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東京オリンデミック 01「入国」

 この小説はフィクションです。

 あくまでもフィクションです。

 ワクチン接種もいまだ進んでおらず、医療従事者がキャパシティ一杯、病床不足が懸念される危機的状況下で、さらに医療従事者の協力を強く要請して国際的スポーツ大会開催を強行するようなバカげた事態は、現実にはありえないはずです。したがって、この小説は百パーセント虚構であり、実在する人物・団体・出来事等とは一切関係あるはずがないことは皆さんご承知のとおりです。その点、重々お含み置きください。

 きっかけというものは小さいものだ。それが小さいままにとどまるか、それとも大きくなるかは時と場合による。


 南米エルダヴィア航空特別機は、羽田空港に静かに着陸した。飛行機の小さな窓から空港の建物を見て、男は小さく咳払いした。

 世界的に新型コロナウイルス・コヴィッドナインティーンが猛威を揮っている二〇二一年夏、エルダヴィアの首都エルダと成田間の直行便は運航が中断されている。この特別機は、東京で開催されることが決定した四年に一度のスポーツの祭典「オリュンポス・フェス・クラブ」略してオリンフェク東京大会に参加するアスリートと関係者を乗せたものだ。

 長身かつ筋肉質な、見るからにスポーツマンの表情をした男の名はフアン・ロドリゲス。柔道の優勝候補とされる期待の二十二歳である。寡黙なため報道陣からは評判がいいとは言えないが、スポーツマンとしては責任感が強く努力家であるということで人格者としても扱われている。

 正直なところ、今回のオリンフェクへの参加はギリギリまで判断を迷った。日本ではワクチンの確保が遅れたことから「ワクチン敗戦」とまで呼ばれており、ワクチン接種も予定通りには進んでいない。職域接種などの方法で接種スピードを進めようとしたのはいいが、応募してくる職場や学校が多すぎて職域接種用のワクチンが足りなくなり、募集を停止するという騒ぎもあったという。

 少なくとも、現時点で採用されているF社製・M社製ワクチンはいずれも、二回目の接種後、一定期間後にようやく抗体が作れるようになるものである。二回目の接種後なら変異株に対しても感染しにくくなり、また重症化率・死亡率も下がることが期待されているが、オリンフェク東京大会の開会式から三週間前の今日の時点でも日本の二回接種者の割合は一割強にすぎず、一回以上接種した人で見ても人口の四分の一に過ぎない。

 アレルギーなどの体質のために接種できない人たちがいることを考え合わせると、人口の九割が二回の接種を終えていてようやく、各種規制を緩和することができるのであるが、それにはほど遠い状態だ。しかも、東京では変異株の流行もあり、また緊急事態宣言が長引いたことにより人の流れがさほど減っていないという状況もあり、またもや患者が増大しつつある。四度目の緊急事態宣言発令の可能性も噂される中、それでもやはりオリフェク東京大会は開催が強行されようとしていた。

 普通なら西暦年が四で割り切れる年(たいていは閏年)に開催されることになっているオリンフェクだが、さすがに二〇二〇年には世界的大混乱の中で「延期」が決定された。それから一年、状況は改善するどころか悪化の一途である。もともとの新型コロナウイルス・コヴィッドナインティーンは、日本を含むアジアでは感染率も重症化率も低く、「さざ波にすぎない」という失言が飛び出すくらいには日本での影響力は小さかった。そのため、「コロナなんて風邪にすぎない」などと言い出す人たちも出てくる始末であった。

 ところが、変異株の登場が状況を変えてしまった。その変異株の中には、アジア人に対して大きな影響力を持っているものもある。デルタ変異株は日本でも次第に優勢となり、さらにデルタ・プラス変異株も登場するに至った。コロナ患者のための病床は確保できず、医療従事者も対応するのが限界に近い状況の中、それでもオリンフェク出場選手のために病床と人員を確保せよという指示が出るに至って、さすがにオリンフェクは実施できない、中止しろ、という声が大きくなったのも当然だろう。

