【番外編】リンゼイ視点「遠ざかるほど、近くに」
本編終了後の後日談的な話です。ちょっと甘め。
本編読了後推奨です。
リンゼイは城づとめが長い。どれぐらい長いかというと、生まれた時からだ。
現国王の弟がリンゼイの父だが、自分が赤子の時、両親は旅行先で不慮の事故に遭い亡くなってしまった。
その後、リンゼイの身柄は先代の近衛騎士団長に預けられた。
やがてリンゼイは成長し、父親代わりだった彼から団長の座を譲り受けた。
今から五年前のことだ。
何の因果か。自分はずっと城づとめで終わると思っていたのに。
ルシリカという女性に出会ったことで、リンゼイの人生が一転した。
彼女は――変わっていたのだ。リンゼイが知る「女性」の中では。
それは彼女の職業と関係しているせいかもしれない。
「あのね。カルミア様がお城で私の作った香水のことを、貴族の皆様に紹介して下ったおかげで、すごくお客様が増えたの!」
ルシリカがラベンダー色の瞳を輝かせて話していた。彼女は『香職人』の見習いで、依頼人が求める『香り』を作り出す仕事をしている。香水や香はもちろん、石鹸やその他の雑貨も作っているそうだ。
リンゼイはルシリカが話すことなら何でも楽しく聞くことができた。香職人の仕事はよくわからないことの方が多かったが、何より自分と語らう彼女の笑顔や、いつも前向きな姿勢を感じられるのが好きだった。
ルシリカと接するうちにリンゼイは気付いた。自分は城という箱庭に閉じこもり、外の世界のことを知ろうとしなかったのだと。
では何故外の世界を知ろうとしなかったのか。これはひょっとしたらなのだが。
怖かったのかも、しれない。
両親が異国で亡くなった。それを教えられたのはいくつの時だっただろう。
まだ十才に満たなかった頃だったか。見知らぬ場所や人に会うことが、怖くて、怖くて、たまらなかった記憶がある。
リンゼイは最近になって頻繁に訪れるようになった、ルシリカの実家に向かって歩いていた。まだ寒い日が続くが、あと一月もすれば裸の木には若葉が芽吹き、春の訪れを感じられるようになるだろう。
城から徒歩だと二十分かかるルシリカの家は、驚くほど静かだった。
窓にはレースのカーテンが下りたまま。彼女の母親が香草茶を販売する店舗兼住居なのだが、扉のノブに手をかけると鍵がかかっているのか、ガチャリと冷たい音がしただけだった。
「……留守、か」
リンゼイはペリドット色の瞳を細めて、ため息混じりに呟いた。
ルシリカと最近会ったのは一週間前だ。いや、週末は彼女の店を訪れて、淹れてくれる香草茶を楽しむことにしている。
勿論お茶を飲むのは名目で、ルシリカに会いに行くというのが本当の目的だ。
面と向かってそれを告げたわけではないが、ルシリカもそれを察しているのか、リンゼイが店を訊ねる15時頃は客の予約を入れないようにしてくれていた。
それなのに留守ということは、今日はどうしても外せない用事ができたと思うべきだろう。リンゼイは静まった玄関扉の前に立ち尽くし、その場を去ることをためらっていた。
「ルシリカ……いないのか?」
扉に向かって呼びかける。応じない沈黙に更に不安が増して、どん底へ突き落とされるような失望感へと変わるのがわかる。
いつから彼女の存在が自分の心の中を大きく占めるようになったのか。
せめて顔だけでも見たい。
リンゼイは手を握りしめて扉を一回叩いた。
「……?」
話し声が聞こえた気がした。扉の向こうで。
いや、ルシリカの笑い声だ。
それを確信した途端、眼の前の扉が急に開いた。
リンゼイは驚きながら、更に目の前の光景に息を止めた。
淡い金髪を首の後ろでひと結びにした白いマント姿の男性が、ルシリカの左手を握りしめ、それから彼女の肩を自分の方へ引き寄せて抱きしめていたのだ。
――これは、一体どういうことだ……。
答えが浮かぶ前にリンゼイは背を向けて、足早にその場から立ち去った。
「……リンゼイ?」
後ろからルシリカの声が聞こえたが、リンゼイはそれを振り切るように足を早めた。
◆◆◆
見ない顔だった。
淡い金髪の若い男――マントを纏い、豪奢な毛皮があしらわれた服装から察するに貴族の出身だろう。
オルラーグ国の主だった貴族とその後継者たちの顔はすべて知っている。近衛騎士という立場上、リンゼイは顔を見ただけでどの貴族がどこの領主であるか答えることができる。けれどあの男の顔は記憶にない。しかもルシリカは驚く素振りもなく、彼の抱擁に身を委ねていた。その光景が何度も脳裏を過っていく。
