東京オリンデミック 02「取材」
この小説はフィクションです。
あくまでもフィクションです。
「今晩、新聞社の人間が取材に来るそうだ」
スマートフォンの通話を切りながら、コーチのミゲルはフアンにつぶやいた。
「さすがにスタイリストの随行までは用意していないから、ちょっと見栄えがよくなるように早めに用意しておけ」
日本に来て二日目。エルダヴィア選手団は世界遺産日光に近い渓谷の毛野川温泉に逗留していた。
本来、もっと東京から電車で一時間かからない小江戸市での滞在が予定されていたが、コロナウイルスの爆発的拡大により当地のホテルがすべて軽症患者収容施設として使用されることになり、オリンフェク選手を受け入れるどころではなくなったのだった。そこで、代替地として、緊急事態宣言や「まん延防止措置」の影響で客数が壊滅的に減少したこの温泉街が選ばれたというわけである。海外からのインバウンド観光客に多くを頼っていたこの観光地では、入国制限と同時に国内観光客誘致に切り替えたものの、日本各地の他の観光地同様に経営危機に陥った。政府が主導する「GO TRIP!」政策の恩恵も一時的なものにとどまった。小江戸市でのオリンフェク選手受け入れ辞退の報に、毛野川温泉郷は代替地として名乗りを上げたのも当然であった。
毛野川温泉は歴史のある、しっかりとした温泉郷である。街のあちこちには足湯もあり、古代の英雄・毛野津彦をモチーフにしたレリーフや銅像があちこちに建てられている。渓谷をまたぐ吊り橋も見物だ。
しかし、選手団はそれらを一切経験することができない。毛野川温泉駅正面のホテル「ホテル毛野川」および「毛野津旅館」から一歩も出ることが許されていないからである。コロナウイルス感染症の拡大防止のためであり、これらの対策を徹底することで「海外からアスリートを呼んだことによる感染拡大」を防ぐことが至上命令となっていた。
昨日、羽田空港からの専用バス二台に乗り込み、エルダヴィア選手団は一路、毛野川温泉郷を目指した。浅草から東京天空樹ラインの特急に乗れば早いのだが、公共交通機関を使うなという制約のため、二時間かけてバスで高速道路を突っ走った。アスリートとはいえ、いや、アスリートだからこそ、エルダヴィアの選手たちはバスの中に閉じ込められたことでかなりストレスも溜まり、疲労も大きくなっていた。到着後、旅館の用意した豪華料理に舌鼓を打った後、宴会になだれ込む前に眠り込んでしまう選手が多かったのも仕方ないだろう。
ちなみに、選手団を迎え入れる地域等によっては、揚げ物ばかりのコンビニ弁当にカップラーメンを用意されたところもあるようだが、代替地となったエルダヴィア選手団は美食を楽しむことができたのである。この旅館での扱いは入国後の隔離も兼ねており、幸いにも「監禁」とは思われないような豪華な拠点であった。
二日目には昼間から日本風の「温泉」を楽しむこともできた。旅館の窓から見える毛野川の渓谷の風景、もちろん対岸には別の旅館があるので完全に人工的なものを排除はできないが、それでも日本の風景を堪能することはできたといえよう。温泉に浸かったことで全身の血行がよくなり、ストレッチやマッサージの効果も出るのはすばらしいことだった。
すぐ近くの運動公園はアスリートたちのための貸切となっており、サッカーチームはボールを転がしに行っていた。柔道の練習ができるような場所はなかなかなさそうだったが、ミゲルが交渉した結果、公民館の和室を借りられるとのことだ。柔道練習にはやや狭いが、畳の部屋でトレーニングできるだけでもマシということか。いずれにしても、住民や観光客との接触は厳禁である。
そんな隔離期間ではあるが、報道は待ったなしだ。完全な感染対策の用意をして新聞記者が訪れるという。さすがにテレビは絵にならない状況の上、取材の場面が報道されることで余計なバッシングを招きかねないために断ったが、文字情報と写真程度なら無難に収められる。
早めに温泉に入り、髪型だけでも整えておこうとフアンは計画した。
取材陣がやってきたのは夕方五時ごろ。取材時間を短くするため、競技ごとに記者とカメラマンを用意してきた新聞社の一行は観光バス一台を貸切で到着した。バスが到着したのは音でわかったため、フアンはもう一度髪型をチェックした。
