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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

空の烏合

作者: 金川明

 生きているだけで、金が消えていく。息苦しい世の中になった。

 俺の周りには誰もいないのに、空気は人混みの中のようにぬるく、(よど)んでいた。

 駐車場のフェンスに並んで(さえず)っていた(すずめ)を三匹ほど掴み取り、落ちていた串で目刺しにする。空き家だらけの住宅街の中でも、とくにぼろい一軒家にあたりをつけ、土足で踏み込むと、居間で死にかけの婆さんが首を吊っていた。ハズレだ。

「誰だい、あんた……」

 喉元を潰す麻縄を顎の下で握り締めながら、死にかけの老婆が問う。

「言ったって、すぐに忘れるだろ。それに、じきにあんたは死ぬ」

「だろうね」

 構わず居間の囲炉裏にライターで火をつけ、雀の目刺しを焼くことにする。朝から何も食べていない。鶏肉が焼ける香ばしい匂いによだれが出る。

「生きていても、しょうがないんだ」

 死に損ないがまだなにごとか口にしていたが、俺は雀を焼くのに夢中でそれどころじゃない。

「そうかい」

 生返事をしながら、焼け具合が均等になるように串を回す。

「だってそうだろう? 歳をとれば、いずれ仕事はなくなる。こんなよぼよぼの年寄りなんて、誰が雇いたいと思うもんか。アタシだって雇いたかないね」

「あぁ」

「だというのに、年金はどんどん減って、働かなきゃまともに暮らせやしない。結婚して息子や孫を作らなかった私の責任なのかい? この世は、こんなにも残酷なのかい?」

「そうだ、この世は冷たい」

「真綿でゆっくり首を絞められるのは、もうこりごりなんだ。だから、アタシはこの麻縄で死ぬことにした」

 死に損ないがついに椅子から足を離し、宙吊りになる。それでも、何の感慨もない。俺は雀を焼く仕上げに夢中だった。

「止めないのかい?」

「俺に言ってるのか?」

「他に誰がいる? 交友関係もないアタシの周りに、アンタ以外誰がいるって言うんだ!」

「そうかっかすんな。俺はあんたのことより、雀の目刺しのほうが大事なんだ。放っておいてくれ」

「そうかい。じゃあ、アタシはもういくよ」

 椅子をかかとで蹴飛ばして倒し、いよいよ婆さんは首を吊った。顎の下で握り締めていた拳は、枯れ木のようにだらりと垂れ下がる。

「うっ」

 死際に、婆さんの(うめ)くような声が聞こえた気がした。首吊りというのは、案外苦しいのかもしれない。

 背後で一人の命が(つい)えたようだが、俺はいよいよ食べ頃になってきた三匹の雀の目刺しの虜になっていた。

 串の先端側に刺さった一羽の頭にがぶりとかじりつくと、いい具合に焼けた肉汁が溢れ出て、なんとも言えない快感を覚えた。雀の頭は、少なくとも今時のメディアより身が詰まっているようだった。囲炉裏の燃料に、そばの新聞紙をくしゃくしゃにして足した。そのまま読むより、目刺しの燃料になった方がよっぽど役に立つ。今時こんなものを読んでいるやつの考えが知れないが、あの老婆はよほど退屈に殺されかけていたのかも知れない。まぁ、その前に金欠に首を絞められて死んだようだが。

 俺に片手間とはいえ看取ってもらえただけマシな方だろう。死後数ヶ月も経って異臭でようやく発見されるミイラどもよりは幸せな最後だったのではないだろうか。俺とてこの老婆を(ほうむ)ってやる気は毛頭ないが。

『ーーーーご迷惑をおかけしております。憲法改正党の二枚舌(にまいじた)嘘継(うそつぐ)でございます。国庫の十億円で、一億人の国民全員に十万円ずつ配る、これを今、なんとしてでも実現せねばなりません』

 二匹目の頭にかぶりついていると、目の前の道路を選挙カーが通った。どうりで白いカラスたちが騒ぎだしたわけだ。

 目刺しを加えながら表へ出ると、嘘継(うそつぐ)とかいう政治家の頭上を白いカラスどもが飛び回っていた。脳天目掛けてフンを撒き散らしているカラスたちには目もくれず、政治家は中学生みたいなポエムを読み上げ出す。

