岬・曲芸師・桶
ある岬に桶屋があった。その桶屋は、風呂で使う様な桶から棺桶まで、桶に関するモノならありとあらゆるモノが揃っていた。その桶屋にはある噂があった。店主の姿が変わるという事。そして必ずしもその桶屋に会える訳ではないという事。
曲芸師が岬を散歩していると、不思議な小屋を見つけた。あまりにも小さい小屋だったので、民家だと思っていた。何故か小屋から目を離せなくなり、無意識の内に小屋に近づいていた。小屋に近づいて初めて店だと気付いた。看板は古ぼけて何屋かを読み取る事ができなかった。どんな店でも構わないとその場を去ろうと思ったが、心の奥底では気になって仕方がなかった。こんな所にポツンと建っている店なんて明らかにおかしい。店には入ってはいけないと頭では分かっていても好奇心は止められなかった。
曲芸師が店に入ると一人の老人が椅子に座っていた。老人は曲芸師に気付いておらず、ラジオに耳を傾けいていた。流れている曲は、ショパンの“ピアノソナタ第二番から第三楽章「葬送行進曲」”だった。M Cが曲名を告げた瞬間、ギクリとした。まるで自分の心境を言い当てらたかの様な曲だったからだ。曲芸師がその場に立ちすくんでいると、老人が来客に気付いた。老人は立ち上がり、一言詫びを入れ、用件を尋ねた。曲芸師はここが何屋かを知りたかったかを告げると、老人は納得をし、詳細を話してくれた。
わしは桶屋を営んでおる。そう不思議そうな顔をするのも分かる。訪れる人は皆、そんな顔をする。風呂とかで桶を使うじゃろ?あれの様な桶を作っておる。でも、お前さんが求めているのはその桶じゃない。棺桶の方を求めている。違うか?返答がないという事は肯定として受け止めるぞ。わしはお前さんの職業を知らんし、当然、死を求めている理由も知らん。だからわしはお前さんを止める事をせん。不謹慎かもしれんが、お前さんが棺桶を発注してくれればわしが儲かるからの。しかし、後悔はしとらんか?死という事は終わり。魂の消失。せめてやりたかった事はやっといた方がいいぞ。“後悔先に立たず”なんて言葉通りな。人間なんて所詮、欲まみれの生き物。何十年、何百年経とうが変わらん。それを恥じている人間はいる様じゃがな。貪欲の方が人間らしくてわしは好きじゃよ。
老人は愉快そうに話していた。曲芸師は話を聞きながら悩んでいた。岬を散歩していたのも、自殺をしようとしていたからだ。曲芸師が悩んでいると、
「大方、お前さんの職は専門職じゃろ?認めてもらえん事の方が多い職じゃ。お前さんはまだ若いんじゃから。」
その一言で曲芸師の意思は固まり、老人に礼を言い、小屋をでた。
数日後、岬にある小屋の中からとあるニュースが流れていた。
“本日未明、○○県△△市で大規模な火災が発生しました。火は完全に消し止められましたが、一名、亡くなったとの情報です。亡くなった方はーー。”
桶屋の店主はラジオを聞きながら、
「誰であろうと運命には抗えない。」
本を読みながらポツリと呟いた。