マイホームにお邪魔します
こんなに辛いのなら、いっそ首を吊ってしまおう。
そうすれば、きっと楽になれる。
「……怖じ気づくな、俺」
夜だった。
ちりちりと光る蛍光灯が目に痛い。
窓の外からは犬の鳴き声に、ときどき自動車の通り過ぎていく音がする。
外から見えないよう、カーテンは閉めてある。
「……よし」
俺は輪っかになった縄に手を触れる。
近場のホームセンターで買ったものだ。家のなかにある紐状のなにかでもよかったが、強度に不安があるから、わざわざ新品を買ってきた。
お小遣い制の学生にとっては少し痛い出費であるが、出し惜しみなどしていられない。
それに金銭など、もう無用のものだ。
俺は、もうーー
(こんな人生、もう懲り懲りなんだよ)
目を閉じ、縄で出来た輪っかに首を通す。
荒い縄の感触を首筋に感じる。
あとは踏み台を蹴って、ぶら下がるだけだ。
「………」
だが、出来ない。
息が荒くなる。動悸もひどい。縄を持った手や、踏み台に置いた足が、ぴりぴりと痺れてくる。
駄目だ、これでは。
(こんなことをしていたら……)
いつもの自分と同じ。
ただ、怯えるだけで、なにも出来ない自分のままではないか。
(やれ……)
縄を強く、握りしめる。
(やれっ……!)
震える足に、力が入る。
せめて、最後の光景を目に焼きつけようと、俺は目を開けた。
「……あ?」
そこで、目が合った。
「………」
いつから見ていたのだろう。
その女はびっくりしたような顔をして、俺のことを見つめている。ティーカップを口元に当てているところを見ると、どうやらとんだ邪魔をしてしまったらしい。
女は、おそらく日本人ではない。
泉のように青い瞳に、その色と同じ深さをたたえた、つややかな髪。
まるで、清い水が落ちかかるようなーー
(……いや、待て)
顔立ちが日本人ばなれしている。
それはいい。
だが、あの髪の色は不自然だ。誇張した言い方をすれば、地球人ばなれしている。3Dならともかく、人間にあんな透明度の高い青色を再現するのは不可能だ。
服装にしてもそうである。
おそらくドレスなのだろうが、白をベースにした布地は、下に向かうほど透明になり、裾にいたっては跳ねかかる水のような形状になっている。
そして極めつけは、女のいる場所。
(滝……?)
女の背後には、滝が流れていた。
だが、水源は青い空間ーー青空、つまり空中から水は沸き出していた。
よく見れば、そこは空の真っ只中で、女のいる場所は、ひとつの小さな浮島だった。
大自然の一角を切り取り、空に浮かしている。
そんな場所が、目の前に広がっている。
しかし、どうしてだろう。
(……どこか、見覚えがあるような)
それをすぐに思い出すことはできなかった。いわゆる、デジャヴというものかもしれない。
「………」
「………」
俺たちは見つめ合ったまま、黙り込む。
状況がまったく整理できない。なにをどうしたら、縄の向こうに別の空間が現れるのか。
それとも、これはーー
(走馬灯ってやつか……?)
実はもう首を吊っていて、自分は生きるか死ぬかの境にいるのだ。それにしては、生々しい現実感があって、走馬灯なのか疑わしかったが。
なにせ、臨死体験などしたことがないのである。
ともかく、
(……なんか言えよ。気まずいだろ)
心のなかでそんな悪態をつく。
俺から話せば済むことなのだが、それが初めから出来たなら、こんなことになっていない。
しかし、女からは一向に反応がない。
もしや人形かと訝しんだが、まばたきをしているので、生身ではあるようだった。
これは、腹をくくるしかなさそうだ。
俺は口を開き、だが言葉が出ずにぱくぱくと喘いでから、やっとのことで絞り出す。
「……ど、どうも」
恥ずかしさのあまり、かっと顔が赤くなるのが分かる。きっと耳の先まで真っ赤だろう。
会釈に見せかけて、そのまま俯く。
すると、
「ぶぼほっーー」
鼻から紅茶(?)が出るほどの勢いで、女は思い切りむせ込んだ。おまけに、テーブルの上にも液体をぶちまける。なんて汚い。
「おほっ……ごほっ……うぅ、おぇっ……」
かなりひどいむせ方だったようで、ついにはえずき出した。どんな美女でも、やはり汚い。
「………」
俺は呆然となる。
恥ずかしさなど、一瞬で吹き飛んだ。
女のさらしたこの醜態。これに比べたら、俺の失態など些細なものだ。
人のことを笑ったのは、失礼極まりなかったが。
女はしばらく身体を抱えるようにして呻いていたが、落ち着くと顔を上げ、滝の方に目をやる。
そして、召使いを呼ぶように二度、手を打ち鳴らした。
(……なんだ、ありゃ)
滝の奥から、不思議なものが出てきた。
一見すると、それは水で出来たチェスの駒のようだった。透明で、表面が揺れ動いている。
それに、腕らしきものがついている。
その腕を抱え込み、上体(?)を曲げるようにして、それは滝をくぐり抜けてきたのだ。
そう、文字通りに、滝に打たれながら。
(びしょ濡れじゃねえか)
元から濡れていそうなので、気にするべきか分からなかったが、ひどい有り様だった。
なにより、滝が本物であることに驚く。
そんな水の駒は、女の傍まで行くと、抱え込んだ腕をほどき、手(?)を差し伸ばした。
「ありがとう」
柔らかで、それでいてよく通る声音だった。
まるで先ほどの失態などなかったように、女は悠々とハンカチを受け取ると、口元をぬぐう。
そして、
「……すぅーーずずずっ、ずずずずっ。……げほっ」
恥じらいなど欠片も見せず、思い切り鼻をかんだ。そのついでに、また咳き込む。
それから何度か鼻をかみ、ハンカチを水の駒に手渡した。
(……汚ぇな、おい)
俺はげんなりとしたが、殊勝な水の駒は、文句のひとつも言わずに引き下がる。
そもそも、話せるのか不明であるが。
水の駒が滝の奥に消えると、女は居住まいを正し、俺の方を見た。
そして微笑み、言った。
「ーー女神の間へようこそ」
襟元に飲み物の染みを残し、テーブルに液体をぶちまけたまま言われても、説得力がなかった。
この女はなにを言っているのか。