 するとどこからか集まってきた、体のねじれたどす黒い集団が、自分の体をちぎって政治家に投げつけ出した。酷い悪臭のする黒い体をねじ切れるほど曲げて振り被り、選挙カーの上の政治家めがけて投げつける。政治家はただ、『ありがとうございます、ありがとうございます』とこうべを垂れ続けた。

 声援と罵詈雑言の区別もつかないらしい政治家より、嘘継(うそつぐ)の脳天目掛けてフンをひっかけようと遊ぶ白いカラスたちの方がよっぽど利口に見えた。

 騒がしくなってきて、婆さんの死体を見咎められても困るので、俺は早々に空き家を後にする。住宅街をしばらく歩いていると、選挙カーの騒音はやがて薄らいでいったが、今度はまた息苦しさが戻ってきた。おまけに酷い頭痛もしだしたので、俺はかかりつけのやぶ医者のところへ行くことにする。


『お母さん、お父さん、僕、すっかり元気になったよ!』

 待合室に座っていると、医者が患者の四肢を糸で吊るして、その背後から腹話術を当ててそれらしく演じていた。

「よかったわね、マサル」

「よかったなぁ」

 両親ともども、何事もないかのように操り人形と化した患者と茶番を繰り広げていた。あの調子なら延命は成功扱いだろう。一命をとりとめたとでも言おうか。

 夫婦が操り人形となった患者と一緒に入り口から出て行ったかと思うと、入れ違いでねじれたどす黒い人形が入ってきた。人形は螺旋を描くように体が(ねじ)れていて、もうかなり使い古されたようだ。連れたって歩く若者に執拗に罵声を浴びせては、けたけたと笑っている。さっきの政治家にちぎった体をぶつけていた集団と同じようなもので、いわゆる老害の一種だろう。ここへ来たということは、あの上でさらに何かしらの精神疾患を抱えているに違いない。

 一時間ほど待たされた挙句、診察室で待ち構えていたのは白衣を着たロボットだった。

『調子ハイカガデスカ?』

「副作用かなにか知らないですが、緊張すると汗が止まらないんですよ」

『モウ少シ様子ヲミマショウ』

 前々から何を言っても”もう少し様子をみましょう”か、”薬を増やしましょう”の二択しか言わないやぶ医者だとは思っていたが、とうとう機械に仕事を奪われたらしい。気をつかわなくていい分やぶ医者よりずっとマシだが、言っていることは変わらないようだ。

 さてはスキャンしたやぶ医者の脳でも組み込まれているのだろうか? 驚くほど今までのやぶ医者と同じことしか言わない。

「汗、治らないんすか?」

『モウ少シ様子ヲミマショウ』

 呆れるほど不毛だ。ここまで意味のない会話がかつてあったろうか。自称進学校の校長の朝礼以来の無価値な会話だ。

「結構困ってるんすけど」

『モウ少シ様子ヲミマショウ』

 というか、会話になっているのか?

「あと、自殺衝動も治らないんですけど」

『ウーン、ソレハ困リマシタネェ』

 棒読みで手元の画面をなにがしか操作したかと思うと、

『デハ頓服薬ヲ増ヤシマショウ』

 また薬を増やされた。そのうちホルマリン漬けにでもされるんじゃないだろうか。

 このとち狂った頭や吐き溜めのような人生が終わってくれるならそれでもいいが、きっとこのやぶ医者ロボットは俺を生かし続けるに違いない。苦痛を取り除くことはせず、真綿で首を締め付けたまま飼い殺す気らしい。なんとも不愉快だし、一刻も早く別の病院にかかるべきなことは百も承知だが、どこの心療内科も予約が数ヶ月先まで埋まっていて、そうそう行く気にはなれない。

 政治家の頭上を欺瞞を餌に白いカラスが舞うこの世界では、異常が日常化している。雀を目刺しにして食っても文句がでないくらいだから事態は深刻だ。しかし、政権を宗教団体が握っているからには俺の一票で誰かの未来を変えることなどできはしないだろう。そんな時間があるなら投票用紙を紙飛行機にして飛距離を競った方がマシだ。

