猫も拾う 【3】 終
「やっぱり見えてる」
頭の中にそう聞こえた時、修一は猫を抱えたまま走り出していた。
鞄を拾う余裕はなかった。
家に向かうには横断歩道を渡るのが最短だが、信号は赤に戻っている。
修一は車道沿いを駆け抜け、家へのルートを頭の中で選び、
できるだけ人の少ない道へと角を曲がった。
人通りがあったところで、誰に助けを求めることも出来ない。
むしろ障害物が増えて、邪魔ですらある。
修一が振り向くと、数十メートル後方を、
あの女が両腕を大きく前後に振りながら、
走って追いかけてくるのが見えた。
顔がこちらを向いているので後ろ走りになるのだが、それでも速い。
本来人間が真似出来ないその動きが、
修一の中の生理的嫌悪感を激しく掻き立てた。
「はあっ、はあっ」
スタミナ配分を考えない猛ダッシュと追われる緊張で
早くも修一の息がきれ始めた。
女のスピードは落ちない。とても家までは逃げきれない。
そもそも家まで逃げ切ったとしても、
小百合たちが帰宅している保証はない。
だが、とても頭が回らない。解決策が浮かばない。
肺は何度も限界まで膨らみ収縮するが、
呼吸はますます苦しくなる一方で、
信じられないくらい脈動する心臓に、
胸の内側を殴られているようだった。
太ももが重くて持ち上がらない
地面を踏むたびに、足首と膝がぐらつく。
とうとう修一はもつれさせた自分の足に躓いて、
派手に転倒した。
転ぶ瞬間、猫が修一の身体を蹴って飛び降りた。
修一は深く物を考えることも出来ずにその勢いで身を捻り、
なんとか道脇の草むらに胴体を着地させた。
そこは無人の空き地だった。
力を振り絞って這いつくばり、出来るだけ茂る枯れ草の奥に入ろうとする。
だが、すぐに限界を向かえて仰向けに転がると、
空に向かって血を吐くようにぜえぜえと息をした。
首だけをもたげて、わずかな希望を込めて空き地の入口を確認する。
汗と涙のカーテンで薄く滲む視界の中で、
残念ながら女が黙って突っ立っているのが、草葉の間に見えた。
距離もそう離れていない。
「しつこ……い……」
理性のフィルターを通さない、率直な感想が修一の口から洩れた。
女は空き地に足を踏み入れると、荒く息を吐く修一を数歩分離れたところから、
無言で観察していた。
ドロドロの修一と比べて、彼女の顔には汗一つ浮かんでいない。
顔をこちらに向けたままゆっくりとしゃがみ込む女の背中を、
修一はぼんやりとした目線だけで追いかけていた。
しゃがみ終わると、女はヨガでもするように体を反り返らせて
後ろに回した両手をむりやり地面についた。
普通の人間ならブリッジにあたる体制で、四肢を動かして
虫のように近づいてくる。
ただただ、おぞましかった。
嫌だ。もうこれ以上見たくない。
修一がせめて、目を瞑ろうとしたその時だった。
風が一陣強く吹いて、空き地中の枯れ草が一斉にざわめいた。
直後、四つんばいの女の後ろから音も無く伸びてきた二本の白い手が
修一に迫る彼女の頭部を、挟むように掴んで固定した。
女は体を捻って振り向こうとしているが、
黒目が左に寄るばかりで、一向に身動きが取れていない。
女の抵抗を無視して、
カブでも引っこ抜くように白い手はぐいぐいと頭を牽引する。
女の体が向こう側へ前傾していく。
力強さの割にほっそりとした綺麗な腕で、
修一は女性のものだと思った。
「姉さん?」
修一は、小百合以外にこんな真似ができる人間を知らない。
ガクガクと生まれたばかりの馬のように震える筋肉を、
なんとか奮い立たせて、半身を起こした。
「姉さ……」
だがそこに、期待した姉の姿は無かった。
修一は阿呆のように口をぽかんと開ける。
草むらには修一と、修一を追い回した女と、銀縁眼鏡の黒猫しか居なかった。
「シャァッ! フーッ!」
黒猫は細く高い威嚇音を上げ、折り曲げた四肢で大地に踏ん張っている。
もともと眼鏡をかけたおかしな猫だったが、
今やその異常は、それだけに留まっていなかった。
毛に覆われた肩甲骨のあたりから、長い人間の女性の両腕がはえている。
手のひらが化け物の頭を挟み、万力のごとくぎりぎりと圧迫していた。
猫の細腕に捕らえられた女は、
無表情のまま相手の両手首を掴み引きはがそうとするが、
まるでびくともしない。
むしろ圧力は増し、米神がミシミシと不気味に軋みはじめた。
触れあった部分からは丁度肉を炙るような音がして、
薄い煙を空に上げている。
女は体をねじりもがき抵抗しようとするが、猫の力が圧倒しているのか、
焼け石に水をかける程度の効果すら生み出さなかった。
白い手の圧迫に耐えられずに、女の虚ろだった目が無理やり大きく見開かれ、
まん丸になると続いて、アメリカのアニメのようにせり出してくる。
終わりを予感して修一が顔を逸らすと、
メキッグチャッっと潰れる音がして、それでもう何も聞こえなくなった。
しばらく待ってから、おそるおそる視線を戻すと
