東京オリンデミック 05「衝突」
「パネリストの皆さん、ありがとうございました」
オリンフェク中止要請集会の司会、百坂俊一郎弁護士がまとめに入った。
「皆さんのご意見を伺っていて、医療関係については医療崩壊の危機的状況っていうことがポイントだと思うんですけれども、それ以外の各業界で共通するキーワードがあったと思います。つまり、「不公平感」ですね。ここに集まられている皆さんは、おそらくですけれども、コロナウイルス感染症の収束を何よりも願っていらっしゃると思います。そのためには、いろいろと日常の不便についても我慢されているんだと思います。
開会前に、大学生の方とお話をしました。今、大学二年生で、入学してから一年はコロナのためにオンライン授業のみ。今年度に入って急遽対面授業になって安心したのも束の間、今度は感染予防対策に関心のない学生がノーマスクで大声でだべっていることに恐怖している、というんですね。
こう、何というか、コロナに対する考え方や態度で、日本人が分断されている。日本にいる外国人の方も、国への帰省もままならず、結局日本を離れるか残るかの選択を迫られてます。皆さん、一時期、コンビニバイトが外国人ばかりだったのを覚えてらっしゃいますか。中国人、ベトナム人、ネパール人がトップスリーだったんですが、日本政府の留学生三十万人計画によって、外国人留学生が増えていたんですね。それに加えて、特定技能ビザというものが新設されて、それまでは高度な技能や知識を有する外国人だけが日本で働けることになっていたものを、緩和した。要するに、日本人の労働力人口が減少しているという現実がありますので、介護や建築などに外国人を採用しやすくしようという政策です。
排外主義者はこういう現状を毛嫌いしてますが、コロナのために排外主義者の望む世界が実現しているともいえます。今、コンビニで働く外国人が激減しているのは、日本国内の外国人留学生が激減しているからです。
そういう変化も大きいんですけれども、今度はコロナに対する対応において、日本人同士の中で分断が起きている。コロナを一刻も早く終わらせるために有効な手立てをすべて行おうとする人たち。それが私たちですね。それ以外にいろんな人たちが出てきています。自粛に同調しない人たちをSNSで吊し上げるような、正義を振りかざすような人たち。コロナは隣国からの攻撃だと喧伝する自称愛国の実態は排外主義者、ヘイトスピーチを行っている人たち。コロナは単なる風邪だからマスクをつけないと主張し、行動する人たち。コロナの脅威は認めるものの、ワクチンを打つとマイクロチップが体内に埋め込まれ、コロナウイルスは5G電波に誘導されて集まってくるという非科学的な陰謀論にハマってしまった人たち。まだ五年経っていないのになぜかワクチン接種後五年で死ぬというデマを信じてしまい、ワクチンを接種しないように接種会場前で実力行使を行う人たち。
ワクチン接種に対するぼんやりした不安なら理解できますが、ウェブ小説の中でしか成立しないような突拍子もない説を信奉する人たちが残念ながら多数いて、声を張り上げているのが現状です。
実際の行動においても矛盾が出てきています。飲食店にマスクをせずに入ろうとして、マスク着用をお願いされても従わず、怒って店を出てきた、嘉門彫安という実業家がいます。彼はSNSでその店を吊し上げ、店にはカモニストと呼ばれる信奉者からの苦情の電話が鳴り止まなくなり、結局休業に追いやられました。そのころ、嘉門さんは「コロナなんてただの風邪」と言ってたんです。
その嘉門さんが、もうすでにワクチン接種済みだっていうんですね。どういうルートで接種できたのかわかりませんが、年齢的にはまだ四十代ですね。そういう人がワクチンを一回目ですがすでに接種していた。その不公平感もありますけど、本人は「風邪の予防にワクチンは当たり前だ」とか言ってて、まあ言ってることの一貫性が、本人はあると思ってるんでしょうけど、世間に伝わっているメッセージが「コロナ対策はバカ」から「ワクチン打ちましょう」に変わってるわけで、まあそういう一貫性のなさですね。
