91.答えだけがあり
やはり……久米はいないか……。
期待は既に無かった。
分かっていたことだ。
音のない教室は少し歪で、席の数だけあるそれぞれの生活を描くには中々気が滅入りそうだ。
統一感のある整頓された席の数々は、答えがそれぞれ変わる人の悩みに対する皮肉のようで心をざわつかせる。
一日目の一般客に公開していた教室の様子は影も形もなく、ここだけお祭りが終わってしまったかのような雰囲気を醸し出している。
もうじきに終わる祭り、結末を先に知ってしまったかのようなそんなつまらなさすら感じる。
これから先起こる事はきっと俺にとって受け入れ難い事もあるだろう。
どうしたって、ここまできて避けられはしない。
戻ればいる、それだけはきっと確かだから。
どんな顔で会えばなんて事、今この表情が全てだろう。
教室の窓に映る顔は、成長しているはずなのに根底にあるものは変わっていない。
酷く濁った目に、何かを言いかけて諦めてしまったかのような引き結んだ口元。
忘れはしない、記憶に焼き付いた忌まわしいそれを消し去るように窓を開く。
風が吹き荒び目を閉じて数秒。
夕焼け色の光をどこで見たのか、繰り返しの景色に思い出すのはどの記憶か。
………大切な記憶、無くしたくない記憶、切り離せない記憶。
だめだな、多すぎる。
景色と記憶を結びつけるのは、きっともう俺には重すぎる。
扉を開く時でさえ、ちらついちまったしな……。
『笠真は優しいね』
終わってないから、嫌なのに思い出すんだ。
会って、伝えなきゃいけない。
終わらせなきゃいけない。
二度目のアナウンスがなった。
窓を閉めて、頬をパチンと叩いて気合を入れる。
風に当てられ荒れた髪の毛を顔を振って無理矢理直し、正面から窓に映る自分の顔を見る。
少しはマシになった……かもな。
誰もいない校舎の中は、辿り着くまで永遠の時を感じる程の長い長い道のりだった。
幼稚と言うより無知な、今他にやるべき事は何も思いつかず、ただ久米の姿を一目確認したかった。
いなければまた、この身体に鞭打って探しに行くしかない。
見つかるまで探し続け、探し尽くすだけだ。
ここに来るのは……昨日今日で何度目か。
一つ一つの出来事が印象的過ぎて持っている情報量に目眩すら覚える。
繰り返しではない文化祭の非日常は、ここに足を踏み入れれば遂に幕を閉じる。
閉会式、そして後夜祭へと続く、誰か一人の切望ではこの流れは到底滞る事はない。
体育館は外の光をカーテンで侵入を拒み、開いた入り口の扉から光さす道のように僅かに行き先を照らしている。
しんとした雰囲気を壊さぬように体育館へと入れば、外には伝わってこない小さな生徒同士の話し声が聞こえてくる。
クラス毎の列の後ろには文化祭実行委員が立っていて、その中に陽悟の姿を見つけることができた。
「……文化祭実行委員は列を並ばさせた後後ろに待機だったから。他意はないよ」
陽悟も俺を見つけるのが早く、そうした言葉を添えて迎えに歩いてきてくれた。
「久米さん、来たよ」
「……そうか、よかった」
ひとまず安心した。
久米はここに来れるだけの精神であることは分かった、ということにして今は諦めよう。
「これ、返すな」
渡される腕輪は何か別の意味を担ってるかのようで、その意味を確かめるように握りしめた。
これ……こんなに重かったっけな………。
「笠真はよく頑張ったよ。誰よりも、きっと」
「………そう……かな」
陽悟の顔は思ったよりさっぱりしていて、励ます為に作ってくれているのか、それとも……。
「後夜祭、どうする?」
俺の気持ちを危惧してか、そんなことを問う。
答えはもちろん決まっているが、
「………仕事があるから、出なくちゃいけない」
久米が自分を律してここに現れたのなら、俺にも通すべき筋ってもんがある。
それだけにはせめて応えたい。
「分かった。………文化祭実行委員は、移動みたいだぞ」
実行委員の動きを少しだけ知り得たようで、これからを促してくれた。
おそらくその辺の実行委員の人にでも聞いたのだろう、陽悟なら容易く聞き出せるだろうし。
前で招集がかかっている。
舞台裏に移動のようだ。
「…………ごめん」
誰に言うでもなく呟き、その場を去る。
言いたいことは全部言い終えたようで、陽悟はそれには何も言わずに見送ってくれた。
舞台裏に着くと、席に座っている櫛芭を見つけなんとなく引き寄せられるように話しかけに行った。
が、段取りの本を持っていて書かれている言葉を言っていた。
校長先生のお話です、とか。
どうして櫛芭がそんな事を……。