しばらくして、フアンとミゲルが待っている応接ルームに、柔道取材担当がやってきた。記者は若い小柄なパンツスタイルの女性、カメラマンはやや背の高い細身のジーンズの女性だった。そして通訳のスーツ姿の男性。
「はじめまして。取材に先立ちまして、先にセッティングをさせてください」
通訳が訳している間に、記者は手早くアクリル板を卓上に立て、感染対策を始める。ICレコーダーとアルコール消毒ジェルを置き、ウェットティッシュにも見えるものでテーブルを拭いた。なんとも念入りなことだ。
一通り準備が終わると、日本人らしくネームカード――名刺というらしい――を取り出して、挨拶してくれた。ここまでまだ座ろうともしない。
「改めまして、はじめまして。東京日日新聞社記者の川野辺小百合と申します。こちらはカメラの……」
「東京日日新聞社写真部の石原琴子です」
名刺を差し出しながら自己紹介するのを、通訳が翻訳してくれる。
「そして、私は通訳の渡辺翔です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします。私はコーチのミゲル・カスタネダ」
「私はフアン・ロドリゲスです。どうぞよろしく」
「それでは、早速ですが取材を始めさせていただきますね。録音させていただきます。カメラは取材中に撮らせていただくのと、あと、最後に少し撮影タイムを設けさせてください」
前下がりショートの髪型の記者、川野辺はそう言って着席し、通訳の渡辺もそこから少し離れたところに椅子を引いて座った。カメラマンの石原は部屋の隅に移動して、カメラを構えた。川野辺は薄いピンクのウレタンフォームマスクをしていたが、少し鼻先が出そうになったのでマスクをずり上げた。どうやら小顔のために少々サイズが合っていないらしい。カメラマンはかなり実用的なKF94マスクをしているが、やや息苦しそうだ。通訳の渡辺はグレーの、やはりウレタンフォームのマスクである。こちらは完全に鼻が出ていた。
「まず、来日されるのは今回で三度目ですが、到着されて、日本の印象はいかがですか」
「最初は大阪、次に福岡でした。今回は東京ということで観光も楽しみにしていたのですが、それはかなわず、今、この毛野川温泉で隔離状態です。ただ、温泉はいいですし、景色もきれいですね。あー、そうそう、飛行機の窓から富士山が見えました。柔道を生んだ国の精神的支柱となる山ですが、非常に霊性が高いと感じ、身が引き締まる思いでした」
フアンは大学のスポーツ学部在籍中、インタビューの答え方についても訓練を受けてきた。何しろ、エルダヴィアにおいてスポーツは軍事力や経済力と並ぶ国威発揚の道具なのだ。スポーツマンシップにのっとって正々堂々と闘うのも、そういう紳士的な態度をとる国であるというアピールが最大のポイントである。もちろん、そのような国家方針であるから、アスリートもそれが当然と考え、不祥事を起こした場合は徹底的に糾弾・排除される。日本ではアスリートは犯罪行為(ドラッグや暴力など)を起こさない限りかなり自由に行動や発言が行われるのが、フアンには少々不思議に思われた。ミゲルに言わせれば、恋愛禁止や一つ一つの発言が注視される制約の中で生きているのは、エルダヴィアのアスリートと日本のアイドルだ。
記者の川野辺は、模範的かつ独特の回答に満足し、次の質問を出してきた。
「今回のオリュンポス・フェス・クラブ大会の出場に備えて、どのような点に力を入れてきたのでしょうか」
「そうですね、とにかく精神性を鍛えることに重点を置きました。
肉体的な完成度ということだけでいえば、あー、昨日羽田でも会ったのですが、ブリタニアのフレデリック・アーサー選手にはかないません。しかし、フレデリックは柔軟さに欠ける面があったので、多分今大会ではその点の改善を行ってきていると思います。そうすると、単純に力と力のぶつかり合いであれば、勝ち目はありません。