で、もう一周回って結局カモン節なんですけど、「二回目のワクチンを打ち終わったらマスクはしない。みんな早く打って、マスクをしないで過ごそう」と呼びかけてます。マスクがいや、ってところだけはブレてない(笑)。いやあ、マスクしなくていいならそれに越したことはないんですけど……木屋先生」
「そうなんですよね。よくある誤解の代表的なものですけれども、ワクチン二回打ってまったく感染しないかというとそういうことじゃない。ワクチン二回打っても感染する可能性はあります。ただ、免疫ができて、感染しても広げにくくなったり、あるいは症状が軽く抑えられるっていうことなんです。だから、マスクをして、感染する可能性を下げることは必要です。今、ワクチン接種の進んでいるブリタニアなどでは、マスクなしでの会食が進んでいますけれども、次の変異株が出てきたら、おそろしいことになると思います。
こう言うと、ワクチン打っても感染の可能性があるなら、副反応もあるのに打ちたくないという人も出てくるかもしれませんけれども、副反応はほとんどが翌日で終わります。一方、ワクチンを打たずに感染すると何週間も高熱が続いたりしますし、味覚障害などの症状が半年、一年続いていて、今も苦しんでいる方が多数います。それを比べると、ワクチンを打つ利益の方が非常に大きいわけですね。
ワクチン二回打った後のマスクは、コロナウイルス感染症が世間で収束するまでは必要です。そこでマスクしないという選択肢は、非科学的な思い込みとか、世間の逆張りの主張をして目立ちたいだけのカモン節でしかありません。そういう誤解に基づいた意見を大声で広める人がいるのも、現在の困った状況だと思います。
一方で、打ちたくても打てない人もいます。インフルエンザの予防接種で、アレルギーで倒れちゃう人もいるんですよ。そういう人を差別するような発言をしないという、ワクチンハラスメント防止みたいなことも必要になってきてますけど、一方で、今日の報道ですけど、マイホーム建築社の社長さんが、ワクチン打った社員を出社させないなんていう、逆ワクハラ的なものも出てきてますよね。ここまでいくと違法レベルですけど、ほんとうに日本中がコロナ・パニックでバラバラになってきてる印象はあります。
で、オリンフェクですけど、そういう分断状況の中で、さらに分断を進めてしまうのではないか、とおっしゃりたいんやないですか、百坂さん」
「ありがとうございます。話を戻していただきました(笑)。そういう問題もあるオリンフェク、やってる場合じゃないよね、というのが今回の集会の方向性として共有できればと思います。
もちろん、課題としては、日本社会の同調圧力を強める立場になってはいけないということがあります。みんな我慢してるんだから我慢しろ、という言い方はよろしくない。不公平をなくそうという方向性で持って行けたらと思っています。
さて、本日のメインは、この後のデモです。決起集会のあと、少し休憩をいただきまして――会場の片付けなども終わらせます――十二時から、この道玄坂上から道玄坂を下りまして、109、スクランブル交差点、そこから山手線を下って宮益坂下、さらに坂を上がって宮益坂上の国連大学前あたりで解散という計画になっております。
参加いただく皆さんにおかれましては、熱中症対策として水分補給ですとか、帽子や日傘のご利用と同時に、ソーシャルディスタンス、前の方と一メートルは開けていただき、またしっかりとマスク着用の上、声を出さず、プラカードの掲示のみというサイレント・デモでお願いしたいと思います。
この会場にも、テレビ局、新聞社、ネットメディアなどの報道陣がいらっしゃっていますので、それらの媒体を通じて、皆さんが物理的な声を張り上げずとも、全国に皆さんの思いは届くと思います。
それでは、十二時に出発しますので、それまで準備をお願いします。また、ご協力いただける方は片付けを手伝っていただけましたら幸いです。
本日はまことにありがとうございました」