「雨芽くん、なんだか久しぶりね」
人の気配を感じたか櫛芭は顔を上げる。
その目に俺が映り、たしかに久しぶりな感覚だ。
「あぁ、うん。…櫛芭にそんな仕事あったっけ?」
大体、扶助部の面々は俺も入れて閉会式の仕事はほぼ任されていないはずだけど。
「これね。浅間さんが読むはずだったんだけど、今になって閉会式で自分も話すことに気づいて。自分の紹介は流石にできないからって、私に任されたの」
あぁ浅間、生徒会長の。
「まぁ同じC組のよしみで……そうでなくても頼まれればやるかもしれないわね」
……意外と抜けてるところあるんだなあいつ。
周りも合わせて読み抜けってやつかもしれない。
忙しかったしそれも仕方がないか。
まぁそれで好感を持てるのか、そんな訳はないけれど。
櫛芭は多分意識してはいないだろうが、さっきよりも少しだけ表情を曇らせて、
「雪羽さん、体調が悪いみたいで今はクラスの列にいるわ。閉会式には仕事は入れてないし、あまり支障はないけどね」
そうして俺に伝えてきた。
「……そうだな」
櫛芭が再び読み直していた本から目を切り、こちらを真っ直ぐと見つめてきた。
声から何かを感じ取ってしまったのか、今はそっとしておいて欲しいが、あいにくそこまで伝わるはずもない。
「………何かあったの?」
「いや、まぁ」
「あ!雨芽くん!雨芽くん大変ですまずいです!今のカット数だと写真が数枚足りません!足りませんでした!」
小瀬ェ……。
「いやこれでも頑張ったんですよ?嘘じゃないです大マジです。でも妥協できないじゃないですか!って感じです」
言い訳……では無さそう、随分と強気な謝罪っぽい。
頭は下げてるし。
小瀬は、いやぁ……やれると思ったんですけどねぇ、とかなんとか。
この悪びれ無さ、もしや修正が必要だと分かったの小瀬本人由来じゃないな?
………。
「まぁ、写真があればいいんだよな」
そう言い残して俺は不思議そうな顔をした小瀬を置いて行く。
隣で座る櫛芭は俺が何を持ってくるのか分かったようにくすりと笑った。
D組の荷物置き場に足を踏み入れる。
踏み入れるって言ったって、荷物がその名の通りまとめて置いてある場所なだけなんだが。
その荷物のまとまりのすぐ横にある椅子の上に、俺がこの文化祭期間中ずっと手に持っていた一台のカメラがポツンと寂しく置いてあった。
まぁ置いてあったというか置いたのは俺で、変わらず置いてある事に一先ずほっと安心している。
そのカメラを持ち上げて、一枚ずつ切り取られた瞬間のデータを頭と照合しながら歩く。
『はいはーい!集合写真撮りまーす!』
『わぁ。懐かしいなぁ。文化祭も……いや、実行委員?それともやっぱり部活?』
『……扶助部の活動ってそういう感じなんですね』
『笠真くん。図書委員以外の仕事も手伝っていたのね?』
『甘えてないですよ利用してるんです!』
『雨芽くん!準備できました!』
『めっっっちゃっっ良い奴って答えといた!』
『あ、あの!雨芽先輩こんにちは!』
『……今回のさ。仕事のこと……何も思わないのか?』
『雨芽も来い!仕事だ!』
『当然です!不公平じゃないですか!』
『みんなー!笠真の言うことに従ってー!』
『めっちゃ自信ないじゃん……』
『雨芽くん……で合ってるよね?…扶助部の』
『雨芽くん早くー!』
『お?おぉ?詩織のこと、気になってます?』
『失礼!なかなか楽しそうだったからな!』
『え、うそ!やっぱり撮られたよね今!』
『はぁ……』
『いつも通り、がいいかな』
『せっかく会えたんだし、ちょっと一緒に回らないか?』
『写真お願いしていいですか!』
『いた!蕉野!……蕉野?』
『あら、あなた雨芽くんね!久しぶりねー!覚えてる?』
『雨芽くんなら、それも含めてなんとかしてしまいそうですけどね』
『本!見つけたよ!』
『仕事大変?』
『雪羽のこと、連れ出してくれない?』
『行きたいところがあるんだよね』
『私の責任の下、力を貸してくださいよ』
振り返れば撮影した写真は準備期間から一日目までの物ばかりで、二日目の写真は少ない。
それでも写真はとりあえずそれらしいのがあるだけいいのだから、枠を埋めるだけなら今は何とかなるだろう。
元の場所に戻ってくると、小瀬は非常に期待のこもった眼差しで、
「なんとかなるんですよね!?なんとかなるんですか!?」
なんて聞いてきた。
櫛芭は既に場を離れており、閉会式はもう間も無く始まるようだ。
「一応中身確認してくれ」
「どうせOKですよ!」
君のサムズアップには触れた方がいいの?