しかし、それでも私は勝たなければならない。やはり、日本発祥の競技である柔道で強くなるにはどうすればいいか。それは、日本に留学していた経験のあるコーチ、ミゲルの助言が大きかったのです。柔道は精神性を高めるための競技だと。忍耐力、冷静さを保つ意識、そしてチャンスを逃さない集中力。残念ながら私の国では滝行などはできませんが、毎日心を鎮めて瞑想する時間を設けました。
今、この毛野川温泉郷の公民館和室をお借りできることになりましたが、柔道の組み手を練習できる環境ではありません。しかし、畳の部屋で精神集中する時間を確保できる見通しです。もちろん、旅館で和室でもいいんですが、ちょっと気が散りますので、何もない部屋をお借りできるのは本当にありがたい」
川野辺記者はうなずきながら、そして時折マスクをズリ上げながら、メモを取る。録音しているのにメモも同時に取るのは、日本人記者の真面目なところだ。
話している姿を、石原カメラマンがスチールに収める。何百枚撮影しても使われるのは二、三枚だが、その中でいいものを使ってくれるのだろう。質問されて、それが訳され、答えて、また訳す。タイムラグが発生するので多少ペースが狂うものの、ありがたいことにそれで考える時間も生まれている。
「今日はどのように過ごされましたか?」
「まずは焦らず、日本の気候に慣れること、そして時差ボケを解消することに努めています。何よりもまず、身体的な抵抗力――免疫力を高めることが必要で、そのためには環境がストレスになってはいけません。ですから、日本の日の出の時間に起きて、日中はできるだけ太陽を見て過ごす。それが今、何よりやらなければならないことです。
もし、ここで焦って、この高温多湿な環境に慣れないまま無理をすると……ああ、エルダヴィア、特に私の生まれ育った高地エリアは、この毛野川温泉よりも気温が低く、湿度もずっと低いですね。ですから、この環境に慣れないまま、練習に取り組んだりすると、このコロナ禍の中、決していい結果にはならないと思います。
何よりも私は結果を出さなければならない。絶対に結果を出したい。その一念で過ごしています」
模範的な回答だろう?とフアンは心の中でミゲルにささやいた。他人を批判しないように気をつけながら、自分の不足を自覚していることを表明し、謙虚に努力を積み重ねるという姿勢を見せること。それが日本メディアで好感を得る鍵だ。そして、まずは記者たちを味方にしなければならない。もし日本文化の基準で無愛想な態度(それをごく普通のものととらえる文化があるだろうが、それでも愛想がいいとは言えない態度)を取って、記者がそれを「思い上がっている」と受け取った場合、記事のニュアンスは一気に批判的なものとなる。それを日本語では、伝説の空飛ぶモンスターの名前を取って「天狗になる」というらしい。天狗は鼻が高く、日本語で「鼻が高い」はプライドが高い人のたとえになっていることから生まれた言葉だそうだが、ミゲルは日本留学中、天狗になっていると思われないように必死だったと聞いた。
現時点で、決してミスはしていない。川野辺記者が深くうなずき、好意的な視線を向けてくるのを確認している。通訳の渡辺氏にも、できるだけわかりやすい、誤解のない言葉で語ったことから、訳しやすいと思われただろう。そして、時折カメラのレンズに視線を向け、口角を上げる。
川野辺記者がノートを何度かめくった。これは、質問し忘れがないかどうか確認する仕草だろう。最後まできっちりとやって、初めて成功だ。後半の質問にも粗相がないように気をつけなければならない。
「では、ちょっと違う質問を。この旅館にもいろいろお土産を販売していますが、今回はどんなものを買いたいと思っていますか」
スポーツに何の関係もない質問だが、ここで親しみを持たせるのがメディア戦略だと聞いている。これはしっかりと答えなければならない。
「日本には何度か来ているので、今回はぜひこの毛野川温泉郷でしか買えないようなものをお土産にしたいですね。あの、豆腐を作るときにできる薄い膜のような食べもの、何て言うんでしたっけ……」
「えーと、湯葉かな?」
と通訳の渡辺が助け船を出す。
「ユバって言うんですね。今日のお昼ご飯に出てきたんですが、不思議な食感で、しかも大豆から作られた健康的な食品ですよね。日本料理は大豆の加工品が多いですが、その中でも特におもしろいユバをお土産にしたいと思います」
