魔男裁判 【4】
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タロウが死んだとき、私はまだ七歳でした。
小学校に通うようになった私は、家から一番近い公園までなら、
単独でタロウとの散歩を許されていました。
その日は薄雲に空を覆われた、いつもより暗い夕暮れでした。
公園からの帰り道、あの時に限って私は何故、
普段は通らないその路地を選んでしまったのか、思い出せません。
ほんの気まぐれだったのかもしれません。
それは、高い塀に挟まれた、
車がやっと一台通れるような細い道で、
舗装されていない地面に、ぽつんぽつんと電柱が生えていました。
色彩の薄いその通路を歩いていると、突然タロウが足を止めました。
体を低くして、グルグルと聞いたことの無い唸り声を上げていました。
私は温和なタロウが別の知らない誰かになってしまったように思えて
ショックで呆然としました。
ですが、タロウが牙を剥き出して睨みつけるものを見て、
それどころでは無くなってしまいました。
数十メートル先の電柱の影から、私と同い年ぐらいの男の子が
こちらに顔を半分だけ覗かせていました。
何を言うでもなく、瞬きもせずに自分を見つめるその男の子が、
私は何故だかどうしようもなく恐ろしくて
それ以上前に進むことが出来なくなってしまいました。
彼が体を隠す電柱の根元には、
枯れた花やドロドロに汚れた飛行機のおもちゃが並べてあり、
私はそれが、死者に対する手向けであることを知っていました。
しばらく私たちは見詰め合っていましたが、
何の前触れも無く、男の子は電柱をすり抜けて
スタスタと私たちの方へ歩き始めました。
私は動けませんでした。
例えれば、激怒した大人が早足で近づいてくるときの、
あの逃げ場の無い恐怖の、
その何倍もの絶望を、その少年に対して感じていました。
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「「せーの、
こっくりさんこっくりさん、どうぞお越しください。
お越しくださったら『はい』にお進みください」」
それぞれ三度ずつ暗唱して、
最後に、修一と志倉が声を合わせて唱えた。
……。
二人が口を閉ざせば、暗幕で包まれた教室は静寂に満ちる。
暫く待ってから、修一はキョロキョロと周囲を見回した。
差しあたって何の異変も生じない。
志倉は目をつぶり、沈黙を守っている。
時間だけがただ、刻一刻と過ぎていく。
いい加減失敗かと思われたそのとき、満を持して動く者が居た。
シベリアンハスキーだった。
巨大犬は志倉の手首をそっと咥えて、
そろそろと紙面の『はい』に向けて誘導した。
ずるい。
修一は喉まで出かかったが、なんとか堪えた。
志倉が鋭いツリ目をゆっくりと開いた。
「……こっくりさんの召還に成功しました。
当然私はこの十円玉を動かしていませんし、
君も同様だと思います」
「いえ、まあ、それはそうなんですけど」
こっくりさんとは、狐・狗・狸等の動物霊を用いた儀式なので、
間違ってはいないのだが、どうしても腑に落ちない。
こっくりさんが身内過ぎる。
「流石ですね、近藤君。
この怪現象を前にして、まるで動じた様子が見受けられない。
私はワクワクしてきましたよ」
志倉がカカロットのようなことを言い出した。
「では試しに、軽めの質問をしてみましょう。
こっくりさんこっくりさん、この人の性別は女性ですか」
犬が志倉の手を『いいえ』へと操るのを、
修一はハイライトが消えた目で眺めていた。
正直もう帰りたかった。
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ウォンとタロウが大声で吠えたとき、
男の子の足が止まりました。
私の体を縛り付けていたこわばりが薄れ、
もしかしたら逃げられるかもしれないという発想が
ようやく頭の隅に生まれました。
私はそのわずかな希望に縋るように、きびすを返すと
小路の出口まで一目散に走りました。
広い通りに出ても、わき目も振らずに、
背中にあの男の子が張り付いているイメージを背負ったまま
走り続けました。
限界まで走って走って、
見慣れた交通安全の看板に、私は倒れこむように抱きつきました。
勇気を出して振り向くと、男の子はもう居ませんでした。
ですが私は、悲鳴に近い声を上げました。