いいねじゃないんだよ。
「写真選ぶ作業あるからな?見なきゃ始まんないからな?」
「ここまで来たら勝ち確です!」
何に勝ったんだよ。
納期に勝ったのか?
辛勝でよくそんな圧勝みたいな雰囲気出せるな。
「……こんなにたくさん。不思議なんですけど、でも……」
でも、と文を繋いだ小瀬は顔を上げ、と見えたが途中で止めて視線も一箇所に留めてしまった。
誰かと目が合ったのだろうか。
「只今より、京両高校文化祭、閉会式を行います」
櫛芭の声がマイクを通して聞こえ、舞台の方を振り向いて見ると、浅間が傍から歩き始めたところだった。
「ほんとはやらなくても良かったはずですよね?弾いた写真を使ってもいいんですけど、まぁそれは仕方がないって感じで」
再び振り向いて、小瀬を見ると彼女はPVの制作をしながら向き合っている写真の数々に興味が尽きないようだった。
……約束したのは…時系列から見て辻褄が合わないな。
「……なんでだろうな……なにやってんだろ」
良いものにしたいという思いは少なからずあった。
だけどそれを口にして確固たる物にしたのは一日目の終わりに近い。
「暇ってだけならカメラ置いて陰で休んでいれば良かったし、やらなくていいって言われてたからもし気分がそっちに向けば従ってたと思う」
「向かなかったって事になりますね」
使う写真を決めてファイルに分けていく小瀬は、一体どれ程の事を想定していたのだろうか。
「……なぁ、俺が写真撮ってなかったら」
「その質問は無しです」
「え……?」
頬が緩んでこちらを見上げる小瀬は、自分だけが知っている事を誇るように黙って視線をパソコンの画面に戻す。
「完成度を度外視すればPVは作る事だけなら出来ますよ」
「…枚数は足りてるって事だよな。……そういえばさっきも」
弾いた写真を使っていいって……。
「頼んだのは偶然じゃないんです」
……あぁそういう。
「…写真を撮ってるって?」
「果たして誰が見ていたんでしょうね?」
小瀬は楽しんでいるように会話を泳がせる。
「あとそれ口癖ですか?いや、よく聞くから多分口癖ですね」
「え?それって……どれ?」
…口癖……口癖か、どれが?
「あぁそういう、っていつも言ってません?」
あぁ……あ、いや、そういうね、うん。
え……ん?
