第9話 『幻視のハーブ水』
「『幻視のハーブ水』? 聞いたことがないかも」
「私もよく覚えていないんだけど、昔読んだ『魔女の香草のレシピ』っていう教本に載ってたの。実は私。両親がいつかは幽閉を解いてくれるんじゃないかと思って、『幻視のハーブ水』を作って水鏡にして覗いたの。そうしたら……隣国の軍勢が攻め込んできて私の両親を殺した場面を観てしまったの。つまり、私の国はとっくに滅んでいたのよ。私は、衝動的に二階の窓で首を括ってしまったわ。それ以来、この建物に魂を縛られて百年が過ぎてしまったの……ククク……」
「王女様……なんてお可哀想に……」
「ルシリカ。『幻視のハーブ水』は、あなたの抱く疑問について解答を示す。月の力を借りて、死者の残した思いを見ることができるかもしれない。あなたの姉エリスに誰が毒を盛ったのか。問いかけてみて。真相がわかるかも」
「やっぱり姉様、毒薬を盛られていたのかな」
「王太子妃になってから体調が悪くなったのは気になるわね。ちょっとずつ毒を与えて弱らせて、病死に見せかけるというのは良くある手よ」
「でも一体誰が? エリス姉様は優しくて、誰かに恨みを買うような人じゃない」
「どうかしら。人間誰しも裏表があるわ。まあいいわ。それを知るために、『幻視のハーブ水』を試してみたらどう? ただし、水鏡を覗く時は気をつけてね。精神を安定させて、私のように発作的に自殺しないように」
「ええ。気をつけるわ」
「じゃあレシピを教えてあげるわね」
王女様が手を上げ、手のひらを机の上にあった白い紙にかざした。すうっと文字が浮かび上がる。
(大分類)魔女の香草のレシピ
(中分類)月の鏡の魔法
(小分類)『幻視のハーブ水』(レシピ)
・月光水
・故人の思い出
・死者の花
「それぞれの材料の配分は?」
紙に追加の内容が書き加えられた。
(小分類)『幻視のハーブ水』(レシピ)
・月光水(顔が映り込むだけの量)
・故人の思い出(記憶だけで良い)
・死者の花(一輪・ただし生花が必要)
「ありがとう……ございます」
「ルシリカ。ついでに三階の私の部屋に入れるようにしてあげる。工房に使って頂戴。じゃあ……私、そろそろ……」
王女様は南の窓の前に立っていた。外には白銀に輝く満月が見えている。月光がレースのカーテンのように部屋の中へ降り注いていた。
おかっぱの王女様は、瞳を見開いて晴れやかな笑みを浮かべていた。
ぱっと両手を広げて月に向かって差し出している。
「父上、母上……迎えに来てくださったのですか!」
月の光は王女様の体をやさしく包みこんでいく。そして宙に浮いたかと思うと、すうっとそのまま光に溶け込んで消えていってしまった。
「……よかった。やっとご両親の所に行くことができましたね。王女様」
私の『招霊の香』の花束が、ここに縫い留めていたあなたの魂のしがらみを解き放つことができたのかもしれない。
そして三階もこれで静かになるわね。
ああ、ほっとしたら眠くなってきちゃった。
久しぶりにお腹も満たされたしね。寝よう。
◆◆◆
翌朝。私は意を決して三階へ上がり、扉のノブに手を触れた。
昨夜は眠かったし、やっぱりね。ちょっと怖かったから朝になるまで待っちゃった。こわごわと握りしめたドアノブは冷たくないし、女性の金切り声も聞こえなかった。それで思い切って扉を開いてみると……。
「わあ……すごい」
私は感嘆の声を漏らしてしまった。
いえ、あまりにも素敵なお部屋だったので。
目を引くのは、机の上に置かれた、香草を蒸留して精油を採るガラス器材。乳鉢に乳棒といったおなじみの道具も揃っている。
作った精油や香水を入れる保存瓶などが、壁に据え付けられた棚へ綺麗に収められている。
百年間、誰も足を踏み入れていないはずなのに、まるで昨日まで誰かが住んでいたように綺麗なままだ。埃もないようです。くしゃみが出なかったからね。
「王女様、素晴らしいです。ありがたく使わせていただきますね」
私は頭を下げる。
他にも王女様が勉強用に持ち込んだのかな。書物が壁一面に納められているの。見たことがないものや異国の言葉の本もあるみたい。
それからそれから。
念願のベッドを見つけました! 今まで床に敷いた敷物の上で、猫のように丸まって寝ていたの。お陰で体の節々が痛かったんだけど。今日からはちゃんと横になって眠ることができるわ。
私、ここに来ることができて、本当はとても幸運なんじゃないかしら?