声が出せない分、会場からの拍手は大きかった。
「なるほどね、サイレント・デモなのね」
川野辺はキーワードを書き込んで、手帳をしまった。そこへ石原が戻ってきた。
「写真は十分撮れた。あとはデモの様子を押さえておきたいから、充電を確認しておくね」
「了解。壇上の主張をまとめれば、今の問題点がかなり浮き彫りになりそうな集会だったね」
「写真に集中してて聞き逃したところもあるけど、そうそうそれそれ、って言いたくなるところがたくさんあった」
「じゃあ、デモ撮影のロケーションもあるだろうから、先にスタンバっておこうか」
「そうね。――さゆのその白い帽子、似合ってるよ」
「ただの日除けだけど、ありがと」
会場内の自販機で飲み物を購入し、カメラ用の充電がまだまだ充分であることも確認できたため、二人は道玄坂上交差点角の建物の階段に向かった。やや俯瞰の角度で、マスクの集団が間隔を空けてプラカードを掲示するという絵がほしい。それまではスポーツドリンクを補給しながら待機である。
十二時になる五分ほど前に、デモ隊が並び始めたのが遠目に見えた。距離を取って並ぶので、これまでイメージしていた満員電車感はまったくない。客数制限で開催される近くのライブハウスの入場待機列の方がずっと「密」である。
その間にスマートフォンを確認した。マイホーム建築社問題の詳細が流れている。ワクチンを打った社員に「無期限の自宅待機を命じる」と通告。ただし自宅待機期間は欠勤(無給)とし、会社のPCにもアクセスさせないという指示を社長が行ったという。その書類の画像が週刊誌のウェブサイトに掲載された。全社員参加のオンライン社内会議では、「ワクチンを打つと五年後に死ぬ」と涙ながらに語ったり、「スマホの5Gの電波にコロナウイルスが引き寄せられてくるので、社用・私用いずれのスマホも5Gでの接続禁止」と通告したりしたともいう。
取材班デスクからLINEメッセージが入っていた。
「マイホーム建築社の舞浜社長が反ワクチンデモに参加している模様。絵がほしい」
「了解。オリンフェク中止デモ、間もなく開始。スタンバイ中」
と返信したとき、視界の端でデモ隊が動き出すのがわかった。ここはカメラに任せておくとして、素早くスマホで舞浜社長の顔写真を検索する。話題になっているため、すぐに見つかった。
十二時になり、時間どおりにデモ隊が歩き始めた。先頭は百坂弁護士。二人ずつ横に並び、垂れ幕を持ったりしているが、その間隔は通常のデモより広い。そして、前後はゆったりと距離を空けている。「オリンフェク 中止だ中止」という垂れ幕を先頭に、「他のイベントをつぶしてオリンフェク特例」「オリンフェク緊急事態」「カネのために我々は我慢?」などのプラカードが掲げられている。デモ参加者は沈黙だが、デジタルプレーヤーにスピーカーを接続して、「私たちは東京オリンフェク・オリパラフェクの開催に反対します。今すぐ、勇気を持って中止を訴えます」という音声を渋谷の町に流していく。
道玄坂上交差点から、風俗店やラブホの並ぶ百軒店エリア入り口の前を通りすぎていく。興味がないという表情の人々が大半だが、あからさまにバカにした表情を見せる人、親指を上げて賛意を示す人、どちらも少しずつ見える。その中に一人、「オリンフェクに反対するお前らは外国人か! オリンフェクがいやなら日本から出て行け!」と叫ぶ男がいたが、デモに随行する警察官に阻止されていた。
川野辺の頭の中には、すでに記事の文面ができあがりつつあった。東京オリンフェク開会式まで二十日を切った土曜日昼、渋谷に「東京オリンフェク開催中止を訴えます」という声が響き渡った――頭上、まさに真上から照りつける夏の日射しのもと、現状では不公平・不平等感に満ちたオリンフェクの開催は、オリンフェク精神をかえって損なうものではないかとの懸念から、さまざまな業界から中止を訴えるアピールが行われた……。
デモ隊の先頭がやがて渋谷109に近づいてきたところ、ちょうどファミレスの前あたりで、川野辺は異変に気づいた。石原に目を向けると、やはり何か気づいている様子。