「よく聞くって言った?」
「言いました」
「…まじか……」
口癖……ねぇ。
ぽろっと出ちゃうから口癖なんだろうなぁ。
カタカタっとパソコンに取り入れた写真それぞれにファイル名を付けていよいよPV制作に移った。
総仕上げの時間だ。
「誰でもいいよ。俺だって写真を撮るって行為に意味は込めてなかったし」
「そういうのは見る側が勝手に決めちゃうんですよー」
確かにそう。
確認を取るまでもない事は、見た情報から個人がそれらしい答えを並べてそれで終わるのが普通だ。
「よく受け取って貰えるのはいいけどさ」
「私だって、今回の件で雨芽くんのこと。分かった気でいますから」
口癖とか、自分じゃ分からない所まで気づかれたからなぁ。
自分じゃ言ってないつもりでも、案外無意識に言っちゃってるんだろうなぁ。
多分今までもさっきみたいに思い浮かんだ瞬間……。
「言葉に出来たら教えてくれるか?参考にするから」
というか直したい。
意識すれば今の自分よりかは成長できるだろう。
「言葉に出来たら、ですか。……あえて言うなら…」
少し考えた後、そこに答えがあるようにモニターを眺めている小瀬はそのまま、
「好きなタイプです」
驚いて目を見開いてしまったかもしれない。
多分、言葉が出なかった俺の様子を感じ取り、小瀬はニヤリと笑ったのだ。
「ドキッとしました?もっと攻めてもいいんですよ?」
「なかなか穏やかじゃないな……」
俺が苦い顔をすると、小瀬の笑みはより一層光り輝く。
その眩しさを避けるように顔を背けると、こちらに歩いてくる実行委員の人と目が合った。
坂口先輩と、確か……高橋先輩だったか。
随分と深刻そうな表情で顔を固めたまま彼は、小瀬に耳打ちの形で、
「……結構やばい感じ?」
なんて………。
どうやら小瀬の行き過ぎた笑顔を、絶望を前にしてハイになったそれと勘違いしてしまったみたい。
「あ、大丈夫です。すいませんご心配をおかけしまして」
急に畏まるじゃん。
萎縮してんのか?
でもいつもの小瀬なら………。
「もう少しで最高傑作の完成ですから、それまで待っててください!」
そうそうそんな感じの根拠薄弱の無鉄砲さで……。
三年生二人を追っ払い、小瀬の顔の向きは再びモニターに戻る。
「………終わった、か?」
「はい……。元々大部分は完成してたんで」
そのように見えたから言葉にしたけど、返ってきた言葉は更に頼りない。
「じゃあ、一緒に見るか」
はぁ、とため息を吐いて小瀬は首をもたげ、
「ほんと、雨芽くんは物分かりがいいですね」
「まぁ、ほぼ勘だったけどな」
それに小瀬が認めて汲み取ってくれたから成り立つものなんだし。
見ても見なくても、今回の場合俺の立場はどちらでも可だ。
だけど普段と少し違う様子を見せられて、小瀬がこれまで三年生にも態度を変えず、いや変わらずいた事を貫き通して今までいた事。
さっき見たそんな些細な綻びに気がつくのは、記憶力なのかはたまた性分なのか。
「なんでとかどうしてとか、聞いてくれないと話せないじゃないですか」
「悪いな。こんな俺で」
ネガティブな話は想像で済ませたがる。
察せればいいなんて無茶苦茶な人助けだ。
クスクスと笑う小瀬は画面に近づいた俺の隣で、
「嫌いになれって事ですか?」
なんて聞いてきやがる。
あまり言葉にしたくないけど仕方がない。
「最近、俺って人助け向いてないなぁって思って」
上がった口角ははゆっくりと穏やかな微笑に変わっていく。
「今までのやり方が奇跡的に上手く行ってたのかなぁ、なんて思ったりして」
だから参考にしようと思ったんだけど、と付け加える。
変わるしかないんだ。
今のやり方じゃ助けたいその人には通用しない。
「だから、近いうちに好きなタイプから外れると」
パソコンで流しているPVを確認しているように、同じように確認をとる。
「あぁ。まぁ簡単に言えばな」
今になってすごい恥ずかしい。
正直上っ面で主題も主語もはっきりさせないで会話を進めているがこのままじゃ黒歴史まっしぐらだ。
頬が赤くなっていないか不安だが、今は薄暗い舞台裏に願って一目散に会話を畳もう。
「あまり深く考えんなよ。一周回って元に戻る可能性もあるし」
新発見の解法みたいな。
中学の数学を高校の数学の知識で解いてみちゃう塾通いの子とか、そんな感じで。
知らなくても、そこにある。
答えはあって、ただその解き方に辿り着くまでが大変で。
「振るのが上手ですね。傷つけたくないって想いが痛いほど伝わってきますよ」
「とか言って微塵も振られたと思ってないだろ」
そもそも論で恐縮だが、何を以て告白とするのだろう。
した事があるからってそれで分かるわけでもない。
「思ってますよ。未来の私が振られました」
「なんだよそれ」
未来とか分からない事だらけで、それでも小瀬は確定的だと言う風に確信を持って話す。
「まぁ、どう思うかは勝手か」
「いい感じに突き放してくれるから楽なんですよねぇ、やっぱ」
絶対会話にリソース割いてないなこいつ……。
隣にいる小瀬はやはり……この文化祭で知ることのできた、気心の知れたやつである事に違いなかった。