◆◆◆
さらに次の日の朝。リンゼイがやってきた。いつもは手ぶらに近い格好なんだけど、今日は木箱や布袋といった包みを持っている。
「香の材料を持ってきた」
「早かったわね。じゃあ確認するわ」
私はリンゼイから材料を受取り、机の上にひとつずつ出していった。
まずは木箱の方を開けるわよ。
「マロウ銀葉葉が三十枚。うん、乾燥状態も良いわね。大理石の乳鉢と乳棒が三セット。レモニールの精油一瓶と薫竹の木炭一袋。それから……」
私は濃紺色の絹袋を取り出した。袋に入っているのは、二本の細い銀製の棒。長さは私の手首から肘ぐらいまでかな。それほど長くない。珍しそうに見つめるリンゼイへ、私は説明した。
「この銀の棒はね、空間を音で清めるの。棒同士をすり合わせてね。同時に集中力も高める。質の良い香ができるかどうかは、ここにかかっているのよ。それから……」
るるん、と。
つい鼻歌が出ちゃった。
「お砂糖と、岩塩。胡椒。酢と蜂蜜ひと瓶」
ああ、念願の調味料。布の袋の方にはフライパンが入ってる。これがあれば作れる料理の幅も広がるわ。うれしい。
「まるで料理みたいだな」
ぼそっとリンゼイが呟いた。いつもの机の傍の椅子に腰掛けて足を組んでいる。
「な、ななな……なんでわかったの?」
「えっ。それはまさか自分の食事用?」
うわー。いやー、ばれた!?
私はリンゼイから顔をそらしつつも、弁解の言葉を口走る。
「だっ、だって。たまには塩気を利かした野菜炒めだって食べたいわ。た、体力をつけるためよ。そう! 調合作業は体力だって使うし、ミネラルは生きるのに必要なんだから。でも蜂蜜は香の触媒にも使うの」
「ああ。そういうことにしておく」
そういうことにしておく、ですって。まあ失礼しちゃうわ。
調合作業は体力を使うっていうのは嘘じゃない。材料を乳棒でひたすら~ひたすら~細かく砕く必要があるんだから。今度やらせてみようかしら。
材料の確認が終わって、リンゼイが椅子から立ち上がった。
「エリス様に焚いた香はどれくらいで完成するんだ?」
「乾燥に一週間かかるの。また、来週来てくれる?」
「了解した」
用件が済んだので、リンゼイは椅子から立ち上がった。そして扉に向かったんだけど、いきなりくるりと私の方を振り返った。
「そういえば、二階の窓にぶら下がっていた古いロープが消えていたな。捨てたのか?」
「古いロープ? ああ、あの輪っかになってて、まるで誰かが首を吊ったように見える、あのロープのこと?」
リンゼイが眉間をしかめながら口元へ白い手袋を嵌めた手を当てた。
「直接的な言い方をするんだな。まあ、わかりやすい表現だが」
「ああ……上の階の住人が、《《いなくなった》》からだと思うわ」
私はあっけらかんと応えた。
「えっ、じゃあやはりここには……」
「大丈夫。三階を使っていいって許可はもらったから」
「……ルシリカ。君は、」
リンゼイが手を伸ばしていきなり私の腕を掴んだ。
「なっ、なんですか?」
戸惑っている間にも、腕をつかまれたまま、顔をリンゼイに上から覗き込まれる。
うわ。こんな近くで彼の顔を見たの初めて。
いや、あまり関わりたくなかったから見ないようにしていたんだけど。
なんで今日はそんな、まじまじと正面から見るわけ? 私、禊はちゃんとしているけど、幽閉生活のせいであまり小綺麗な格好ができていない。お肌も荒れてるし、でも王女様の庭(井戸の横にある花壇ね)でロエルの葉を見つけたから、保湿に塗ろうと思っているけど……。
まずい。目が合った。
リンゼイの瞳は宝石のペリドットみたいな、光が差しこんで輝く鮮やかな緑。
すっと伸びた眉と引き締められた口元に意思の強さを感じる。寧ろ初対面の時はそのせいで近寄り難い印象だった。
私なんか罪人扱いされてるから(今もだけど)余計に。
その雰囲気が、発せられたやわらかな声と皮肉めいた笑みのせいで消えていく。
「うん。生きているな。ひょっとしたら私は、死人と話しているんじゃないかと……急に不安になって」
「あの。勝手に人を殺さないで下さい。私はここで図太く生きてやるつもりなんです」
口を尖らせて思わず睨み返すと、リンゼイの笑みも大きくなった。
私の手首から手を離して、そっと頭を撫でられた。
「そうか。うまくいくといいな」
彼の指の間を、私の瑠璃色の髪が滑り落ちていく僅かな間。
私達は見つめ合っていた。
「じゃあ、私は早速、香の作成に入るから……」
「わかった。では、また来週来ることにする」
リンゼイはうなずいて、一度振り返ってから扉を開けて出ていった。
私は耳の奥でどきどきと鼓動が脈打つのを感じていた。すぐにいつもは扉を閉めてしまうんだけど、それを一瞬忘れて、建物から湖の桟橋まで降りていく彼の姿をずっと目で追っていた。
口ではああ言ったものの、私がリンゼイを心のどこかで頼りにしているのは自覚している。もっと精神的に強くなりたいなって……思う。
彼がいつまでも、私の見張り役でいられるかどうかはわからないしね。
さて、お仕事の時間ですよ。
エリス姉様に焚いた香を作って、無害だってことを国王陛下に証明してもらう、またとない機会が来たのだから。