戻ればいいのに
斗真が去った公園のベンチに一人残って暫く経つ。時間が経ってもまだ頭の中は整理がつかない。何度目を閉じたり開いたりを繰り返しても、状況や現実は何も変わらない。
斗真がここを去ってからどれぐらい経ったのか自分でもわからない。斗真から卒業祝いとして貰ったプレゼントの腕時計は少し前に怒りに任せて投げ捨ててしまったし、公園の時計を見るには顔を上げなければいけない。
きっと涙やら鼻水やらで、丁寧に仕上げたメイクもぐちゃぐちゃになっているだろう。もう暦は春なのに、風は冷たい。濡れた顔がどんどん冷えて行く。ああ、この風で久しぶりのデートだと気合を入れて整えた髪型もぐちゃぐちゃになっているかも。私の頭の中みたいに。
膝の上に置いていたお気に入りのハンドバックの中から、端までアイロンをかけたハンカチを取り出す。
このハンドバックも斗真から貰ったクリスマスプレゼントだった。
このピンと張ったハンカチは、付き合う前に一緒に出掛けた時に斗真が選んだもの。
その思い出のハンカチを持つ指に輝く指輪も、斗真と付き合って一年の記念日にお揃いで買ったもの。いつからか私の指にしか嵌っていなかった。それを指摘して別れが早まるのが怖かった。
高校の入学式で出会って、長い時間一緒にいたのに。終わるのはあっという間だった。少しでも引き伸ばしたくて、お互い最後は苦しい時間になってしまった。
大切に使っていたハンカチに化粧がついてしまおうが、もうどうだっていい。染みがつかないように気を使っていたので、このハンカチの他に実際使用する用のハンカチも持っているが、もうどうでもいい。ハンカチは使うためにあるのに。バカみたい。
バカみたいに。自分なりに大切にしてきたのだ。
シミも使用感も無いハンカチを広げ、思いっきり顔を拭う。
全部全部、初めてだった。誰かを特別に思うのも、自分が誰かの特別だと思うのも、初めてだった。
私の細胞の一つ一つ、全部が斗真と出会って新しく塗り替えられたっていうのに
斗真は私を捨てて姉を選んだ。
結局、私は誰の特別でも無かった。代えの利くありふれた”その他大勢”だった。
それが悲しくて、認めたくなくて、苦しくて、楽しかった思い出を全部汚してしまうようにみっともなく縋って、泣いて、困らせて……。
最後なのに気持ちよく送り出すことも出来なかった。
斗真の、特別な相手の幸せを願う気持ちなんて、ちょっとも沸かなかった。
しかも、特別な相手の心を少しだけでも傷つけてしまいたいとすら思った。その傷が残っているうちは忘れられない、その他大勢に混じらないとでも思っていたのか。傷つけて、罪の意識を持たせて、私のことを忘れなければいいのにと思った。
我ながら暗い。
そんな暗くて重い自分が嫌いだったのに。
斗真と一緒にいるうちに、強くなったと思ったのに。勘違いだった。斗真の明るさを自分の力だと思い込んで、強さや優しさが自分の心にあるものだと勘違いしていただけだった。
見事にアイラインやマスカラやらで汚れてしまったシワシワのハンカチから顔を上げて、もう暗くなってしまった空を見上げた。星空にはあまり詳しいわけでは無かったのに、斗真の名前の由来でもある北斗七星だけはすぐに見つけられる。
「もう、いや」
斗真はいなくなったのに、私の周り、頭の中には斗真の存在が残っている。
それを見るたび、気付くたびに、私はいなくなった斗真を感じるのだ。
「全部、戻ればいいのに」
斗真と出会う前の自分に。
斗真と出会う前の自分がどんな人間だったのか、もう覚えてはいないけど。
きっと今より楽だっただろう。
何も持ってない頃の私は、無くなってしまったものを知っている私よりきっと楽だろう。
こんな結末になるなら、始めたくなかった。好きにならなきゃよかった。
また溢れる涙で星が見えなくなる。
あのやたら光っている星も、まわりと同じ星なのに
なぜその星だけ、特別に見えてしまうのだろう。
ゆっくりと、目を閉じた。
*
冷たかったベンチが、ゆっくりと温かくなる。
肌寒かった気温も、ポカポカと暑いぐらいだ。
静まり返った夜の公園のはずなのに、ザワザワと囁く声、誰かが咳払いをする声、パイプ椅子が軋む音がしてきた。
鼻の奥まで冷える様な空気だったのに、今は懐かしい匂いがする。
昔使っていたシャンプーの匂い。そして、昔の斗真の匂い。
え?
ゆっくりと目を開くと、同じ色の制服を着た集団の中にいた。
周りをキョロキョロと見る。
学生だ。もう卒業してしまった高校の制服を着た集団が前もって説明をされた訳でもないなにのに、均等に並んで座って前を見たり横を見たりそわそわと浮足立っている。
え?え?
思わず変な声が出てしまいそうになり、口を手で抑える。その自分の手も、寒さで冷え切っていたはずなのにぬるい体温のままだった。片手を目の前に持ち上げると、その手にはあの指輪がついていなかった。
斗真と会う前に気合いを入れてネイルサロンで整えたはずの爪も短く切りそろえられていて、素の爪のままだ。もう何年も日焼け止めを欠かさない、白かったはずの手の甲はうっすらと日に焼けている。
その手の甲の下、私が身に着けているのも昔の高校の制服だった。
そんなはずはない。私の高校の制服はクリーニングにかけてクローゼットの中、段ボール箱の下の方にしまわれているはずで……
でも、今着ている制服はパリッとしていて、おろしたての新品のような風合いだった。
公園で泣き暮れていた私はいつの間に眠ったのか。とてもリアルな夢の中にいるようだ。
「大丈夫?」
自分の手を見たり制服を確認したり落ち着かない挙動不審な私の隣から、さっきまで私に謝るばかりだった斗真の声がした。
ハッと顔を上げると、斗真が私の方を見て心配そうにしていた。
あの、出会った頃の斗真が私をまっすぐ見ていた。