 今までよりさらに増えた薬を貼り付けた笑顔をする薬局で受け取り、俺は再び空き家だらけの住宅街を繰り出す。

 あの首吊りの婆さんじゃないが、下手に空き家に入って孤独死の現場でもみようもんなら罪のある無しも考えずに警察に拘束されるので、俺はいつも決まった空き家でしか寝食をしないことにしていた。

 しかし、数日前に寝床であった空き家が役所に取り壊されたので、今日はあの首吊り婆さんの空き家を引いてしまったという顛末だ。

 ハイスピードカメラの映像より遅い役所のくせに、今更のように空き家の整理を始めたらしい。あちこちで取り壊し工事が行われているのが散見できた。といっても万年生きる亀よりのろまな役所のことなので、俺の次の寝床はまだどうにかなるに違いない。

 工事が行われていない方へいない方へとずんずん歩いていくと、とうとう空き家だらけの道に出た。ここら一体なら当分は腰を据えてもいいだろう。

 近くの空き家を適当に一見選び、傾いた大窓から中に侵入した。

 赤くさびたトタン屋根のボロ家だったが、中は案外快適そうだ。床こそ腐っているが、居間なんかはホコリが砂のようになって溜まっている以外ほとんど支障なさそうな具合だった。ブラウン管テレビが足の折れたちゃぶ台に乗せられ、部屋の一角を占領しているが、それ以外の家具はタンスくらいで、それなりに広い。

「問題なさそうだな」

 床を踏みつけるとぎしぎし軋む音がしたが、踏み抜く心配はなさそうだった。居間を寝床に決めると、薬の副作用からくる眠気が我慢していたぶんどっとかさみ、俺は居間の壁紙が破れた壁に背をつけてしゃがみ込む。そのまま左の膝を立てて枕代わりに抱き寄せると、そこからはもうあっというまに眠りの世界に落ちて行った。


 ハッと目を覚ます。傾いた窓からはまだ光が差していた。起こされた原因であるインターホンが再び鳴る。

「すみませーん、役所のものですけども」

 どうやらここまで取り壊しの手が伸びていたらしい。ここの住人のふりをして押し通すには無理があるので、俺は傾いた大窓の隙間から裏庭へまわり、そのまま外へ抜け出した。

 市役所の手が届かない、より遠くへいく必要があるらしかった。食料の雀やカラスなんてどこにでもいるし、あえてここらに止まる道理はなかった。

 当てもなく空き家だらけの住宅街をまた歩き出す。二連続で緊急車両がすぐ横の車道をかすめて行った。何かあったらしい。最近大きな事件事故が近所でたびたび起きるようになった。嫌な時代だ。

 テレビなどという欺瞞の塊を見ることは成人して以来ほとんどない。今は、電気の通っている空き家で充電したスマホだけが、俺とメディアとを結び付けていた。

「さて、どこに行ったものか」

 言ったものの、あらかた行き先は決まっていた。


「コーヒーのブラックを一つ」

 カウンターについて、俺は喫茶店内をぐるりと見回す。客はまばらだった。

「また近所であったんだってさ、首吊り」

「あぁ聞いた、あの例の歩道橋のそばの家でしょう?」

「そうそう、前からあやしいと思っていたのよねぇ?」

「ねぇ?」

 背後で知ったかぶりあっている中年の女たちの会話が否応なしに雪崩(なだ)れ込んでくる。

「そういえば、今度の選挙、どうする?」

「まぁねぇ、はっきりとは言えないけど、やっぱり、あそこかしらねぇ?」

「ねぇ?」

「今の政権はダメよ、ホントに」

「あらそうなの?」

「そりゃそうよ、だって、ねぇ?」

 考えているのかいないのか。きっといないのだろう。二人の中年の女たちの与太話は、聞けば聞くほど馬鹿らしかった。これで世の中をすべて知ったような顔で歩くのだから、狂っている。精神科に三年以上通う俺より、こいつらの頭の中の方が心配なくらいだ。