「これ、まずいんじゃない?」
「ヤバイよね……」
道玄坂上から109前までゆっくりと、三十分ほどかけて下りてきた。だが、109前の三叉路の向こうを見やると、渋谷のスクランブル交差点は人で埋め尽くされていた。オリンフェク中止デモと同じ時刻に出発したはずの反ワクチンデモがまだ交差点内に留まっていたのだ。
「ちょっとあっち見てくる」
と石原がセンター街の方に向かって走った。デモの先頭にいる百坂弁護士も前方の異常に気づき、デモ隊を一旦ストップさせた。西から東に向かう道玄坂にはこのオリンフェク中止デモの列が続いている。109前の三叉路とスクランブル交差点は目と鼻の先ではあるが、少し離れている。そして、交差点から一度北に向かい、マルイの前からパルコに向かって北西に延びる公園通りへ反ワクチンデモは入っていくはずだった。二つの相容れないデモは、本来ならば接触することなくうまくすり抜けていくはずだった。
だが、明らかに反ワクチンデモに参加しているとわかる人たちが、スクランブル交差点を埋め尽くしているのである。最後尾がまだ残っていたというような状態ではない。明らかに、進んでいないのだ。
石原が戻ってきた。
「あいつら、何考えてんの!全然予定通りのコースを通らずに、すぐに曲がってセンター街に入って、ぐるりと一周してるのよ!」
反ワクチンデモ隊は、北に向かって最初の交差点をすぐに左へ曲がって井の頭通りに入り、スペイン坂の手前で南に折れてヤマダデンキ正面に出てきて、そこからBunkamura通りを109の方に戻ってくるというルートでぐるりと一周してきていたのだ。もちろん、事前のルートと違っているため、警察からはしきりに指導が入っていたが、制止しきれる状況ではなかった。
先頭がスクランブル交差点に戻ってきたのがちょうどこのタイミングだった。
「奴ら、狙ってきてやがる」
弁護士らしからぬ言葉遣いで、百坂弁護士が呟いた。
反ワクチンデモ隊は大声でシュプレヒコールを行っていた。
「ワクチンを打つと五年で死ぬ!」
「ワクチンを打つと五年で死ぬ!」
「コロナワクチンは陰謀だ!」
「コロナワクチンは陰謀だ!」
「闇の世界政府の人口削減計画!」
「闇の世界政府の人口削減計画!」
「ワクチン、ヤバイでしょって話だよね!」
「ワクチン、ヤバイでしょって話だよね!」
「コロナはただの風邪!」
「コロナはただの風邪!」
「ワクチンという異物を入れるな!」
「ワクチンという異物を入れるな!」
「マイクロチップが埋め込まれる!」
「マイクロチップが埋め込まれる!」
「コロナウイルスを集める5G電波!」
「コロナウイルスを集める5G電波!」
「ウィリアム・ゲート氏はコロナを事前に知っていた!」
「ウィリアム・ゲート氏はコロナを事前に知っていた!」
「RNAワクチンでDNAが書き換えられる!」
「RNAワクチンでDNAが書き換えられる!」
「ディープステートの陰謀だ!」
「ディープステートの陰謀だ!」
「フリーメーソンに騙されるな!」
「フリーメーソンに騙されるな!」
「イルミナティに騙されるな!」
「イルミナティに騙されるな!」
「CIAの情報操作に騙されるな!」
「CIAの情報操作に騙されるな!」
「我々は真実を知った!」
「我々は真実を知った!」
シュプレヒコールは、単にワクチンを打ちたくないというだけではない。5G電波がコロナウイルスを集めるだの、ワクチンを打つと体内にマイクロチップが埋め込まれてDNAも書き換えられるだの、完全に誤った疑似科学的言説を鵜呑みにしているだけでなく、闇の世界政府が世界人口削減の陰謀を企てているという陰謀論も組み合わさっている。
ワクチンを打つことに不安がある人が無理してワクチンを打つ必要はないし、今なら打ちたくても打てないくらいワクチン不足の状態なのだから、こんなデモをする必要はないのだが、「一般人から隠されている〈真実〉を知った」という感覚から、このような主張を声高に行っているのだろう。
「よう、取材か?」