タロウも居ませんでした。
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「そろそろ信じて貰えたと思います」
志倉はあれから幾つか、くだらない質問を続けた。
修一のモチベーションは下がる一方だったが、
彼女は突如、火の玉ストレートを放った。
「それでは、ここからが本番です。
こっくりさんこっくりさん。
この人は、まおとこですか」
シベリアンハスキーはちらりと修一の顔を見てから、志倉の手を運んだ。
暫くして動きを止めると、慎重に手首から大きな口を離した。
二人の指は、『いいえ』の少し手前をさしていた。
修一は、その公正なジャッジに感心した。
主人の意を汲んで、都合のいい回答をするのではないかと懸念していたが、
それはいい意味で裏切られた。
ただ、先輩はさぞガッカリしているだろうなと、
少しだけ気がかりだった。
「なるほど。これはつまり……」
だが、修一の予想は再び裏切られた。
志倉は落胆などしていなかった。
「見てください、近藤君。
十円玉は『いいえ』の手前で止まっています。
つまり君の事を、ほぼまおとこでは無いにしろ、
完全にその全てを否定しきれていないのです。
質問を続けます」
志倉の喋るスピードが今までよりも早い。
修一にはそれが、こちらに聞かせるためというより、
彼女の中で、何か一つの結論を導き出すための、
助走行為のように思えた。
「こっくりさんこっくりさん。
この人は、不可思議な力を持っていますか」
『はい』
まだ曖昧だが、こっくりさんの結果と志倉の分析は、
的を射ている。
始めはインチキを見せられている気分だったが、
シベリアンハスキーは決して間違った答えを選ばなかった。
好ましくない流れだった。
修一はこの時点で、自分の能力の発覚を半ば覚悟し始めていた。
引っ越す前の学校で、異端とされた自分を
遠巻きに見るクラスメイト達の眼差しを思い出して、
少し表情を暗くした。
修一は、たとえこの場で力の事を知られたとしても、
せめて志倉澄子がそれを吹聴して回るような
口の軽い人間でないことを切望していた。
「こっくりさん……」
志倉が詠唱を始めた。
修一は今度こそ決定的なことを聞かれるのだろうと、
腹をすえた。
だが、予測はまたも大きく外れた。
「こっくりさん。
この人と私は、過去に出会ったことがありますか」
え、と声を出して修一が顔を上げた。
志倉は紙面ではなく、まっすぐに修一を見ていた。
硬貨が、今度はしっかりと『はい』に乗った。
修一は絶句した。
志倉はその結果を視線だけで確かめて、
すぐに修一の眠たそうな目を覗き込んだ。
「やはり、君だったのですね。近藤君」
目つきのきつい女の子が、修一を鋭く見つめている。
「あ、」
修一はこの女の子の目とシベリアンハスキーの組み合わせを
確かに知っていた。
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女の子が飛び出していった路地に入ると、その奥で、
狼に似た大きな犬が、小さな男の子に食らいついていました。
その頃の僕と同い年くらいの男の子は、
左半身が摺り潰されたように崩れていましたが、
無事な右腕だけで犬を引き剥がそうと苦労していました。
犬は牙を抜くまいと、
狂ったように男の子の首に噛り付いていましたが、
とうとう戒めは外されました。
男の子は、犬の後ろ首を無造作に掴むと
塀に何度も叩きつけ始めました。
僕は怖くなってお母さんにしがみつきました。
お母さんは笑顔を浮かべて僕の頭を撫でました。
そっと僕から身を離すと、男の子の方に歩いていきます。
男の子はお母さんに気が付くと、
血達磨の犬をごみでも捨てるように放りました。
地面を転がった犬はそれでも、一度立ち上がり、ふらついて、
ニ歩、三歩少年の方へ歩くと、倒れてもう動かなくなりました。
それ以上、犬のことなど見ようともせず、
男の子は甘えるように、お母さんに右手を伸ばしました。
お母さんは笑顔でその手を握り返すと、
逆の手の平で男の子の頭を包むように撫でました。
僕は背を向けました。
振り向いた先に、
先程走り去った筈の女の子が息を切らせて立っていました。
色の無い夕暮れの中で、鋭い目だけが光を放っていました。
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