 何かにつけてあれとか、それとか、これとか。とにかくぼかして味を薄める。そのうち、薄めるために入れた水が主成分になるんじゃないだろうか。いや、もうなっているのか。

「腐った世の中だな」

 つぶやいてみても、騒がしい中年の女たちの無駄にデカい声に遮られた言葉は、天井で回る換気扇に吸い込まれていった。

 店主が天井から吊るしたブラウン管テレビの電源を入れると、通販番組が流れ出す。紹介していたのはダイエットサプリで、飲むだけで一週間に十キロ痩せるらしい。

「前々から思っていましたが、こういったダイエットサプリはどんどん効果がインフレしていてたまらんですな。みんな骨にでもなりたいんでしょうか?」

 店主が誰にでもなく虚空を見てつぶやく。

「身を削って、自分という存在を、このごみみたいな世界から一ミリグラムでも失くしたいのかもしれませんね」

 俺が答えると、店主は白い立派なアゴヒゲを揺らして笑った。

「ハッハ、そのようですな。みんなみんな、なにかにつけてこの世から消えてしまいたいらしい」

「どうりでこの国の人口減少がとまらんわけですよ」

「ですな。この国はいまや自殺・失踪大国ですからね。あなたも、さっきから随分と目が泳いでいるようですが、大丈夫ですか?」

 尋ねられて、俺はコーヒーをすすりながら応じる。

「大丈夫なわけないでしょう? もう三年以上前から、頭も世界も狂いっぱなしですよ」

 背後で騒ぐ中年の女の声が、今はハウリングしたマイクのように耳障りなノイズとなって響いてくる。本物のマイクの方が、音量を下げられるだけまだマシだ。

「首吊りの婆さんは喋り出すし、政治家の上では白いカラスが欺瞞を餌に飛び回ってます。今だって、私にはあなたがトゲだらけの甲冑で武装して見えるんです。まるで、自分以外の誰の意見も受け付けないみたいにね」

「ほう。それはあながち間違いじゃありませんよ、お客さん。自分じゃ偏見だと思っているかもしれませんが、私にはあなたの目は、その泳いだ茶色い目だけはまともに見える。濁っちゃいますが、まだまだ現役といった風にね」

「そうだといいんですがねぇ」

 話しながら、店主は流しで手を洗い始めた。その水の勢いがやけに強かったので、目を丸くしていると、店主は語り出した。

「落ちないんですよ、汚れが。私の手は、あの日からずっと血や泥で汚れたままなんです。もう何十年も前に終わった戦争でね。死体を運んで、燃やす係だったんですが、あの仕事はこたえました。爪と指の間や、手のひらのしわや、隅々まで洗い流しているのに、赤黒い汚れがこびりついたままでね、見ていると、あの日、炊いた炎を思い出すんです」

 言いながら、店主はずっと滝のように強く流れ出る蛇口で手を洗い続ける。

「初恋だったんですよ? 見間違うはずがありません。ぼろぼろの服を着て、身体中泥だらけで、顔も薄汚れてはいましたが、それでも彼女は綺麗だった。そんな彼女の死体を、私は台車で運んで、川辺で燃やしたんです。知ってますか? 死体ってね、燃やすと、勝手に手足が広がるんですよ。折り重なったたくさんの死体と一緒に、彼女の遺体も大の字になってね。まだ生きてたのかな、なんてありもしないことを考えながら、炎上する彼女の横顔が黒こげに塗りつぶされていくのを見てましたよ。私には何もできなかった。この国と同じように、私は負けたんですよ。初恋の女一人、救い出してやれなかった」

 水の勢いが強すぎるあまり、水滴が時折こちらまで飛んできた。それを店主の代わりに拭き取ってやりながら、俺は告げる。

「手を洗っても落ちないなら、足を洗うしかありません。その日の記憶も、辛いこと全部、思い出すことから足を洗うんです。そうすれば、そんなになるまで手を洗わないで済む」

 店主はガリガリに痩せてほとんど骨と皮だけの指先から血を流しながら、それでもまだ洗い続けていた。

「ほう。それは良いことを聞きましたな。なるほど、思い出すのから足を洗えば、確かに私のこの潔癖ぐせも治るというもんでしょうな。ーーーーしかしね、お客さん。私が、彼女の死際を思い出してやらなかったら、なんだか可哀想じゃありませんか? 私にも、他の誰にも思い出してもらえないなら、それじゃ、犬死じゃないですか」

「なーに、気に病むことはありませんよ。生き死になんて、コイントスのようなもんです。コインを投げて、裏が出るか、表が出るか。そのことに、どれほどの意味があるっていうんです?

