一ノ一
明治十年。
最後の幕府軍が函館で倒れたのはとうの昔。
新しい時代を拓いた男が反逆者として九州で死に、新しい時代にようやっと成った。
そう言う年の事だった。
城之森家を訪れたのは、初秋だったか、晩夏の事か。
ちょうど季節さえも曖昧な、そんな頃だった様に思う。
生涯の内、たった七日。
俺がこの家の中に身を置いたのは、思えばただそれ程の短い時間でしかなかった。
*
その室内は造作も調度も、西洋の様式で統一されていた。
幾つものランプや燭台から投げ掛けられる橙を帯びた灯りが、とろとろと揺らめきながら空間を満たしている。
「あぁ、お揃いのようだ」
俺が部屋に入って行くと、そう言って実に優雅な所作で椅子から立ち上がった。
その男性を、城之森秋良と言う。黒羽二重の上等な羽織に家紋を五ヵ所染め抜いて、漆黒の長い髪を絹の組紐で束ねた美丈夫だ。
客のためか、普段からこうなのか。
一同が集められた居間らしき一室には、沢山の椅子がそこかしこに置かれている。ビロードで飾られた長椅子から、背凭れすらない一人掛けの物まで様々に。
それらの殆どは、少なくとも今ばかりは懸命に自らの仕事を全うしようと、客達の尻を支えて頑張っている様だった。
空いた席を探そうとすると、長椅子に一人腰掛けた津和蕗が手招きで呼ぶ。親しげな様子に一瞬だけ戸惑ったが、俺は促されるまま彼の隣に座らせて貰う事にした。
居間の中の視線が全部、着席するのを苛々と見守っていたからだ。最後の一人である俺が席に着くのを待って、それらの視線は秋良氏の元へと集まる。
俺も皆と同じに眼を向けながら、それでも無意識に雨音の激しさに気を取られた。
この洋室の天井は高かったが、玄関広間に設けられた二階分の吹き抜け程では流石にない。その分こちらは、上の階があるせいだろうか。玄関よりも雨音が遠く感じられる。
それでも空気は絶えず微かに震えていた。貝殻だか茶碗だかを耳に当てた時に似た、不思議な雑音がどこかしらに染み付いてしまっているふうだ。
どうにかそれの中から秋良氏の声を聞き分けようと、俺達は耳を澄ませた。
年若い主役は我々の視線を一身に受けながら、臆する様子を欠片さえ見せず堂々としている。彼はまず、羽織の袂からするりと手を覗かせた。その揃えた指先で、好き勝手にそれぞれ座った客人達を一人一人指しながらに名を諳んじた。
その通りに羅列しよう。
一人目の人物は、真白な髭が見事な翁。
「こちらは、医師の藤永斉庵先生」
緑の深い砥草色で羽織と着物を対に仕立て、袴を着けた足元には往診に用いる持ち手付きの薬箱が見えた。
「警視庁からお越し頂いた都祁様、松野様」
声に合わせ、厳めしい紺羅紗の制服に身を包む男性二人が会釈する。彼等の膝には制服と同じ羅紗生地の帽子が載せられており、それぞれ色の違うモールが付いていた。見る者によってはこの色で壮年の都祁が警部、これより若年の松野は巡査と知れた。
都祁は西洋ふうに拵えた官給品のサーベルを佩き、更に腰の革サックにはピストルが隠れている。対し、松野は腰に三尺五寸の樫の棒を差した切りだ。
「祈祷師の飛根井葉様、助手の裕洞様」
名を呼ばれて、井葉は一同の顔を確かめる様にくるりと眼を向けただけだった。
この人は身なりばかりは僧形だが、真っ赤な紅に唇を染めた、明らかな女性だった。胡散臭い事この上ないと俺は思うが、その脇に控えた裕洞と言う男も負けていない。髪を剃り落した坊主頭の大男で、雲を突く様な巨躯に薄汚れて垢染みた着物を胴に一枚巻き付けたきり。こちらも充分に素性が怪しい。
内心で首をひねる。
上等の着物に身を包んだ、秋良氏の涼しげな顔をそっと盗み見た。こんな怪しい人間を何人も家に招き入れるなど、一体どんなつもりだろう。