日本文化を肯定して好感度アップ作戦である。日本人の一部ではあるが、親日的か反日的かという基準でその国を全肯定・全否定する者たちもいるらしく、それがそれなりの影響力を持っているらしい。親日と思わせておくのが得策、というのがエルダヴィアの国家宣伝方針だ。
それに、湯葉はなかなか美味しかった。納豆はハードルが高いが、どちらかといえば無味無臭に近い食べものなら嫌いということはない。
「湯葉ですか。なかなかの日本通ですね。ぜひほかにもいいお土産を見つけられることを期待しています。――では最後の質問」
最後だが、これがメイン、という雰囲気が伝わってきた。
「このコロナ禍においてオリンフェクが開催されますが、その中でもアスリートとしてどのようなお考えをお持ちですか」
これはまたざっくりとした質問だ。だが、このインタビュアーの女性が訊きたいこと――いや、正確に言えばこの新聞社が掲載したいと思っている答えならわかる。答えは二通り、物議を醸しそうな問題発言か、そうでなければ「使いやすい」答えだ。もちろん、自分が「物議を醸すコメント」の担当になるつもりはない。そういう「炎上マーケティング」は、よほどの計算とその後の計画がなければやるべきではない。
「ええ、オリンフェク開催に対して反対している方も多いとお聞きしています。日本人の過半数は開催に反対、もしくは開催するとしても無観客を希望しているということですね。それはよくわかります。コロナの感染対策が一番であることは言うまでもありません。
ただ、アスリートにとって、四年に一度のオリンフェク、今年は五年目になってしまいましたが、これは特別な意味を持つ大会です。アスリートとして、ライバルたちと競い合い、自らの限界を超えるように戦っていく。そのための舞台が与えられたことについては、ただ感謝の念しかありません。反対意見も多い、極めて危険ともいえる状況下で、それでも自らの最高の状態を保ち、最高のパフォーマンスを行い、自分自身を超えていく。それをお見せすることが私の義務だと考えています。
オリンフェクの実行委員会がどのように考えているのか、この大規模な世界大会を運営するためにどれほどの資金が必要で、どれほどのお金が動くのか、またどこをどう動いていくのか、といったことも批判の的になっているのだとは思います。ただ、アスリートとしては、たとえ仮に利用されているのだとしても、ただ自らの最高を尽くす。考えることはそれだけです。
そして、結果として、我がエルダヴィアという国について知ってもらえたら、その《副反応》はとても嬉しいものです」
用意していた模範解答を話しているうちに、心の底からそう思っている力強さを込められるようになってきた。いや、本当にそうじゃないか。オリンフェク委員会が利権を守るためだけにこの舞台を用意してくれたのだとしても、そこで戦えるというのは幸運だし、むしろそれを利用して出場したい。
「ありがとうございます。本当にいいお話が伺えました」
お礼を言い終わるタイミングで川野辺記者、通訳の渡辺が同時に立ち上がり、石原カメラマンも揃って姿勢を正した。そして、同じタイミングでお辞儀をする。
石原カメラマンが寄ってきて、今撮影した写真から何枚か見せてくれた。渡辺が、
「いい感じで撮れてますね!」
と話し掛けてくる。オフィシャルな場面が終わって、急にカジュアルに切り替わるのも日本人らしいと思う。
「この後はもう、すぐ東京にお戻りですか?」
「ああ、ちょっと他のチームの様子を確認しますね。たの取材チームが終わらないとバスが出ないので。多分、人数の多いサッカーチームなどはまだ終わらないと思います」
渡辺が声をかけると、川野辺記者が廊下に出て行った。そして、渡辺が奥に引っ込んだと思うと、すぐに両手にホットコーヒーを持ってきた。
「どうですか、せっかくですから少しお話ししませんか。もちろん、お疲れでしたら無理にとはいいません」
「いや、部屋に戻っても退屈ですから、どうぞ。イシハラさんも、カワノベさんも、どうぞ」
戻ってきた川野辺記者が手を横に振っていた。どうやら時間はまだかかりそうだ。他の二人もコーヒーを持ってきて、四人の談笑が続いた。