リンゼイは歩き続けた。城に戻るつもりだったが、ルシリカが自分を追いかけてくるかもしれない。そんなことは絶対にないが。
ないのだが――その考えを否定したくない自分がいる。
ルシリカに……追ってきて欲しい、だなんて。
自分が彼女に会いたいと思うように、ルシリカもまた同じ気持ちでいてくれるのではと。
「馬鹿な。一体私は何を考えている。同じはずがない……どこまで都合良くて、自分勝手な考えなのだ」
リンゼイは身を隠すように、敢えて家々の細い路地に入って歩き続けた。
どこに向かうわけではなく。どこに向かっているのかもわからない。
ただ、顔が見たかった。
声が聞きたかった。
自分の名前を呼んで欲しかった。
それだけで君の元を訪れたと言ったら。
君はただ笑うだろうか。
『一体何なの、それって?』
ふわりと瑠璃色の髪を揺らし、無邪気なラベンダー色の瞳が向けられるのは、自分だけであって欲しい。
リンゼイは心の中に過ったその思いで足を止めた。
ふと周囲を伺う。石造りの家々が立ち並ぶ路地を抜けたそこは空間が開けていた。領民のちょっとした憩いの場所だろうか。石造りのベンチが一つ置かれていて、広大なウェンデミラ湖を見渡せる高台だった。振り返ると目指していた城は遥か後方。どうやら逆方向に歩いてきてしまったようだ。
「……」
湖に目を向けると、深い蒼をたたえた湖面は、ルシリカの長い瑠璃色の髪のようだった。あの弧島に船で通った日々が昨日のことのように思い出される。
「リンゼイ!」
心臓がどきりと高鳴った。
今の声は――。
風に舞うマントを押さえながら振り返ると。
彼女が、いた。
ルシリカは息を弾ませていた。先程まで湖の幻影に見ていたような、長い瑠璃色の髪を結うことなく背に流し、いつもの白いブラウスと作業用の茶色のワンピースとブーツ姿。息を整えて顔を上げた彼女のラベンダー色の瞳が、真っ直ぐリンゼイの顔を見つめている。
「待ってって言ったの、聞こえなかった?」
「えっ……?」
ルシリカが頬を紅潮させてリンゼイとの距離を詰めていく。
控えめに紅が引かれた唇が、不満を訴えるかのようにきゅっとすぼめられていた。
「リンゼイったら、突然出ていっちゃうんだもの! 来るの待ってたのに」
「……あ……」
リンゼイは手を額に当てて視線をルシリカから逸らせた。
頭が混乱する。
「私が来るのを待っていたのなら、あの男は一体なんだったんだ」
「――あの男?」
ルシリカが疑問形で言葉を返す。
リンゼイはカッと頬に熱が集まるのを感じた。たまらず言葉が口から溢れる。
「君が見知らぬ貴族の男の抱擁を受けていたから……だから、私は」
ルシリカの顔を見ることができなくて、リンゼイは視線を落としたままだった。
「あ、そうだったの? 嫌だわ、リンゼイったら!」
半ば笑いを含んだルシリカの声が聞こえる。何がそんなに楽しいのか。
たまらず顔を上げると、ルシリカが大きく首を横に振った。
「あの方はね……エリス姉様の婚約者、ユーグ・ハルディン様よ。私にとって『義理のお兄様』になる方」
「義理の……兄……?」
「ええ。明日、エリス姉様と一緒にイルラシア国に発たれるの。それでお二人の結婚式にはリンゼイと一緒に行くから、あなたを紹介したいなあと思って今日家に来てもらっていたのよ! あ、ごめんなさい。その事伝えるのを忘れていたわ。どのみち今日は店に来る日じゃない? あなたが来たから扉を母が開けたら、リンゼイったら急に顔面硬直させて出ていったって言うのよ。それで私、走ってあなたを探したのよ?」
義理の兄。
混乱してきたリンゼイの思考は、ようやく明瞭さを取り戻そうとしていた。
「あの男……いや、彼がエリス様の婚約者……なるほど。隣国の貴族ならば、私が顔を知らないのは当然だ」
「やだ、リンゼイったら。何か勘違いしてたわけ?」
ルシリカが驚いたように目を見開いている。リンゼイはこわばった頬の筋肉が緩むのを感じた。それを隠すように頬に手を当てた。
「君だって、部屋の扉を開けたら、私がどこかのご令嬢と抱き合っていたら驚くだろう?」
「……」
ルシリカの返事がない。
しまった。当てこすりに聞こえてしまったか?
