魔男裁判 【5】 終
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あの男の子への恐怖と、同じくらいの不安を抱いて
タロウの所に戻った時、全ては終わっていました。
ほっそりとした大人の女の人が、
ごみでも捨てるように、鼻から上の無い男の子を放りました。
地面に転がったそれが消えると、
女の人は眠たそうな目をした別の男の子に近づいて、
その頭を繰り返し撫でていました。
私は路地の端に、タロウを見つけました。
舌をだらりと出して、目を開いたまま横たわっていました。
毛の白い部分は余すことなく赤黒く染まっていましたが
それでも吸い足りなかったのか、
血の水たまりに沈みかけているように見えました。
何度か体をゆすっても、もう二度と動きませんでした。
それから、暫く
私は空虚な日々を過ごしました。
外から見ても、よほど酷い状態だったのだと思います。
私を取り巻く人たちは、私を心配してくれましたが
全て瑣末な事に感じました。
ランドセルを背負い、一人で学校から帰るとき、
この後、家の扉を開けると駆け寄ってくる
タロウの姿を夢想して、そのたびに視界が曇りました。
公園、交通安全の看板、一緒に歩いた散歩道。
そこから連想する思い出の全てが
タロウがもし生きていたら
隣にいてくれたらという、
もうあり得ない光景を丁寧に描き出して、
胸を磨り潰すほどに締め付けました。
こんな苦しみが毎日続くのかと思うと、まるで地獄でした。
なので、その日歩道にトラックが突っ込んできたとき、
私はそれでもいいかなと思ってしまいました。
迫り来る車を、どうせ逃げても間に合わないからと
諦めて見ていました。
ドンというショックを受けて、私は転がりました。
私の横をトラックが通り過ぎて、
塀に突っ込んで止まりました。
たくさんの人が駆け寄ってきて、
あれこれ話しかけてきましたが、私は呆然としていました。
自然と、口からタロウの名前がこぼれました。
トラックから私を救ったあの衝撃に、覚えがありました。
タロウに一度転ばされた時の、あの感触によく似ていました。
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「それを切っ掛けに、
私は君が去り際に言った言葉を思い出したのです」
志倉が逃がすまいと、強い視線で修一を縛り付けている。
修一は静かにそれを見返していた。
「君は、『大事にしてあげて』と言ったと思います。
違いますか」
「そう、だったかもしれません」
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血だまりにへたり込む女の子を見ながら、
僕はお母さんの手を握り締めました。
あの犬が、なんであんなに必死で戦っていたのか、
最後にもう一度立ち上がったのか、
その理由も分かりました。
自分の死体の横にお座りする、大きなシベリアンハスキーが
うなだれる女の子を気遣うように、鼻を寄せていました。
女の子は顔を上げませんでした。
ああ、見えないんだなと思いました。
なんであんなに恐ろしいものがおそらく見えたのに、
この子は今、大切なものを見ることが出来ないのだろうと
悲しくなりました。
お母さんが背中を向け、僕の手を引いて立ち去ろうとしました。
あの、大事にしてあげて。
僕は思わず、彼女達に声をかけていました。
女の子が振り返り、虚ろな目で僕を見ました。
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「私を救った見えない何かの感触と、
あの日、君がくれた大きなヒントを併せて導き出される、
とても幸福な可能性を信じて、私は今日まで生きてきました。
あの子を奪ったものたちの世界を知り、
失った筈のあの子の実在を肯定し続けるため、
私は、オカルトに没頭してきたのです」
「……はい」
志倉の語り口は極めて穏やかだが、修一は鬼気迫るものを感じていた。
「Jが魔女が現れたと言って、君の盗撮画像を私に見せたとき、