と突然肩を叩いてきたのは、同じ部署の上司であり、記者としての大先輩、「師匠」的な存在でもある武者小路敦盛だった。すでに老境にさしかかっているが、日焼けしてその年齢とは思えない。
「いやあ、今って二〇二一年だよね。一九九五年かと思ったよ」
「どういうことですか?」
武者小路は川野辺を引っ張って、109前のストリートピアノの裏に引っ張っていった。なるほど、ここなら反ワクチンデモ隊から聞こえない。
「一九九五年、東京地下鉄毒ガス撒布事件があったのは覚えてるだろう。あの事件を引き起こしたカルマ解脱教が陰謀論を唱えていたのは知ってるか?」
そういえばそういうこともあった、とは知識で知っているが、川野辺はまだ幼いころのことであり、リアルタイムで理解していたわけではない。一方、武者小路はそのころ新聞社に入ったばかりのころのはずだ。
「カルマ解脱教は、フリーメーソンやイルミナティを中心とした闇の世界政府が、世界人類の人口削減計画を行っているという陰謀論を、『シヴァ神の鉄槌』という一般向け機関誌で展開していたんだ。その直前の阪神淡路大震災も地震兵器によるものだと主張していたし、歌手の鵜崎悠鷹の死はCIAによる暗殺だというビデオまで作成していた」
「えっ、ちょっと待ってくださいよ。闇の世界政府なんてまんまだし、歌手の死亡をCIAによる暗殺って言い切るとか、全部つながってますよ」
「そうだ。反ワクチンの主張は、完全に、カルマ解脱教が採用していた陰謀論そのまま、四半世紀以上経った今も生き残ってる。連中はまさにカルマ解脱教の後継者と言ってもいい。本人たちにその自覚はないだろうけど」
二〇二〇年に亡くなった俳優・横須賀夏樹の自殺と、時期的にそれに続いた数名の女優・俳優の自殺に関して、陰謀論者はCIAによる暗殺だと主張した。それをネット書店の自費電子出版で発行する者、OurChannel動画にアップする者がおり、その信奉者を広げていった。
「背後にカルマ解脱教の残党が絡んでいるかどうかはわからないし、その証拠もないけれどもね、鵜崎悠鷹CIA暗殺説と、横須賀夏樹CIA暗殺説は、二十五年の時を経てカルマ解脱教の主張をそっくりそのまま再現したものとしか言いようがない」
「そっくりというより、そのまんまなんですね」
「それだけじゃない。カルマ解脱教は、体内の気の脈が乱れると言って、西洋医学的な治療を極力避けていたんだ。病気の治療は、激しい修行と、阿修羅沢釈王導師のエネルギー移入によるものとされていて、体内に異物を入れることも、他人に触れることすらも激しく避けていたね。取材した末端信者が、握手さえも絶対にしようとしなかったのが記憶に残っているよ。反ワクチンの「体内によくわからないものをいれたくない」感覚もまた、カルマ解脱教の再現にしか見えないね」
「ひたすら同じですね」
「もちろん、当時は5G回線もRNAワクチンも存在していなかったのは当然だけど、実はマイクロチップを体内に埋め込んで人類をコントロールするという陰謀論はすでに教団でも語られていた。そして、カルマ解脱教は、この陰謀論による仮想敵、闇の世界政府の陰謀を先導する者をアメリカ合衆国と考え、特に在日米軍を敵視した。そして、在日米軍の手先として動いている日本政府と警察・公安組織を敵としていたんだ」
「でも、反ウイルス陰謀論がカルマ解脱教の唱えていたものとまったく同じという報道は、今のところほとんどないですよね」
「そうなんだよね。カルマ解脱教を取材したことがあれば気づくはずだろうし、カルマ教団の取材で名を上げたジャーナリスト、今政治家になっている人もいるけれど、そういう人たちがきちんと指摘しないのは、なぜなんだろうね。ま、臆測だけど、もしそのような報道が出れば、カルマ解脱教にシンパシーを寄せる者が出てくるかもしれないっていう藪蛇を恐れてるんじゃないかな。都市伝説といって同じ陰謀論を流布している芸人を「カルマ解脱教の陰謀論そのまま」と批判することも、大手芸能事務所に気兼ねしてやれないんじゃないの?――これについては信じるか信じないかはあなた次第だけれども」
