魔男裁判 【3】
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あの子が家に連れて来られたとき、私はまだ四歳でした。
父がお土産だと見せたケージの中で、
ふくふくと丸いシベリアンハスキーの子供が
私に向かってキャンキャンと、けたたましく吠えていました。
落ち着き無く自分の尾を追うように檻の中で回っては、
際限なくいつまでも吠えていました。
子犬はきっと新しい環境に混乱し、
私たち家族の事を恐れていたのだと思います。
でもそれは、私も同じでした。
まだ子犬とはいえシベリアンハスキーは、
私が絵本やアニメの世界で見るオオカミとそっくりで、
とてもいかつく思えました。
噛むから絶対に外に出さないでと母に泣きつくと、
父が少し残念そうに苦笑いをしていたのを
おぼろげに覚えています。
でもあの子は、
見た目に反してとても人懐っこい性格をしていました。
一週間もたてば、志倉家に適応して、
私にもクンクンと鼻を鳴らして甘えていました。
私も朝、顔を舐めて起こされるのが楽しみで、
毎晩あの子と同じ部屋で寝ていました。
身を寄せてくるあの子の体温を感じながら、
私はいつも安心して眠ることが出来ました。
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校舎一階の暗幕に覆われた角教室。
左肩に、やけに熱を帯びた志倉の掌の温度を感じながら、
修一は自分の足元に長々と横たわるシベリアンハスキーを
目線だけでそおっと見下ろした。
幼子の拳ほどもありそうな巨大な眼球と目が合った。
大きい。
身体を構成する全てのパーツがとにかく大きい。
体長もおそらく三メートルを超えている。
生前のサイズは与り知らないが、
少なくとも現状修一にとって、この犬は怪物だった。
志倉澄子は修一だけに見える世界の中で、
いつもこの巨大な熊のような犬を引き連れて
校内を闊歩していた。
犬とはいえ、シロクマサイズになると迫力がまるで違う。
普通の人間であれば本能の領域で畏怖を感じる。
なので正確に言うと、修一は志倉が苦手なわけではなくて、
志倉が連れ歩くこの巨獣が怖くて仕方なかった。
そんな修一の気も知らず、志倉は淡々と事を進めようとしていた。
「毒をもって毒を制すといいますが、
やはりオカルトを暴くにはオカルトを用いるしかないのかもしれません。
科学の理屈で解明できる事象など、
そもそも非科学的現象ではなかったという事ですから。
つまり私としてはそういった超常的手段で、
君の本質を見極めたいと思っています」
志倉が分かるような分からないような事を言っているが、
修一はそれどころではなかった。
一瞬目が合ったことを皮切りに、シベリアンハスキーが
修一の顔中をフンフンと嗅ぎまわしはじめた。
しっとりとしたビリヤード球のような鼻がぐりぐり押し付けられて
修一の首がジャブを受けるようにがくがくと前後に揺れる。
その動きを快い同意と受け取って、志倉は胸を熱くしたが、
修一は白目を剥きかけていた。
「その意気やよし。それでは、J、K、準備をお願いします」
Kが教室の後ろに寄せられていた机と椅子を一脚ずつ運んできて、
ガタガタと修一の前に置いた。
そちらに興味が移ったのか、犬は最後に修一の顔面を
うちわのような舌でひと舐めして、
セッティングされた机の横にお座りした。
見てくれはモンスターだが、性格は極めて穏やからしい。
修一は胸を撫で下ろしてから、
実際はついていない顔の唾液を、なんとなく袖で拭った。
猫が顔を洗うようなしぐさをする修一を後目に、
Jが机の上にA3サイズより少し大きい紙を一枚乗せた。
五十音の平仮名・数字が羅列されていて、
その上部に「はい」「いいえ」、中央に鳥居の記号が書かれている。
修一は初めて実物を見たが、これが何に使われるかくらいは
知っていた。
「こっくりさん?」
「そうです。実は私はこの占いが得意なのです」
志倉が自信ありげに修一の対面に座ろうとして、動きを止めた。