そこには前足で熱心に顔の毛づくろいをする、黒猫しか居なかった。
眼鏡はかけているが、人の手はもう引っ込んでいる。
立ち上がった修一が、ふらふらとした足取りで近づいても、
メイクアップにご執心で、そちらを見ようともしない。
修一は満身創痍だったが、一心不乱に顔を摩る猫に対して
どうしても気になることを聞いた。
「それ、眼鏡、邪魔じゃないの?」
些末な質問を受けた黒猫は修一を見上げて、一度じっと眺め入ると、
目を逸らして何事もなかったかのように毛づくろいを再開した。
修一がほうほうのていで家に帰り、身なりを整えて、
交番から鞄の落し物の連絡を受けたころ、
ようやく小百合たちが帰ってきた。
小百合はどさっとリュックを置くと、ソファーにひっくり返って、
ぶへえとオッサンみたいな息を吐いた。
「あー、やっとホームに帰ってきたって感じ。
やっぱ実家は駄目ね実家は」
「お前、そういうこと言うなよ。親父さん、また泣くぞ」
「いいのよ。お父さんは半分趣味で泣いてるんだから。
徳光みたいなもんよ」
実在する人物・団体に一切関係の無いことを言う小百合の前に、
気を利かせた修一が湯飲みを置いた。
つづけて、かすみにも差し出す。
「はい姉さん、かすみさん。お茶」
「お、サンキュー。って、おい修一。その傷どうしたんだ」
かすみの言葉を聞いて、
弟の頬にある小さな擦り傷に気づいた小百合は大いに取り乱したが、
大したことが無いとわかると胸をなでおろしていた。
転んだだけだよと釈明する修一を、
かすみは、いいよ分かってるよと、何故か理由知り顔でいさめた。
「修一もそうやって、男になっていくんだな」
かすみは自分の事のように、誇らしげだった。
修一には、かすみがどのような情景を思い浮かべているのか、
手に取るように分かった。
「多分、かすみさんが想像してるような
河原で決闘的なことは無かったからね」
「いいよいいよ、分かってるって」
「もう、違うってば……あれ?」
「どしたの修ちゃん」
修一はリビングの窓に近づいて、
暗くなった庭に目を凝らしていた。
塀の上に、ここ数日当たり前に乗っていた置物が居ない。
先刻、修一が帰宅したときには、
黒猫も当たり前のようについてきた筈だった。
一応、サンダルを履いて庭先に出てみたが、
眼鏡猫の姿はもうどこにもなかった。
「なんか探してんのか」
「え、ううん」
「それよりもさ、修ちゃん。お土産あるよ、お土産」
小百合がテーブルの上に、四次元リュックから
次々と包装された箱を取り出している。
「お菓子と、お菓子と、お漬物と、あとお菓子と、お菓子」
「やっぱりお菓子多すぎんだろそれ」
「うちだけじゃ食べきれないね」
どれとどれを近所に配ろうか考えている修一に向かって、
小百合は、んふふと意味ありげに笑った。
おもむろにリュックの底から、一冊の本を取り出す。
「そして、ほらこれ。
修ちゃんが大好きで、よくお母さんに読んでもらってた絵本。
蔵の中から出てきたよ」
「へえ」
修一は一応、軽く驚いたていで受け取った。
正直、母親に絵本を読んでもらった時の記憶など、
はっきりとした形を保って残ってはいない。
かなり幼いころの話なので、
それこそ自分がどの本を好き好んでいたかなど、
さっぱり覚えていない。
ただ、キラキラと目を輝かせる姉を前にして、
無下な対応を取るわけにもいかず、
できるだけ嬉しそうな顔をした。
「ありがとう姉さん」
「修ちゃんかわいかったなあ。
『ぼたもちよんでぼたもちよんで』って、いっつもせがんでて」
「『ぼたもち』?」
なるほど、絵本のタイトルは『ぼたもちコロコロ』だった。
何気なく表紙を眺める修一の作り笑いが、そこで突如凍り付いた。
喉を鳴らして唾を飲み込むと、修一は恐る恐る本を開いた。
「これって……」
「ん? 修ちゃん好きだったよね。ぼたもちコロコロ」
「え、いや、うん、」
ページをめくって、内容を確認する。
それに応じて、ぶつぶつと途切れた記憶がおぼろげに蘇ってきた。
ぼたもちとは、確か物語の主人公の名前だった。
人助けを生業としていて、
幼い日の修一にとって多分、唯一無二のヒーローだった。
おそらく修一はこの強くて賢いぼたもちが大好きで、
本を寝床に持ち込んでは母親に「またそれでいいの?」みたいな事を、
何度か尋ねられたような気がしていた。
「でもなんで、これ……」
「修ちゃん、大丈夫?」
「どうしたんだよ、おい」
様子のおかしい修一を心配する二人の声も、
もはやどこか遠くで反響している。
『ぼたもち』は金色の瞳で、お洒落な銀縁眼鏡をかけた
あの黒猫の姿をしていた。
猫も拾う 終
ここまでお時間割いていただきまして、ありがとうございました。
実は私も黒猫ちゃんを飼っておりまして、
こういった現在するものをモデルにするのは少し照れくさい気がしましたが
私は起きていても夢を見ているおっさんなので
全然恥ずかしくないです。
ありがとうございました。
エゾバフンウニ