警察の制止を無視して、反ワクチンデモ隊は完全にスクランブル交差点を埋め尽くしていた。
「反ワクチンもきれいに二つに分かれてるようだね。今のところは手を組んでいるけれども、そのうち分裂しそうだ」
「どういうことですか?」
「見ればわかる。マスク着用している人たちと、ノーマスクの人たちで、きれいに二つに分かれている。感染はしたくないがワクチンは怖い、という人たちはマスクを着けている。一方、マスク着用すら何かの陰謀だと考えたり、マスクには何の効果もないと考える一派もいる。――石原さん、ちゃんと撮っといてね」
武者小路と川野辺がいるストリートピアノの後ろにやってきた石原は、指でOKサインを出した。
「反ワクチン・ノーマスク派が多い感じですかね」
「そりゃそうだろう。密を避けるのが無意味だと思ってる人たちが、こうやって集まってくるんだろうから」
確かに、オリンフェク中止呼びかけデモの方は、人数的にははるかに少ないし、人の密度も薄いため、アピール力は弱かった。反ワクチンデモはそれに比べると多いし、密でもある。
と見ていると、何やら動きがあった。反ワクチンデモが動き始めた――こちらに向かって。そして、不穏なことを叫びながらどんどん近づいてくる。
「あそこにいるのはオリンフェク中止を訴える連中だ!」
「ワクチンをオリンフェクより優先する、闇の世界政府の手先だ!」
「日本の威信を賭けた一大イベントを否定する、隣国政府の手先だ!」
「闇の世界政府が先導する反日の奴らだ!」
「反日で日本人を滅ぼすことが目的の反オリンフェク集団!」
激しくツバを飛ばしながら、道路を埋め尽くした反ワクチンデモの参加者が押し寄せてきた。
「反日を排除せよ!」
「正しいコロナ対策! ワクチンは打つな! 五年後に死ぬぞ! 今はオリンフェクを応援せよ!」
これはまずい、と思ったが、その瞬間に一人の顔が川野辺の目に入った。集団に交じって「五年後に死ぬぞ!」と叫んでいる男の顔は、先ほど検索した人物、マイホーム建築社の舞浜社長だった。あわててスマホを取り出し、先ほどの検索画面を石原に見せる。
「この人の写真、押さえといて! 詳細はあとで!」
「なんかよくわかんないけど、わかった!」
反ワクチンデモの一群の勢いはどんどん増している。
「反日を排除せよ!」
「隣国政府の手先は国に帰れ!」
「オリンフェクを邪魔させるな!」
「オリンフェク開催に問題はない!」
「オリンフェク開催のために純粋にがんばった人たちを否定するな!」
もはや反ワクチンデモは反・反オリンフェクデモに変質し、完全に衝突していた。
警察の制止も耳に入らない。その映像は、川野辺ら東京日日新聞社以外に、双方のデモ取材に参加していたテレビ局や新聞社のカメラやビデオに収められていった。
「オリンフェク中止デモはただいまをもって解散します! 身を守る行動を取ってください! 逃げて!」
百坂弁護士が念のために用意していたメガホンで後方に向かって解散を宣言する。その声の最後は、「オリンフェク開催の反日野郎!」の声にかき消された。反ワクチンデモも腕力による暴力をふるいはしなかったが、とり囲んで、飛び散った飛沫が相手の顔にかかるのを止めようとはしなかった。
警察の制止でようやく反ワクチンデモが現地解散となったのは、それから十分後のことだった。当然ながら他の署名活動等も実施できるはずがなく、中止を余儀なくされた。予定通り開催されたのは、代々木公園のノーマスクピクニックだけであるが、この衝突の直後に警察から解散を促され、中断されることになった。
テレビではこの渋谷109前の衝突の映像が繰り返し報じられた。各局によって扱いは少々異なったが、オリンフェク中止デモが逃げる中で密になった瞬間を切り取った写真がインターネット上で拡散された。そこには、「密になるからオリンフェク反対と言っているはずなのに、自分たちが密になる愚かな人たち」というコメントも添えられており、賛同者も増えていった。
そして翌日、百坂弁護士は発熱症状を訴え、新型コロナウイルス陽性であることが判明した。