こっくりさんは占いなのか考え込む修一は、
志倉の懸念に少し遅れて気づき、手のひらで椅子を勧めた。
「あ、どうぞ。もう先輩には慣れましたから」
もはや巨大犬と第一次的接触を終え、
差しあたっての安全が確認された以上
志倉を拒む理由は今のところ無かった。
むしろこの犬が志倉に懐いているのだから、
彼女の機嫌を損なわない方がいい。
「そうですか。それは何よりです」
志倉は改めて修一の正面にいそいそと座った。
シベリアンハスキーの太い尾が
嬉しそうにパタンと床をはたいた。
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私はあの子にタロウという名前をつけました。
両親はタロウを庭で飼うつもりだったのですが、
私が可哀想だと嫌がるのと、
タロウが決して家の中で粗相も吠えもしないので、
渋々諦めたようでした。
ただし、朝晩の散歩と屋外でのブラッシング、
定期的なシャンプーは私の仕事になりました。
散歩は両親のどちらかが必ず同伴していましたが、
それでも、おのずと私がタロウと接する時間は誰よりも長くなり、
タロウは私に一番気を許していました。
それこそ家の中では、片時も傍を離れることがありませんでした。
兄弟姉妹の居ない私にとって、
タロウはかけがえの無い存在になっていました。
父は、息子が一人増えたようだとよく笑っていましたが
私は言われるまでもなくそのつもりでした。
そうして新しい家族と共に季節は移り変わり、一年の月日が過ぎ、
私の身長がほんの五cm程伸びる間に、
タロウは柴犬の成犬よりも大きく育っていました。
ある日、タロウに勢いよく飛びつかれて私が転んだので、
彼はそれ以来、上手に力を加減して
私の腕の中に駆け込んでくるようになりました。
とにかく賢くて、そして、とても優しい子でした。
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「それでは、J、K。お疲れ様でした。
この結果はレポートにまとめて、後日改めて発表します」
JとKが会釈して、袋を頭にかぶったまま教室から出て行った。
「あれ? あのお二人はやらないんですか」
「JとKは怖がって、こっくりさんに参加してくれないのです。
いつも私一人でおこなっているので、今日は少し胸が躍っています」
「そうなんですか」
修一の疑問は深まる。
本当にあの二人は何故わざわざオカルト部に所属しているのだろう。
「それでは早速始めましょう」
「あ、はい」
修一はあまり乗り気でなかった。
こっくりさんといえば、学校によっては禁止令を出されたほどの
危険な儀式だと聞いたことがある。
良い印象はひとつもない。
志倉は男が使うような渋い茶色の財布から
硬貨を取り出して、紙の上に置いた。
「さあ、近藤君。人差し指を。さあ」
修一のローテンションを知ってか知らずか、
十円玉に指を乗せてグイグイ迫ってくる。
冷静を装う声色に、期待と喜びを隠しきれていない。
脇で見守る犬も尻尾をバタンバタン揺らし、
恐ろしい口を半開きにして、ハッハッと荒く息づき始めた。
とても断れる状況ではなかった。
お腹が痛いと訴えれば、
その場で漏らせと言われそうな気がする。
「わかりました」
修一は銅貨の半分開けられたスペースを
不承不承、指で押さえた。
「ちなみに近藤君。こっくりさんの経験はありますか?」
「いえ、まったく」
「なるほど、和式は使わないのですね」
「トイレみたいな言い方しないでください。
和でも洋でも、こういう儀式には興味ないんです。
そもそも、僕はまおとこじゃないんですから」
志倉は顔を二人の指先に向けたまま、目だけで修一を見上げた。
「それをこれから確認するのです。
では、私に続いて唱えてください。
こっくりさんこっくりさん――
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タロウが死んだとき、私はまだ七歳でした。