私はね、過去に何度か飛び降り自殺を図ろうとしましたから、よーくわかるんですよ。あのとき、飛び降りておけばよかったんだ。それなのにそれをしなかったことに、どれほどの意味があるのか。最初は悩みました。でも気づいたんです。意味なんて、ないんですよ」

 店主が、相変わらず手を洗いながら顔をあげた。心なしか、目を見張っているように見えた。

「あと一歩の勇気があれば、私はあのビルから飛び降りることができた。そして、きっと死ぬことができたでしょう。でも、それをしなかった。そんなのは、コイントスなんですよ。意味なんてない。裏が出たか、表が出たか。物理学だのなんだの、科学でそれを理由づけしようと思えばいくらでもできるでしょうがね、そんなことは無駄なことです。蛇の足より無駄です。だって、意味なんてないんですから。雨が降った、雲が晴れた、その自然現象に、理由はあっても意味はありますか? 私はないと思います。生き死にも、その延長線上のものにすぎないんですよ。だから、理由はあっても、考える意味なんてないんです。降り注ぐ雨に意味を求めてないで、我々は傘をさして、雨を避けていればそれでいいんです、気圧がどうとか、前線がどうとか、今降っている雨に理由づけしたところで、どれほどの価値があるっていうんです?」

「それもそうですな」

 短くそう答えて、店主は長い長い手洗いをやめた。そして、今更のように飛び散った(しずく)を拭き始めた。

 コーヒーの残りをグイと飲み干すと、俺はお代をカウンターに置いて喫茶店を去った。そうして、再び空き家だらけのシャッター街に躍り出る。店主の影響かは知らないが、俺まで思い出したくもない昔のことが、思い出されてしまった。

 三年以上前、順調に思われた俺の人生は狂い出した。恋人をポッとでの男に取られ、失恋したのが発端だった。ただでさえ気分が落ち込んでいた俺に、バイト先の迷惑な客に袋が破れているだのなんだのと、どうでも良いことでなじられて、俺はついつい逆上してしまった。そうして言い合いになり、しまいには俺の方から客に手をあげた。騒動のあと、当然、俺はバイトをクビになった。どころか、ブラックリスト入りしたらしく、どこのバイトにも雇ってもらえなくなった。そうして、バイトの面接に落ち続け、社会から阻害された生活を強いられた俺は、いつからか雀の目刺しが主食となり、住居も構えず空き家を勝手に使って暮らすようにまで成り下がっていた。人生に山と谷があるのなら、俺の人生は今までが山で、これからはずっと谷なのだろう。そう気づいて、俺は自殺願望に目醒めた。

 その希死念慮(きしねんりょ)がまた、再び俺を自殺衝動に駆り立てる。俺の足は、とある歩道橋に向かっていた。

 たどりつくなり階段を上り、上り切った先、歩道橋の中央の手すりに、俺は首にかけていたタオルを結びつけた(副作用で汗が止まらない俺は、タオルが欠かせなかった)。

 あとはタオルを首にかけて身を投げ出せば、首吊り自殺の完成となる。

 手すりを(また)いで歩道橋のふちに降り立ったあたりから、野次馬が集まり出した。野次馬たちは、不幸そうな俺を見て、にやにやと笑っていた。

 それでいい。その方が、いっそすがすがしい。

 いつの時代も、人の不幸は蜜の味がする。その蜜をすする野次馬たちは、人間の底辺か? 否、人間の底辺などではない。彼らは、単なる烏合(うごう)にすぎない。その中には、底辺もいれば、普段は人を助ける立場にあるものもいる。そんな有象無象(うぞうむぞう)が、頭を空にして、人の不幸をすするのだ。空っぽの脳味噌が、刺激を求めて寄り集まるのだ。さながら、光に群がる羽虫のように。

 (から)の烏合たちに笑われながら、俺は今まで一度も超えることのできなかった、一歩をついに踏み出した。それは後戻りのきかない、”死”への一歩だった。

 体が宙吊りになり、息が詰まる。

 あの老婆と同じような呻き声が出た。

 首吊りというのは、本当に苦しいらしいな。

 もし、俺に来世があって、そのときもまた死にたくなったら、次はもっと、楽な死に様を選ぶことにしよう。

 ぼんやりとそう思考して、俺は二度と醒めない眠りに落ちた。

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