すぐに君の事を思い出しました。
君の優しい目は、あの時と少しも変わっていない。
こんなに近くに居るのなら、もっと早く君を見つけたかった」
「すみません。それは多分、僕の所為です」
でかい犬が怖くて逃げていたとは言いにくかった。
「いえ、君は一つも悪くありません。
極度の人見知りであれば、人目を忍んでも仕方ありません。
君には君の事情があり、私には私の思惑がありましたが、
私達は当然、お互いにそれを知り得なかったのですから」
その設定、嘘なんですとも言いにくかった。
気まずそうにする修一を見兼ねて、
志倉は、「話を戻します」と仕切りなおした。
「私がこっくりさんを初めて試みたのは、小学二年生の時です。
それが動物の霊と通信を行う手段だと知ったからです。
実行してみると、本当に十円玉が勝手に動いたので、
私は震えがとまりませんでした」
「志倉先輩でもそうなるんですね」
修一は志倉が恐怖したのかと思ったが、彼女は否定した。
「期待と興奮で震えたのです。
もしも、この十円玉を操っているのが……もしも……」
志倉は息を整えて、つばを飲み込んだ。
「私は日課のように、こっくりさんを続けました。
質問をするというより、その日の些細な出来事を私が語って
それに相槌を打ってもらうような形式でした。
幸せな毎日でしたが、同時に不安でもありました。
私の対話の相手は本当にあの子なのだろうかと。
違うかもしれない。
すべてが私の都合の良い解釈に過ぎないのかもしれない。
そう思うと、恐ろしくて恐ろしくて、
その正体をこっくりさんに直接問いただすことなど、
今日まで一度も出来なかったのです」
最初から強気だった志倉の瞳が、今は不安に揺れている。
「それに、仮に尋ねたとして
返事が『はい』だとしても『いいえ』だとしても
私には真実を確かめようが無い。
ですが近藤君、君になら分かるのではないですか。
不思議な猫を引き連れ、
不可思議な力を持ち、
あの日何かを見て、知り、私に
『大事にしてあげて』と言ってくれた君ならば」
「…………」
修一は否定も肯定もせずに、
十円玉を抑える志倉の指を見下ろした。
力をこめた白い爪先が、かすかに震えている。
修一の脳裏に、自分の存在を全ての勘定から除外した
かつての友人たちの顔が、次々に浮かんだ。
忘れたくても忘れられない、数多の自分をいたぶる言葉が、
波のように押し寄せて胸を軋ませる。
「お願いします」
沈黙する修一に、志倉が深く頭を下げた。
やめてくださいと、修一は言いそうになった。
「お願いします。どうか教えてください。タロウは」
一本の藁にしがみ付くような、悲壮な懇願だった。
大きな犬は、主人のそんな姿を、つぶさに見つめている。
これだけ近くにいるのに、ただ見ることが出来ないだけで
彼女達はこれまでも、そしてこれからも苦しみ続けるのだろうか。
「お願いします。お願いします……」
志倉のか細い声が震えている。
修一には、もうそれ以上耐えられなかった。
「先輩、顔を上げてください」
応じて恐る恐るこちらを見る志倉に、修一は首を振った。
志倉の顔が絶望に歪む。
修一はそうじゃないんですと、もう一度首を振って
左上の空間を見上げた。
「タロウって言うんですね。この大きな犬」
修一が空いている手を伸ばすと、
タロウがそれに鼻先をぴたりと押し付けた。
ふっくらとした尻尾が、ゆらゆらと楽しげに揺らめく。
修一の高く掲げた手のひらが優しく何かを摩るのを見て、
意味を理解したのか、志倉の瞳が潤み始めた。
「あ、あの、たろ、あ、」
必死に何か言おうとするが、言葉にならない。
「多分先輩が思ってるより、
ずっと大きくなっちゃってますけど」
修一は志倉の方を見て、微笑んだ。
「居ますよタロウ。
いつも先輩と一緒に居ます」
「あ、あぁ……」
いつも吊り気味だった志倉の眉が八の字に崩れ、
目頭から涙が溢れた。
次から次に滴がこぼれ出し、とても止まらない。
タロウは修一の手のひらから顔を離して、
志倉の濡れた頬を心配そうに嗅ぎ始めた。
志倉は何度か鼻をすすり、
