ブランコを揺らす手 【2】
「鈴木先生! 日誌出来ました!」
「おつかれさん、声でかいぞ」
「あはは、ごめんなさい。では、失礼します!」
「気をつけて帰りなさい。あと、まだ声でかいぞ」
近藤小百合は職員室の入口で勢い良く頭を下げると、
廊下に出て引き戸をスパンと景気よく閉めた。
担任の鈴木はそれを見送ってから、
提出を受けた日直日誌をパラパラとめくる。
隣の席の山梨が、覗き込むようにして椅子ごと身を寄せてきた。
「いやあ、近藤は相変わらず底抜けに明るいですね。今時、貴重なくらいだ」
「ええ。でもあれで、案外しっかりしてますから」
「確かに。抜き打ちテスト食らわせても、
あの子だけはニコニコしてますからね」
鈴木と山梨は年齢が近く、同期の気安さもあって、
仕事が終われば頻繁に芋焼酎で乾杯する仲だった。
二人で肩を並べて、小百合の書いた一つの日誌を窮屈そうに閲覧している。
別の用事で居合わせた文学少女が、何か天啓を得たような顔をした。
「まあ、そうでなければ親御さんも、
遠方で姉弟二人暮らしなんて許しはしないんでしょうけど」
「弟の方は来年でしたか」
「いえ、確か三個下なので、もしうちに来るなら再来ね……あれ?」
会話をしながら文字を追い続けていた鈴木の目が、
本日の病欠者の欄でびたりと止まった。
眼鏡の奥の瞳が、意外そうにしばたいている。
「どうかしました?」
「いえね、今日浦川が休んだんですけどね」
「浩二ですか?」
「いえ、そっちじゃなくて正之の方です」
ほらここ、と指をさす。
「・・・・・・あれ、でも病欠者のところ、浦川浩二になってますね」
二人同じタイミングで、同じ方向に首を傾げた。
小百合らしからぬ、小百合以外でもそうそう有り得ない、
ダイナミックなミスだった。
「慌ててたのかな」
「確かに少し急いでるように見えましたね。
いや、でも、いつもあんな感じか」
小百合は常時ハイテンションなので、その辺の判別が難しい。
鈴木は腕を組んで少し思案すると、
シャツの胸ポケットから抜いたボールペンで
『浩二』の上に二本線を引いて、『正之』に訂正した。
「まあ、勘違いくらいありますよ」
「そうですね」
笑いながら山梨が鈴木の肩を叩くと、つられたように鈴木も微笑んだ。
無表情の文学少女がメモ帳を片手に、ねっとりと観察していた。
「小百合、帰ろうぜ」
「あっれ、待っててくれたの?」
小百合が教室に戻ると、
帰り支度を済ませたかすみが彼女の机の上で豪快にあぐらをかいていた。
剥き出しの長い脚を見て、小百合の眉が八の字に曲がる。
「もー、またそんな恰好して。パンツ見えちゃうよ」
「大丈夫だよ。アタシその辺上手いから。なあ、見えてなかっただろ?」
「うん、見えなかった」
スマホをいじるふりをしながら、
ワンチャンスを狙って盗み見ていた同級生の男子が、思わず正直に頷いた。
かすみが流れるように自然な動作で彼の後頭部をスパンとはたくと、
「なっ?」と歯を見せる。
小百合もしょうがないなあと笑った。
「あ、でもごめん。今日、ちょっと行くところあるんだ」
「岩上公園か?」
「あれ、なんでわかっちゃったの?」
「なんでわからないと思ったんだよ」
非の打ちどころが数少ない小百合だが、
ひとつ致命的に困った性質を持っていた。
彼女は、噂話に怪異の香りを嗅ぎ付ければ駆けつけずにいられない、
イノシシのようなガールだった。
このハンターが今、巷で一番ホットな怪現象を見逃すはずが無い。
「ま、そういうわけだから! ごめんねー!」
せかせかと鞄に道具を詰めて、
勢いよく教室を飛び出す小百合にかすみも大股で続く。
下足室で靴を履き替えながら、
かすみは何が楽しいのかにこにこ笑う小百合の横顔を見下ろした。