「別に……驚きはしないけど」
「しないのか!?」
ルシリカが腕を胸の前で組んでリンゼイを見上げた。じとっと見返してくる視線がちょっと険しい。何か良からぬ発言をしてしまったのだろうか。リンゼイの心臓が別の意味でどきどきと鼓動を早めている。
するとルシリカが不機嫌そうな口元を緩めて破顔した。
「リンゼイはお城で沢山の貴族のご令嬢とお知り合いでしょ? それにあなた、どれだけご自分が彼女達から思われているか知っていて?」
「ええっ? 思われるって……私は、君のことしか意識していない!」
リンゼイはルシリカの手を掴んだ。少しだけ彼女との距離を詰める。
もう少しだけ力を入れれば、ルシリカの義理の兄がやったように、彼女を抱きしめることができるほどに。
しかしリンゼイはそうしなかった。
ルシリカがポツリと声をもらしたからだ。
「リンゼイの手、冷たいね……」
「あ、すまない」
手を離したくない。リンゼイは手のひらから伝わる彼女のぬくもりに愛おしさを感じていた。だがその願いは虚しく、ルシリカはあっさりと手を離した。
温かな熱が急激に手のひらから失われる。
「ねえ、ちょっと後ろを向いてもらっても……いい?」
「後ろ? 別に……構わないが」
話の前後が噛み合わない。
ルシリカにリンゼイが城で多くの貴族の女性と接していることを咎められた。
そうだ……彼女もまたそれを見れば、自分と同じように気を悪くするだろう。
「ルシリカ、すまなかっ……」
詫びの言葉が途中で途切れた。ルシリカがいきなりマントの下にもぐりこんで、リンゼイを背中から抱きしめたのだ。
しばしどういう状況か理解できなかった。
リンゼイははルシリカに抱きしめられるままその場に立ち尽くした。
先程の手のぬくもりよりも、ずっと、ずっと温かな熱が背中から伝わってくる。
彼女のやわらかな息遣いも。
「動かないで、ちょっとだけこのままでいて。お願い」
ルシリカの囁き声。いつになく覇気がない。
「わかった」
リンゼイは腰に回されたルシリカの手に自分のそれを重ねた。
「ふう……」
やがてルシリカが満足したかのように、リンゼイから体を離した。
「ごめんね、リンゼイ。びっくりした?」
「いや、別に構わないが……」
内心はとても驚いている。ルシリカがこんなことをしたのが初めてだったから。
「あのね……あなたの匂い……嗅いでみたら、すごく落ち着くってわかったの」
「匂い?」
「ええ、そう。実は私――ちょっと不調だったのよ」
ルシリカが歩き出して傍らの石造りのベンチに腰を下ろした。
手招きされたので、リンゼイも彼女の隣に腰を下ろした。湖から吹く少し乾いた風がふっと香った。ルシリカの纏う香り――それは出会う度いつも違う。
彼女が仕事柄、様々な香りに日々触れているからだ。
「不調って、風邪でもひいたのか? 少し顔が赤いような気がするが」
リンゼイは手を伸ばして彼女の額に当てた。
「……熱はないようだな」
「うふふ。違うの。不調っていうのは、鼻の方なのよ」
ルシリカがおかしそうに笑った。自分の鼻を指で指しながら。
「最近、『推し香水』の作成依頼が増えちゃって。いろんな香りを調香していたら、なんだか香りがよくわからなくなっちゃった。それで今日はユーグ様も来ることだし、仕事の方はお休みしたの」
