泥の山 【2】
兎に角、犯人の意図が分からないのが不気味だった。
手紙なり電話なり、何の意思表示もしてこない。
杉崎は頭を抱えた。
金目当てにしても他に目的があるにしても、
そいつが自分達に尋常ならざる悪意を抱いている事は疑いようが無い。
富子の命がないことはもはや分かっていたが、
死体の一部を少しずつ解体して、泥に包んで届けるなど
完全に常軌を逸している。
自分と全く関係のない第三者が、こんな手段を使うだろうか。
そうでない方が自然だ。
だから、そんな異常者が身近に潜んでいることに杉崎は怯えた。
会社でなんとか仕事をこなしている間も、疑心暗鬼にとらわれていた。
一度厳しく叱責した部下。
酒の席で口論になった同僚。
杉崎にすれば些細なことだが、相手もそうであるとは限らない。
そばに他人がいる限り、杉崎の神経は磨耗し続けた。
バスからマイカー通勤に切り替えていた杉崎は会社帰り、
商店街の入口にあるコンビニエンスストアに車をとめた。
うつろな目で二人分の弁当をみつくろっていると、
突然背後から名前を呼ばれた。
「あれ? 杉崎さん?」
「!」
驚いて振り向くと、同じように驚いた顔をした女の子が立っていた。
制服姿で、おそらく学校指定の、小さなボストンバックを肩にかけている。
きょとんとして杉崎と見詰め合っていた彼女が、
突然堪えきれないように噴き出した。
「ぷふっ、す、すみません」
「え? な、なんだい?」
「いえ、だって、呼んでみただけなのに、
杉崎さんものすごい勢いでこっち向くんだもの。
裏拳きめられるのかと思っちゃった」
女の子はそれから一転して、悲しそうな顔をすると、
杉崎にニ歩近づいてから、小声でヒソヒソと囁いた。
『あの、ズラ、ずれてますよ』
「あのね、何度も言うが、これはズレないんだよ。地毛だからね」
「冗談です」
再び身を離すと、女の子は悪気の無い笑顔に戻った。
杉崎は彼女と顔見知りだった。
杉崎家のはす向かいに構える借家に住む、近藤という娘だ。
両親の元を離れ、弟と二人で暮らしていて、
妙に明るい性格の女の子だと芳江が言っていた。
杉崎は顔を合わせるたびにこの娘から、
何故かいわれの無いズラいじりを受けていたが、
その朗らかさには好感を抱いていた。
「あれえ、今日はお弁当ですか?」
近藤姉が杉崎の買い物カゴを不思議そうに覗き込んでくる。
そこでようやく杉崎は、
彼女の少し後ろに立っている、男の子に気がついた。
こちらはツメ襟のついた、近所の中学校の制服を着ている。
勿論、彼の事も知っていた。
近藤姉を見かけるときは弟の彼と、
今日は居ないが大柄で派手な女の子がセットになっていることが多い。
ただ、正直弟の方はこの姉の身内にしては覇気の無い
あまりに平凡な少年という印象だった。
目が合うと、こんにちはと挨拶をされたので、
杉崎も口角を上げて会釈した。
「ちょっと、妻の調子が悪くてね。
最近はコンビニ飯ってやつなんだよ」
「あー、そっかー。やっぱり今、大変ですもんね」
「うん?」
「ほら、おばあちゃんの事」
近藤姉の無邪気な微笑みを見て、杉崎の身がすくんだ。
母が混ぜ込まれた泥の山が、フラッシュバックする。
何故、この娘が知ってーー
「心配ですよね、居なくなっちゃうなんて」
「え、」
かなり間の抜けた「え」がこぼれた。
その後、数秒遅れて杉崎は思い当たった。
そうだ、捜索願を出した後、母を見かけたら保護して欲しいと、
回覧板を回してもらったんだ。
当然、彼女が話しているのは、
母の蒸発のことであって、泥の山の件ではない。
そんな当たり前の思考にすら至れない程、
自分の精神が衰弱している事を、杉崎は改めて自覚した。
近藤姉は神妙な面持ちをしている。
先程、気遣うようなことを言いながら顔は笑っていたのも、
きっと気のせいだと思い直した。
「まだ見つかってないんですよね? おばあちゃん」
「……ああ、そうだね。
うちのはその心労もあって、風邪をこじらせているみた」
「あの、」
それまで黙って二人のやり取りを見ていた近藤弟が、急に口を開いた。
杉崎は話を止めて、意外な物でも見るように、そちらに視線を移した。
杉崎の記憶にある限り、少年から挨拶以外の声をかけられたことは
一度たりともなかった筈だった。
近藤弟は表情を変えぬまま、言葉を続けた。
「おばあさん。ちゃんと、帰ってくるといいですね」
機械で合成したみたいに、抑揚の無い声だった。
人の心を限界までそぎ落としたようなその喋り方が、
あまりに気味悪くて、杉崎は咄嗟に返事が出来なかった。
眠たそうな瞳が、凍り付いた杉崎の顔を
虫の標本でも観察するように見つめている。
「帰ってきますよ。きっと」
少年の励ましの台詞は、とても温情からのものとは思えなかった。
むしろ不吉な呪いのように、杉崎の脳髄に染み込んでくる。
言葉の裏に、もっと別のどす黒い真意を孕んでいるような気がしてならなかった。
近藤弟はそれっきり口を閉ざした。
杉崎は、喉に詰め物をしたような息苦しさの中で、
「ありがとう」と絞り出すのが精一杯だった。
「……さて、そろそろ、帰るかな」
それ以上目を合わせていられなくて、強引に踵を返した。
レジにかごを置いて、弁当の温めを断り会計を済ませると、
さり気なさを装って振り向いた。
マネキンのように、近藤姉弟は同じ場所に立っていた。
「さようなら」
姉が笑顔で手を振った。
杉崎もかろうじて平静を装い微笑んで、
軽く手を上げると、足早に店の外へ出た。
彼女ほど上手く笑えている自信はなかった。
後ろで自動ドアが閉まる音を確認してから、もう一度だけ振り返った。
瞬間、背筋に虫が這うような寒気が走った。
二人はまだ動かずに、ガラスの向こうからこちらを見ていた。
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「おにぎり、温めどうされますか?」
「えっ、おにぎりって温められるんですか?」
「姉さん。姉さんが選んだやつは温めた方が美味しいんだよ」
「そうなの? 初めて買ったから知らなかった。
じゃあ、せっかくだしお願いします」
「はい」
「わー、凄い。ほんとにレンジに入れちゃった。
杉崎さんもお弁当温めてもらえばよかったのにね」
「家のレンジを使った方が冷めなくていいと思うよ」
「そりゃそうか」
「うん」
「それはそうとさ、修ちゃん」
「ん?」
「結構頑張るよね。杉崎さん」