「やめとけって、あれは多分危ないぜ」
校門に向かって並んで歩きながら、かすみは苦言を呈した。
「やっぱりそう思う? でも、気になるんだよねえ。それに、」
「それに?」
「あ、ごめん、ちょっと待って」
運動場の端で、陸上部が小石をアルミバケツに集めている。
小百合は自分の足元に一つ転がるごくごく小さな石を拾うと、
「こっちにもありましたー!」と集団に駆けていった。
二、三、言葉を交わして、会釈する部員に笑顔で手を振りながら戻ってくるのを、
かすみは大人しく待っている。
「お待たせ。えっと、何の話だっけ」
「修一誘ってモンハンやろうぜって話だよ」
「え、本当? そういえばハチミツ切らしてたんだよね。
また、修ちゃんから接収しないと」
「もうやめてやれよ。修一はお前のクリストファーロビンじゃないんだぞ」
鼻歌を歌いながらかすみの数歩先を歩く小百合が、
軽やかにステップを踏んでくるっと振り返った。
「でも、やっぱり、今日はだーめ」
「おいおい」
高低差のある笑顔と呆れ顔が、しばし無言で見つめ合う。
先に根を上げたかすみが、赤い髪をわしわしと掻き毟った。
「アタシもついていこうか」
「ううん、一人でいいの。いや、一人だからこそいいの」
「なんだそれ。修一にいいつけるぞ」
「えー、それは駄目だよ。怒られちゃうもん」
小百合が唇をとがらせる。
そんな拗ねた表情も、どうせバレてんだろ、
とかすみが溢すと、ですよねー、とすぐ笑顔に戻った。
綺麗な夕焼けに照らされる町を見下ろしながら、
岩上公園に続く坂道を小百合は軽やかな足取りで上っていた。
人っ子一人通らない、奇妙なほど静かな道程に、
彼女の明るい鼻歌だけがかすかに滲んで消える。
やがて公園にたどり着いた小百合は、
入り口に張られたロープに下がる『立ち入り禁止』のプレートに向かって
ごめんなさいと頭を下げると、それを少し持ち上げてくぐった。
問題のブランコは、一番奥にあった。
簡単に使えないように、
鎖は腰かけるボードもろとも上の支柱に巻き付けられてしまっている。
小百合はそれを見上げて、「あー」と意味のない声を上げた。
しばらく鉄柱を摩ってみたり小突いて音を確かめたり、
あらゆるアングルからスマホで撮影したりすると、
一仕事終えた職人の顔で額の汗をぬぐった。
そのままハンカチで顔をパタパタと仰ぎながら、
陽気な声で誰もいないブランコに向けて呼びかけた。
「ねえ、そろそろ出ておいでよ。お話しませんか」
街灯がともり始める薄暗い公園で、無人の遊具を話し相手にする女子高生。
もはや自分の存在がホラーであることを顧みず、
小百合は殊更優しい声を出した。
「こわいことしないよ。ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから」
小百合は粘り強く、何度も何度も人のいない空間に向けて語り続けた。
笑ったり、おどけたり、茶化したり、
子供をあやすように表情をころころと変化させる。
それは無益な時間のように思えたが、十分、二十分と過ぎて、
ついに彼女の努力は実を結んだ。
ブランコを支える斜めのパイプは、
せいぜい大人の両掌で囲えるほどの太さだった。
その陰から突然ぬっと女の子が顔を半分覗かせた。
人が隠れられる筈のないスペースから、物言わず小百合を見上げている。
「あ、やっと、出てきてくれた! えー、かーわーいーいー!」
半分しか見えないが、長い髪を垂らす少女は綺麗な目鼻立ちをしていた。
小百合は鉄柱からはみ出した顔に視線を合わせようと腰をかがめると、
微笑みかけた。
「はじめまして、お姉ちゃんは近藤小百合っていいます。あなたは、お名前なんていうの?」