あの日以来、確かめるのが怖くて使えなかった名前で、
こっくりさんを呼んだ。
「タロウ……タロウ……」
十円玉が、『はい』の上で止まった。
放課後。
掃除当番の修一は、紙くずやらビニール袋やら詰まったゴミ箱を抱えて、
廊下をのんびりと歩いていた。
あの後、少し体に気を使ってゼロカロリーのコーラに溺れる高橋の誤解を解き
真人間に更正するのに少々手間取ったが、
今や修一は穏やかな日常を取り戻して、非常に満足していた。
「修一君」
三階への階段を降りきったところで名前を呼ばれて、修一は振り返った。
「あ、志倉先輩」
志倉澄子がひらひらと手を振っている。
あの魔男裁判の日以来、
もっぱら柔らかくなったと噂の面差しに、
秋の木漏れ日を思わせる穏やかな笑みが浮かんでいた。
その隣には、あいかわらず熊なのか犬なのか分からないタロウが
すごい迫力でお座りしているが、修一はもう目を逸らさなかった。
「こんにちは、修一君」
「はい。こんにちは」
修一は少し周囲を見渡して、目線を若干上げた。
「タロウもこんにちは」
のしのしとタロウが歩み寄ってきて、修一に逞しい肩を擦り付けた。
向かい風に立ち向かう台風中継のように体を踏ん張らせる修一を見て、
志倉はなおさら幸せそうに笑った。
「丁度よかった。君のクラスに行くところだったのです」
「あれ、何かご用でしたか?」
「君に渡したいものがありまして」
志倉が、ドーナツかメンチカツでも入ってそうな
色気のない紙袋を掲げた。
「君には大変お世話になりましたから。そのお礼のようなものです」
「ええ? そんな、わざわざ……」
「折角、君のために用意したのです。是非、受け取ってください」
遠慮しすぎるのも失礼かと思い、修一はありがたく頂戴した。
手に持つと、メンチカツにしては重さが足りない気がした。
「開けてもいいですか?」
「いけません。必ず家に持って帰ってから、一人で開封してください」
「……何が入ってるんですかこれ」
「黙秘します」
あまりにものものしい。
袋を軽く振ってみたり、
高く持ち上げて光に透かして見たりする修一の隙をついて、
音もなく志倉が歩み寄った。
耳元に唇を寄せて、小声でささやく。
「君の秘密は必ず守ります。
だからというわけではありませんが、
修一君も時々、タロウと遊んであげてください」
「ひぃ! 近い! だから顔が近い!」
むずがゆさと羞恥に身をよじり、修一が飛びのいた。
志倉は取り乱す修一を見て、満足そうに二度頷いた。
「それでは修一君。
また今度、ゆっくりお話ししましょう。あ、それとーー」
「それと?」
むずむずする耳を抑えながら、まだ何かあるのかと修一が訝しんだ。
志倉の視線は修一を乗り越えて、その後ろを見ている。
「それと、高橋君もこの前はありがとうございました。
では、失礼します」
「えっ、高橋……?」
歩み去る先輩とタロウの後ろ姿を見送る余裕もなく、
勢いよく修一が振り向いた。
高橋が、絞められた鯉のような目をして修一を見ていた。
いつからそこに居たのか知らないが、
高橋が何をどう解釈したのか想像して、修一は動転した。
逆に高橋は、彫像のように静かだった。
「なんでや……」
「た、高橋、これは違う。
高橋が思ってるのと全然違うから」
「なんでや、近藤……」
西の名探偵みたいなことを言いながら、
高橋が懐から、ぬるくなったダイエットコーラを
トカレフのように抜いた。
修一は頭を抱えた。
「また、振り出しに戻るの? これ」
修一は、やっかいな処理作業から逃避するように
窓から外の世界を、遠い目で眺めやった。
茜色に染まり始めた空を、三羽のカラスが飛び去って行く。
修一は、その行く末を知る由もなかった。
魔男裁判 終
ここまで長らくお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
なんでこんなに完結まで話が伸びてしまったのだろうかと
個人的に一から読み直して分析してみたのですが、
高橋のくだりで一話丸々使ってるのがよくありませんでした。
なんでや高橋。
ありがとうございました。