月長石のペンダント
「女神……?」
俺は問い返した。
女はそれに頷き、話を続けた。
「ええ、わたくしはこの世界《ルーン•カミニ》の女神の一人、クレーネと申します」
「はあ……」
唐突な自己紹介に、俺は曖昧な返事をする。
いや、初対面なら自己紹介をして当たり前なのだが、いかんせん、出会い方が悪い。
なにより、紅茶(?)の染み。
テーブルの上もそうだが、気になって仕方がない。
「わたくしは、選ばれた者を導くことを、世界より任せられていますーー知念暁さん」
名前を呼ばれて、どきりとする。
どうして俺の名前を知っているのか。それに、選ばれた者とはなんなのか。
分からないことだらけだ。
「その不安はごもっともです。誰しも、未知なることに不安を抱くものですから。けれど、心配をすることはありません」
そう言って、クレーネはふたたび手を打ち鳴らした。
滝に打たれながら水の駒が現れる。そして先ほどと同じように、クレーネに手を差し伸ばした。
その手には半透明の、月の輝きを宿した宝石をはめ込んだペンダントがあった。
「これが、選ばれた者の証」
クレーネはペンダントを受け取ると、席を立ち、俺の方に歩み寄ってきた。
その足が、地面を離れる。
ひと事ながら、肝の冷えるような思いがし、身を乗り出しそうになる。
しかし、クレーネは心配ないと手で制す。
クレーネは目に見えない階段を登るようにして、俺の元へと近づいてくる。
(……本当に女神なんだな)
これで胸元さえ汚れていなければ、間違いなく感動的な瞬間だったのだが。
しかし、
(なんだ、この感じ……?)
この既視感。
俺はどこかで、この光景を見たことがあるのだ。それが、いったいどこだったのか。
(分からねぇ……)
喉まで出かかっているような、そんなもどかしさ。
ここまでくると、むしろ腹が立ってくる。
(なんで思い出せねぇんだよ)
女神はもう目の前まで来ていた。
後光の差しそうな、母性を感じる微笑みを浮かべ、俺を見据える。
「さあ、頭をこちらに」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
すっかり忘れていたが、俺は不安定な踏み台の上にいるのだ。無理に身を乗り出そうとしたら、それこそお陀仏である。
(……いや、それでいいんだ)
なんとも、おかしな話である。
俺は首を吊って死ぬつもりなのだ。どうしてそれを躊躇うのか。
俺は、生きたいと思っているのか。
「そう、あなたは生きたいと思っているのよ」
クレーネの言葉に、俺ははっとする。
俺の首には、すでにペンダントがかけられていた。月の輝きが、胸元にある。
「あなたはただ、生きることが苦しいだけ。生きたいけれど、生きるのが辛い……」
「………」
分かっていた。
心のどこかでは、分かっていたのだ。
俺は、死にたくなどないことを。
「っ……」
目から熱いものが湧いてくる。視界がにじむ。これは、涙だった。
いったい、なぜ泣いているのか。
分からない。
分からなかったが、なにかが俺の心を揺さぶって、引き戻そうとしていることは分かった。
「あなたには役割があるわ」
「役割……?」
「そう」
クレーネは頷き、俺の頬に触れる。
そして指先で、そっと涙をぬぐってくれる。
「この世界を、愛で満たすこと」
「愛……?」
思わぬ言葉に、俺はクレーネを見返した。
「愛は人を救うわ。そして、あなたは人を愛することができる」
「……俺は、そんなこと」
「いいえ」
俺の言葉を遮るように、クレーネはきっぱり否定する。
「あなたは人を愛することができる。けれど、人から愛されることを怖がってもいるわ」
「………」
「人は愛し、愛されるもの」
クレーネは俺の頬から手を離した。
そして一歩、後ろへと下がる。
「期待していますよ、知念暁さん」
聖母のようなクレーネの微笑みが、霞んで見える。
これは涙で滲んでいるわけではない。
目の前の景色自体が、霧のように淡く、曖昧になっているのだ。
「お、おいっーー」
女神に対しての口の利き方ではなかったが、とっさだったのだから仕方がない。
対してクレーネは、微笑みを崩さない。
それも、もう顔の輪郭しか分からなくなる。
(なんだってんだ)
視界は、一面の白。
しかし霧のように、小さな粒子が集まって、ぶ厚い壁をなしているようだった。
白さが深まるにつれ、気が遠くなっていく。
(ああ、俺は……)
身体の感覚が曖昧になっていく。
手足の指先から、頭に向かって意識が集まってくるのを感じる。
(俺は、死ぬのか)
痛みはなかった。苦しさもない。
ただ、自分の存在がどんどん希薄になっていくのが分かり、怖かった。
(……死にたくない)
俺は願った。
(俺はまだ、死にたくない……!)
薄れていく意識のなか、
俺は強く、強く、
ただそれだけを願った……
◇
「………」
俺は、目を覚ました。
どうやら床に横たわっているらしい。縄がむなしくぶら下がり、揺れているのが見える。
俺は生き延びたのだ。
「ちょっと、暁? なにドンドンしてるの?」
感慨に浸っていると、ドアの向こうから母親の声が聞こえる。おそらく、床に落っこちた音を聞きつけたのだろう。
「……なんでもない」
母親に悪気はないが、なんだか邪魔されたような気がして、声音が不機嫌になる。
「……そう」
母親もそれを察して、部屋の前からすぐに立ち去った。
「………」
自分からそう仕向けたとはいえ、罪悪感を覚え、気分が沈んだ。
せっかく生き延びたのに、これではなにも変わらない。
(そういや、首吊りに失敗したとき、たまに痣が残るんだっけか)
首筋に痛みはなかったが、違和感があり、ふと首元に手をやる。
「……ん?」
なにかが指先に触れる。
細い鎖のような感触。
それを辿っていくと、楕円形の硬いものに行き当たる。
「ーーっ」
俺は勢いよく起き上がり、手にしたものを見る。
それは女神から授けられた、月の輝きを宿す、あのペンダントだった。
「夢じゃ、ない……?」
薄気味悪さに、俺は背筋の冷える思いがした。
あれは走馬灯ではなかったのか。
俺はこんなペンダントなど持っていない。首を吊る前からそうだった。
「………」
時計を見る。
首吊りを決行しようとしてから、まだ半時間も経っていない。その間に、俺の首にペンダントをかけたのか。
(ーーいや)
それは不可能だった。
部屋の出入り口は鍵がかかっている。それは窓も同じで、完全な密室である。
「………」
にわかに、人の気配を感じる。
錯覚なのは分かっていたが、それでも無視できないのが人間というものだ。
部屋を見回し、ふと、パソコンのディスプレイに目が止まる。
「……?」
基本的に、使わない時は電源を落としている。当然、首を吊るからといって、わざわざ電源をつけるわけがない。
だが、パソコンは起動していた。
しばらく時間が経っているのか、スクリーンセーバーが流れ、次々に画像を替えていく。
そしてまた、画像が切り替わる。
「あっーー」
思わず、俺は声を出した。
ディスプレイに映る女の姿。それは今年の初めごろにサービスが終了したオンラインゲームのキャラクターだった。
滝を背景に、優雅に腰かける女。
その姿は、女神クレーネその人だった。