 もちろん、飲食店、特に酒を提供する店への経済的打撃ばかり目立ち、強制力がないために効果を出せていない緊急事態宣言や「まん延防止等重点措置」がだらだらと続く中で、同調圧力への反発としてノーマスク運動も広がりを見せていた。意図的にノーマスクとは言わずとも、「鼻出しマスク」や「あごマスク」で会話するような、マスクをしているつもりでしていないも同然の人たちも実質的にノーマスク運動に加担しているといえる。ノーマスクを宣言していた泡沫政党党首がコロナ感染してしまうという、笑うに笑えない事態も出現した。

 日本はコロナ対策が遅れている。それでもオリンフェクは中止されなかった。そして、この混乱の中でも、エルダヴィア政府はオリンフェクへの選手派遣を早々に決定していた。

 エルダヴィアは南米の中でもあまり政情が安定しているとはいえない。日本の人気刑事ドラマ「バディ」でもテロが多発する危険な国家「エルドビア共和国」という国家が登場するが、そのモデルとなったのがエルダヴィアだ。そんな悪印象を覆すための国策としても、オリンフェクでのアスリートの活躍は重要な課題であった。まさに国家の威信をかけての出場である。

「ただいま当機は日本東京羽田空港に着陸いたしました。現地の気温は摂氏28度、天候は晴れ。前の方の席から順にご案内いたしますので、しばらくお席でお待ちください。本日はエルダヴィア航空をご利用頂き、まことにありがとうございます。皆様方のオリンフェクでの活躍を期待しております。」

 専用機なのか通常の営業用なのかわからない機内アナウンスだが、最後に一言だけ専用機っぽいセリフが加わり、フアンは思わず笑ってしまった。待てというので待っているが、一つ置いて隣席のコーチ、ミゲルはすでにシートベルトを外して荷物を下ろしている。

「フアン、荷物を下ろしておいてやるよ」

「ありがとう。それにしても、日本は意外と暑そうだな」

「エルダヴィアよりも湿度は高いようだから、体調管理はしっかりやってくれ。とはいえ、しばらくは隔離されてしまうから、体調よりストレス管理かもしれないが」

「ストレスは大丈夫だ。日本で監禁されている方が、国で監視されているよりずっといい」

「おい、聞こえるぞ」

 感染対策で他のアスリートたちとは席も離れており、フアンは小声でつぶやいただけだったので、おそらくミゲル以外には聞こえていなかっただろうが、そもそもそういうことを口にする不用意さがミゲルには気に入らなかったのだろう。フアンもそれ以上は言うつもりはなかった。

「まあ、できればニッコウでお土産を買いたかったけど、それだけが残念だ」

「またコロナが落ち着いたら改めて来ればいい。それに、この特別機、わざわざルートを変更してフジ山が見えるように飛んでくれたのはありがたかったな」

「美しかったな。日本人がフジ山を信仰の対象にしているのがわかった気がする。そんな国で生まれたスポーツをやっている自分も、気を引き締めて真剣勝負しようと改めて思ったよ」

「フアンは本当に真面目だな。日本でお前が人気が出るのもわかるよ」

「日本人みんながそうじゃないかもしれないが、日本の精神性を理解しようとしているがまだまだだ、と表現するのが一番日本受けがいい、と教えてくれたのはコーチだろ」

「わはは、そうだった。相手を持ち上げて謙虚に過ごすのが日本での評判を高める一番のポイントだ。それを頭ではわかっても実践できない選手が多い中、お前は演技にしろ何にしろ、それをきちんと体得している」

