、惜しげなく火を点ける。やはりそれは、普段から惜しげなく使い慣れた人間の様に思うのだ。俺などには脅しにしか見えない豪華な絵柄も、この人にはただの飾りなのだろう。
「どうも有難う」
燭台を受け取って頭を下げると、津和蕗は笑いを含んで「はい」と答えた。津和蕗と話していると、何だか妙な調子になる。
実は居間の中には松野がいて、戸のない入り口辺りでごにょごにょとしている俺達に、呆れたふうな視線を寄越しているのだ。やはり、大の男がする会話ではないのだろうか。
灯りを手に入れ、今度こそ津和蕗と分かれる。先程開け放したまま戸の中へ、自分の部屋に向かう暗い廊下へと足を踏み入れた。
後ろ手に戸を閉めると、明りは手の蝋燭一本になった。ふわふわと揺らめく灯火は頼りなく、しかしほっとさせる色でもあった。
二、三歩も行くと、明りの中に洋式の戸が唐突に行く手を遮った。首を傾げる。行き止まり、ではない。廊下の途中で、手前の部屋の戸が開け放たれているのだ。
この棟の一階には、部屋は二つ。俺の部屋が奥で、手前が平五郎に割り当てられた。
そう言えば、お互いずぶ濡れの着物を替えようと、夕刻ここで別れたっきりだ。どうしたかなと、声を掛けつつヒョイと戸の中を覗き込む。と、平五郎はすぐそこにいた。
ただし、床に突っ伏した格好で。
これはもう……。
遅い。
確かめるまでもなく、一見してそう直感したが、俺はそろそろとしゃがんで平五郎の手に触れた。
袖を二の腕まで捲れ上らせ、投げ出された手の先はぞっとするくらい冷たかった。
「松野さん!」
戸を一枚隔てた程度。距離にしたらすぐそこにいる筈の、巡査の名前を大きく呼んだ。叫べば、聞こえない訳はない。けれども呼んだ時にはもう、我知らず駆け出していた。
手の中の蝋燭がすぐに消え、辺りは漆黒と雨音に閉ざされる。すぐに行き当たった廊下の果てで、ぶつかる様にして戸を開けた。
「松野さん!」
今度は、幾つもの灯火が光で満たす中で呼んだ。
紺羅紗の制服に身を包んだ人影が、驚いた様子で居間から飛び出す。
「……死にました」
誰が、とは質されなかった。
松野の動きは素早かった。たった今自分が逃げ出して来た暗闇の中へ、ダッと駆け込む背中を見送る。
そうだ、医者を呼ばなくては。斉庵はどの部屋だったろう。などと、すっかり回転の鈍った頭でのろのろと考えた。
「誰か!」
やっと呼ぶと、すぐに階段の左上で戸が開き、何事かと磯村が顔を出した。すかさず彼を捕まえて医師を呼ぶ様に頼んでから、きつく握り締めたままだった燭台に眼を落とす。松野の後を追うために、火を点け直した。
再びゆらゆらと、しかし今度は急ぎ足に火影を揺らして廊下を進む。すぐに薄暗い中に、巡査の姿を見付ける。蝋燭一本の頼りない明りに照らし出されて、彼はふっと顔を上げ、そして首を横に振った。
ああ、やはり。
改めて、胸の中が冷たく翳る。
バラバラと階段を降りて近付く幾つもの足音を、背中で聞いた。それが到着する前に、巡査は室内でも被ったままの帽子に手をやって、ボソリと零す。
「これは、面倒な事になる……」
ああ、誰もこの時まで。
本当に何かが起こるとは、思っていなかったのだ。