猫も拾う 【2】
放課後、修一は黒猫を連れて朝とは逆方向に河川敷を歩いていた。
夕食を行きつけの喫茶店で済ませてしまおうかと思ったが、
姉と幼馴染がもう帰ってきているかもしれない。
ひとまず家に直行して、
食事のことはそれから考えることにした。
「こういう時に携帯があれば便利なんだけどなあ」
近藤家では、スマートフォンの所持を高校入学から許可される。
どうせ通う中学校では持ち込みを禁じられているので、
修一が特に大きな不平を口にすることは無かったが、
やはり何かの拍子に、あったらいいなと思うケースは生まれてくる。
「無い物ねだりしてもね」
修一は気を取り直すと、横断歩道の信号で足を止めた。
直立する人影が描かれた赤い正方形を見つめる修一の隣に、
どうやら親子連れが立ち止まる気配がした。
娘の方が黒猫に向かって、
「にゃんにゃん、にゃんにゃん」とはしゃいでいる。
どうせこの猫はまた相手にしないんだろうなと、
修一は前を向いたままだったが
「フーッ」という荒々しい息の音を聞いて、
思わずそちらを見下ろした。
黒猫は背中を大きく丸く曲げて、
子供に向かって激しく威嚇している。
修一は何者にも不愛想で無関心を貫いていたその猫が、
こんなにも爆発的な感情を発露させている姿に驚いたが、
幼い女の子が怯えるのを見て、むしろそちらに慌てた。
膝を曲げて、猫を背に隠す。
女の子は涙ぐんだ目で、高さのあった修一と視線を合わせた。
「あ、ごめんね。ちょっと機嫌が悪いみたいで」
「にゃんにゃんおこってる?」
「うん、ちょっとだ、け」
修一は女の子の向こうに立つ親にも謝罪しようと
顔を半ばまで上げて、
やっぱりやめて女の子に笑顔を向けた。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「ユリ」
「ユリちゃん、お父さんか、お母さんは?」
「たぶん、そととおみせ」
「一人で来たの?」
「ううん、おばちゃんといっしょ」
「おばちゃん?」
修一は不思議そうにあたりを見渡した。
少女の隣には首をフクロウのように百八十度回転させた
中年の女が立っていた。
修一は自制力を総動員して女に視点を合わせずに、
遠くを眺める演技をやり通した。
首がねじれていること以外、異変のない女は特に反応を示さず、
ただ修一たちのやり取りを観察しているようだった。
「おばちゃんって?」
「おばちゃんはおばちゃん」
「ねえ、そんなことよりさ、ユリちゃん。
にゃんにゃんと一緒にお家に帰ろうか」
「でもにゃんにゃん、おこってる」
「大丈夫だよ、もう怒ってないから」
「でもこわい」
「大丈夫、大丈夫」
修一はしゃがんだまま、少女に背を向けた。
身体を出来るだけ大きく見せようと全身を奮い立たせる猫を見て、
修一は祈っていた。
この猫にせめて自分への害意が無いことと、
こちらの思惑を理解する知性があることを修一は一心に祈った。
「ね、もう怒ってないよね」
声をかけられても黒猫は銀縁眼鏡の奥でくっきりと瞳孔を開いて、
憤怒を露わにしていたが、修一の哀願にも近い眼差しを見て、
頭を撫でられると、気勢を徐々に落としはじめた。
何度かそうしているうちに膨らましていた尻尾をゆっくり下ろして、
とうとう観念したように静かになった。
修一はここ数日一緒に居た黒猫を、初めてそっと抱き上げた。
猫は大人しくされるがままになっている。
「ほら、もう大丈夫。触ってごらん」
「かわいい」
ユリちゃんが指を猫の鼻先に近づけると、
猫はそれをクンクンと嗅いで、
眉間の辺りを小さな手の甲にこすりつけた。
感激する少女が、かわいいかわいいと繰り返しながら、
修一の顔と猫の間で何度も視線を往復させる。
それを見て、修一は必死に微笑み続けた。
視界の端で、先程よりはるかに近い位置に
あの女のサンダル履きのかかとが見える。
焦点が合わずぼやけた光景の中で、
ゆっくりとジーパンに包まれた尻が地面スレスレまで下りてきて、
薄い桃色のシャツに覆われた腰が空中で止まった。
女は首だけをこちらに向けたまま、
もっと近くで修一たちを観察するために、しゃがんだらしかった。
修一は心を殺して、
ただひたすらユリちゃんの顔にだけピントを合わせて、
笑い続けた。
「ユリちゃん! ユリ!」
「あ、ママ」
遠くから女性の声がして、ユリちゃんが勢いよく顔を上げた。
慌てて駆けてくる自分の母親を見ると、
ユリちゃんは名残惜しそうに猫の鼻先を二度つついて
「ばいばい」と手を振った。
修一もそれに手を振り返した。
走っていくユリちゃんが離れた母親の太ももに、
ラグビー部顔負けのタックルを決めるのを見届けると、
安堵して正面を向いた。
一瞬の油断だった。
ほんの鼻先数センチ、視界一杯に表情のない女の顔が広がっていた。
修一は息をのみ、目を見開いてしまった。
女が幸せそうに笑った。
「やっぱり見えてる」