そんな事を考えていると、当の秋良氏が俺を指す。心中を見抜かれた思いがして思わずギクリと心臓が跳ねたが、何の事はない。順番が来ただけの事だ。
「霊能者の津和蕗様、そしてお隣が咲田様」
と、並んで長椅子に腰掛けた俺達二人が、一揃いの様にポンポンと紹介された。
肩書きのない俺の名前を言い終えると、秋良氏は一度区切るふうに言葉を止める。
そして「こちらは知人の」と断った上で、まだ紹介されていない二人の名を口にした。
「磯村氏と、大内氏です」
つまり彼等二人を除いた他は、全て今回のために集められた人間と言う事なのだろう。
秋良は最後に、自らを含めた館の住人について触れた。
「現在、城之森の家の者は私と妹だけですが、妹は体調を崩して近頃は殆ど臥せっております。ご容赦下さい。他には、使用人が四人おります。これにはどうぞ、何なりとお申し付け下さい」
「秋良さん」
焦れた様子で、呼んだのは磯村だった。
彼はまだ、十代ではないだろうか。
きっちりと梳き分けた断髪と堅苦しい紋付袴が、純朴そうな青年に残る幼さを強調していた。
話の途中に口を挟まれた格好になったが、秋良は気を害したふうもない。険のない眼で磯村を見る。
「炯乎さんは、お悪いのでしょうか」
腰掛けた袴の膝に固く握った拳を置いて、身を乗り出さんばかりの勢いで問う。
恐らく、臥せっていると言う秋良氏の妹の話だろう。必死さの滲む磯村の姿に、俺は炯乎嬢への興味を覚えた。
「ご心配には及びません。とは言え、病人に変りはありませんから、大事を取って皆様の前に出るのは遠慮させております」
興味を断ち切る様に、磯村を諦めさせる様に、秋良はきっぱりと言った。
そう説かれては、磯村は渋々ながらも引き下がるしかないだろう。だがどうにも心配らしく、ずれてもいない眼鏡に手をやって、もの言いたげな表情で相手を見詰めたまま動かない。
その真っ直ぐさと言うか、健気な様子を見ていると、どうにもこの磯村青年は好ましい人だと俺には思えた。
「見舞って差し上げたいな」
今のやり取りを見ていなかったのかと、疑いたくなる様な気安い調子で口が挟まれた。声の主は、主人役のすぐ脇でゆったりと足を組み、見るからに尊大な風体の大内氏だ。
年は秋良と同じく、二十代も後半と言う頃だろう。この人は洋装であったが、海老茶の上着は釦も掛けず、シャツの襟にはタイすらなかった。
近頃では市井でも洋装を見る様になってはいたが、まだまだ高価で貴重な存在だ。その背広をこんなにだらしなく着る人も、ちょっといない。
秋良は少し責めるふうに、眉を顰めた。
「あれはまだ子供の様なものだが、男の君が寝所に訪うのは感心しないね」
「随分だな。妙な事はしやしないさ」
責められて、しかし本人は悪びれない。
「こんな時は誰か、気を紛らせて差し上げるのがいいんじゃないかね。思えば、こちらへ寄せて貰うのは久しぶりなのだし。まぁ、それでなくたってあの姫君にはお目に掛かりたいものだけどね」
「ははぁ。どうやら、炯乎姫は随分とお綺麗な方の様ですねぇ」
ひょいと口を挟んだ津和蕗に、大内は意外な程に気安い調子で「そりゃぁ、もう」とニヤリと笑う。
「兄上のお顔を見れば、大体の想像が付くだろう?」
「実千綱!」
どうやらそれが名前らしい。ピシャリと咎めた秋良の声に、降参、とでも言う様に大内は軽く両手を上げた。
不機嫌そうな、迷惑そうな顔でそれを見て、ため息を一つ。
「話が、妙な方へ逸れてしまいましたね」
「妙なものか」
混ぜっ返す大内を軽く上げた手で制し、秋良は、その表情をスッと改める事だけで場の空気を神妙なものに変えた。
「ではこれより、本題をお話する事に致しましょう」
その言葉に我々もまた居住まいを正し、再び注意深く耳を傾けた。