「本音だよ、何もかも」

「はいはい、わかった、わかった。いずれにせよ、エルダヴィア好感度向上作戦の日本向けの切り札としてがんばってくれ。失敗は許されない」

「わかってるよ。大会期間中は新しい彼女を作るのも遠慮しておく」

「そうそう、女性問題は日本では厳しく批判されるからな。アイドルが異性と一緒に座っているだけで糾弾されて謝罪会見を行うお国柄だ。有名アスリートが女性問題を起こすとか、それで弁解しようとしてさらに女性差別だとか思われるのは極めてまずい」

 キャビンアテンダントが近づき、フアンとミゲルの順番になったことがわかった。フアンはマスクを整え直し、荷物を持って立ち上がった。


 真っ白で無機的な空港の通路はどこの国でもそれほど変わらない。壁のポスターや宣伝にエキゾチックな文字が使われているのが日本らしさを感じさせるくらいだ。

 検疫のサーモグラフィーでも異常はなく、難なく通過した。入国審査も、オリフェク参加者に対して厳しいはずがない。ただ、日本人はみんな愛想笑いが上手かと思っていたら、他の国の入国審査官と同様、無表情なままだったことには多少意外な感じがした。しかし、日本人は感情が乏しいと言われていることを思いだし、不思議ではないのかと思い直した。

「ここから少し時間がかかりそうだな」

 とミゲルに声をかけられたのは、手荷物受取場に到着したときだった。サッカーチームが集まっている向こうにコンベアがあるが、まだ荷物は流れてきていない。もっとも、フアンのスーツケースはスカイブルー一色で、同じ色のものは少ないため、流れてきさえすればそれはすぐにわかる。視野の片隅にコンベアが入る角度で立ち、ミゲルとは九十度の角度を保ってとりとめのない話をしていた。時折マスクの位置を調整しながら。

 十分ほど経って、まだ荷物が来ないと思っていると、不意打ちを食らった。

「よう、フアン! 久しぶりじゃねえか」

 勢いよく背中を叩かれ、思わずむせてしまう。気管にツバが入ってしまったようで、少し咳きこんでしまった。

 背後から急襲してきたのは、ブリタニア連合王国の柔道選手、フレデリック・アーサーだった。今回の優勝争いに確実に食い込んでくると思われる、すなわちフアンと同じ柔道のトップレベルアスリートだ。もちろん、この二人は過去に何度も世界大会で直接対戦している。これまでの対戦成績は二勝二敗。つまり引き分けだ。負けられないライバルであるが、よいライバルでもあった。いきなり背中を叩いてくるのにはムッとしたが、再会を喜ぶ気持ちの方が強く湧き出てくる。

「おっと、再会のハグも握手もだめか。まあ、よろしく頼むぜ」

 フランクな口調のフレデリックに、フアンは苦笑いする。いつもこの調子だ。

「ブリタニアはどこで待機するんだ? エルダヴィアはここからバスで二時間くらいかかるらしい。近くに世界遺産があると言われても観光もできないらしいからつまらないな。ただ、温泉には入れるらしい」