「それは困ったな。香職人の鼻がきかなくなったら、仕事に障る。休んだら少しは良くなるのだろう?」
「うーん……そうね。でもね、すぐに治る方法があるのよ」
「ほう。それはどんな方法なんだ?」
むぎゅっ。
徐ろにルシリカがリンゼイの右腕に自分のそれを絡めて身を寄せてきた。
上目遣いでラベンダー色の瞳が見つめてくる。
「リンゼイの匂いを嗅ぐと……安心するんだ。私」
「……」
返す言葉が浮かばない。
「それはどういう意味なのだ?」
問いかけるとリンゼイの右腕を掴んだままルシリカがくすりと笑った。
「調香で香りがわからなくなったら、自分がよく知っている匂いを嗅ぐの。そうするとまた嗅覚が戻ってくるのよ」
「そうなのか?」
「ええ。人によっては自分の服の匂いを嗅ぐこともあるわ。でも私にとって一番よく知った匂いは……あなたかな」
「うれしいような……恥ずかしいような」
「リンゼイ、こう言っては何だけど、私ね、貴族のご令嬢の皆様から、あなたの『推し香水』の作成依頼、今週五件ももらったのよ? 本当に人気者よね。だけどおかげで私の鼻がまいっちゃったわ」
「ルシリカ。ふと思ったが……香水の香りはひょっとして依頼者ごとに違うのか?」
「そうよ。当たり前じゃない」
微塵も迷いのない瞳がリンゼイを突き刺すように見つめている。
「いや、私をイメージした香りというのを作るのだろう? その……『推し香水』というのは?」
「ええ」
「じゃあ大量に作ればいいんじゃないのか?」
するとルシリカは頬を膨らませた。
「リンゼイ、あなた何もわかっていない。それじゃあお客様の期待に答えられないわ」
「……ええっ?」
「あなたに憧れているご令嬢様達は、それぞれご自分の『リンゼイ・グランディティエ』のイメージを持っているの。当然、想像している香りの種類も違う。私はご令嬢達のイメージする香りを具現化して作り上げるのが仕事なの」
「そうか……」
リンゼイは深く頷いた。
「香職人の仕事は奥深いな。それなら君の鼻が疲れるというのは頷ける」
「わかってくれた?」
「ああ」
「うふふ~まあ、それはそれでいいんだけど。『本当の』リンゼイの『匂い』を知っているのは、私だけなのよね」
ルシリカに顔を覗き込まれて、リンゼイは目を細めて微笑した。
「私も君の匂いを堪能したいな」
「あら。騎士様ったら香りにご興味があるの?」
「大いに」
リンゼイは右腕によりかかるルシリカの髪に顔を寄せた。目を閉じるとうっとりするような柑橘と蜂蜜の香りが鼻腔をくすぐる。
瑠璃色の髪に顔を埋めたくなる衝動を抑えながら、しばしその香りに身を委ねる。
得も知れぬ幸福感に満たされていくのがわかる。
先ほどまでの、見知らぬ男性とルシリカが抱擁を交わしていたのをみて、嫉妬していた自分の心を忘れるくらいにまで。
リンゼイはルシリカの額に口付けた。
「これで帳消しにしてくれ。君から他の男の香りがするなんて耐えられないから」
遠くから君のことを見ていた。
誰よりもずっと近くにいるのに。
君を守るために距離を置かねばならなかった。
心の距離が近づくほど、君につく嘘ばかりが増えていった。
それではいけないと。
君を失いかけたあの時に気付いた。
この手に抱きしめた君のぬくもりを守りたい。
それだけはどんなに遠く離れようとも、私だけが知る真実――。
(終わり)




