94.君と出会い
その日は待った、ひたすらに。
時計の針は回り回って、長針は短針を二回抜き去ろうとしているところだ。
「今日は、誰も来なかったわね」
「…そうみたいだな」
櫛芭はもう多くは聞かないつもりだろう。
未だに答えは分かっていない。
このままじゃいけないと分かっているから心は進もうとしているのに身体がついてこない。
時間は限られている。
今日一日ここにいて、新たに分かることは無かった。
それを収穫と言っていいのかは疑問符が付くが、別の切り口が必要だ。
机の上に広げた教材をまとめ、櫛芭はなんだか随分久しぶりに見るトートバッグにそれらを仕舞う。
「今日はもう終わりね」
いつも通りの起伏のない小さな、だけどしっかりと耳に届く声。
俺といる時はいつも大体こんな声。
思い出すのも櫛芭の無感情に思える表情も合わさって、ただただ冷たくされてるんじゃないかと勘違いだって起きそうだ。
言葉を額面通り受け取ればいい、何も考えることはない。
その事に気づけば櫛芭ほど会話が楽な相手はそういない。
ここまで裏表が無い人は今までに会った記憶が無く、初めは苦手だと思っていたが案外そうでもないのかもしれない。
隼真が似ているって事になるのかもしれないけれど、その性差だけで俺からしたら大層な違いになるからなぁ。
って、今はそれはどうでもいい話か。
「……あぁ、終わりだな」
教室には来ていた。
友だちとは楽しそうに話していたし、暗い表情なんて欠片も見せなかった。
ここに来ないのは、それは俺の……。
「さよなら、雨芽くん」
「じゃあまた、櫛芭」
それからも何もなく、駅で別れることになればいよいよ一人の時間だ。
思考は靄がかかったかのように浮かぶ物は一つもない。
乗り換えの駅を通り過ぎたり、反対路線の電車に乗ってしまったりと高校生史上一と言っていい散々な帰路だ。
最寄駅にはいつもより30分は軽く数えられる程の時間に着いてしまった。
このままいつも通りに歩いて帰る気には到底なれず、気晴らしの散財ついでに時間を潰すことを思いついた。
どこにしよう……ミスドか、うんミスドでいいな。
わざわざ家が遠のく北口を選ぶほどの気力は出てこなかったので脳内会議で賛成多数の即ミスド可決。
ホームから階段を登り改札を通り、そしてまた階段を降りる。
この時間から、そしてこの駅から電車に乗る人はほとんどいないので北と南、左右に分かれればあとは人の流れに沿うだけでいい。
時間が遅いと言っても、そこまで人の数は変わらないみたい。
人が目に見えて減るのはまだまだ先の深夜帯という事か。
誰か著名な人が作ったであろう彫刻を横目に通り過ぎ、今は亡きビデオレンタル店に取って代わったフィットネスジムも興味がないので視界からすぐに消える。
ここら辺ジム増えたなぁ。
なんで増えたのかはよく分からないです。
少子高齢化っていう自治体がアレなのかもしれない。
イートインのあるミスド。
自動ドアがウィーンと開いて暖かそうな色の店内に入る。
並べられたドーナツを前にお盆とトングを持ってどれを取ろうかと長考する。
実は定番商品であるオールドファッション系列のドーナツがミスド高カロリードーナツランキング環境キャラっていう罠、女性は気をつけた方がいい。
まぁ俺は健康診断で痩せ気味って毎年毎年書かれるヒョロガリオタクなんで遠慮なく取るけどねこいつを。
後ろから人がやって来て持ち時間を使い切った事を思い知り、ABEMAとか NHKとかYoutubeとか、中継でよく聞く記録係の秒読みの声が脳内で流れ始める。
あーあー、ニコニコが撤退してなかったら今頃なー。
後は適当に目に入ったドーナツをお盆に載せてそれをまたレジに載せる。
たしかおかわりが自由な飲み物が、と他の注文を聞かれた時に思い出してとりあえず無難に飲めそうなカフェオレにしておいた。
甘いものとのバランスね、コーヒーも悪くないけどガブガブ飲むならカフェオレで……めっちゃ卑しいな俺。
会計を終えて空いている席を探すと一人、知っている奴が座っていた。
iPadを机に置き、手とドーナツの間を紙で挟んで器用に食べながらポチポチ押している。
気づかないふりをする間柄でもないが、こう会ってない期間が長いとなかなか勇気がいるんだが…。
どうしようこれで……。
………あー。えぇっと…あ、うん。久しぶりだね。
みたいなリアクションされたら。
絶対名前忘れてる反応なんだよなぁ。
まぁ、俺はその程度の人間だった…という事で。
「よ、藤澤。久しぶり」
顔を上げて藤澤はぼーっとした顔から驚きの表情に変わる。
うわぁこれだけでも結構嬉しい。
「雨芽!久しぶり!」
iPadの画面にはAIの検討画面が表示付きの将棋盤が映っていた。