「そうか。温泉はいいけど、移動は専用バスしか許されないから困るよな。俺たちは港湾都市らしいので海を眺めて気を紛らわせるよ」

 そこでフレデリックが肩越しにコンベアの方に視線を移した。

「エルダヴィア便の荷物が流れ始めたみたいだぜ」

 目を向けたところ、確かに銀色のスーツケースがいくつか流れ始めていた。ミゲルが気を利かせて、「取ってくるよ」と言うので、フアンはそのまま立ち話を続けることにした。

「大丈夫、ブリタニア・エアルート機はさっき到着したところだから、まだまだ先だ」

 とそこに、女性アスリートがやってきた。金髪を見せつけるかのように歩いてきた露出の多い白い服の彼女も確かブリタニアの……ああそうだ、テニス選手だ。

「フレディ、何話してるの?」

「ああ、俺の好敵手と再会の挨拶だよ。こちらフアン・ロドリゲス。俺かこいつが柔道の金メダルで、こいつか俺が柔道の銀メダルを取る予定」

 三人目はいないのかよ、と突っ込む前に、続けて紹介してくれる。

「フアン、こちらはレベッカ・ブルース。テニスの金メダリストの予定で、ついでに俺のフィアンセ」

「どうぞよろしく」

 フアンとレベッカはほぼ同時に挨拶した。そこへ、ミゲルがカート二台を器用に押しながら戻ってきた。

「僕はレベッカさんの大ファンだったんだけど、婚約してたか。それは残念」

 ミゲルが軽口を叩きながら、スカイブルーのスーツケースを乗せた方の台車を引き取るよう、フアンに目配せをしてきた。確かに同時に運ぶのは大変そうだ。

「じゃあ、我々はあまり遅れることができないので、この辺で」

「また会場で会おう」

 すでに移動を始めているエルダヴィア選手団の後ろについてカートを押していく。

「レベッカ婚約したか……」

 ミゲルがしつこく言うところを見ると、本当にファンだったようだ。税関でも簡単なやり取りだけでスムーズに終わり、いよいよゲートを出ることになる。

「ここからはよそ行きの表情で頼むぞ。エルダヴィア好感度アップ作戦の第一歩だ」

 ミゲルが言い終わるとほぼ同時に、目の前に出迎えの一群が見えた。いや、出迎えもいるが、それ以上に多いのがマスメディア関係者だ。テレビカメラにナレーターと集音マイク、望遠レンズのスチールカメラ、その向こうにようやくエルダヴィアの国旗を持った案内人が見えた。フアンは、マスクに隠れてはいるものの口元に笑みを浮かべ、そして目線で友好的な感情を伝えようとした。しかし、マスク越しには表情が今一つ伝わらない。仕方なく、カートから片手を離して手を振った。

 サッカーチームの面々の中には、一瞬カートを止めておどけたポーズを取る者もいる。サービス精神旺盛なのは、奴らに任せておこう。みんながみんな派手に動くのでなく、ちょっと落ち着いた者がいてもいい。

 警備員がしっかりと見張っていることもあったが、一般のスポーツファンが駆け寄ってくるような不規則事態も発生せず、落ち着いて専用バスを待つエリアに向かうことができた。

 そこには先客がすでにいた。これは南アジアのドラヴィダスタン選手団だ。ドラヴィダスタンは柔道には出場しないが、サッカーの強豪チームである。エルダヴィアのサッカーチームの面々が駆け寄り、歓声が上がった。さすがに制止が入ったが、これは盛り上がらざるを得ない。しかも、止まっていたバスはブリタニア連合王国の選手団を横浜方面へ連れて行くためのもので、杉並方面へ向かうドラヴィダスタンのバスも、栃木県に向かうエルダヴィアのバスもまだ来ていなかった。

 何やら途中で事故渋滞があったらしく、ドラヴィダスタン用のバスが来る前にエルダヴィア専用バスが到着した。そして、エルダヴィアのバスが出る直前、ブリタニア選手団がやってくるのがバスの窓越しに見えた。



《今回の東京における新型変異株の発生において、羽田空港に到着した選手団の間での交流が一因と考えられる要因がある。特に七月一日午後、羽田空港に到着したエルダヴィア、ドラヴィダスタン、ブリタニアの三カ国の選手団が、手荷物受取からバス乗車までの間に接触・交流していたことが確認されている。また、エルダヴィア選手団からはガンマ変異株とゼータ変異株が検出され、ドラヴィダスタンの随行者はデルタ変異株、ブリタニア選手団からはアルファ変異株が持ち込まれたものと判明している。詳細なメカニズムは現時点で不明であるが、これらの強力な変異株のウイルスが同時に存在した環境の中からニュー変異株が生まれた可能性が指摘されている。一方で、ニュー変異株はゼータ変異株と類似点が多いという調査報告もあり、詳細な原因究明にはさらなる調査が求められる。》

――『東京オリンデミック原因究明委員会報告書(速報版)』(二〇二二年二月二十九日)より

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