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酒の席

作者: 明宏訊


「遠くに行こうとしている。この苦痛から逃れるためにはそれしかないと思い至った」

生徒が書いた詩はなんということもないありふれた歌謡曲を真似たものだった。

その具体的な曲名はわからない。ただ耳にしたことはある。メロディを思い出せば、自然と詞も浮かんでくる。逆にいえば彼女ほど音楽情報に疎い人間にしてそこまで言えるほどに有名ということになる。

さらに言えば、彼女ほど音楽に疎い人間は珍しいのに、完全ではないにせよ原作はその脳に印象づけることに成功した。

採点している手がかすかに震えていた。激務が続いていて心身ともに相当に疲労しきっていたことは否定できない。

詞は浮かんでくることは浮かんではくるが。

だから記憶に転載された内容は本編とは相当に違ったものになっていた。

原作とコミカライズされた作品、両者にはそれほどの距離があった。

国語教師であるはずの彼女は、事態を時空を超えて俯瞰できれば、簡単に事実に到達できたことだろう。

だが神ならぬ身ではそれは不可能だった。

「遠くに行こうとしている。この苦痛から逃れるためにはそれしかないと思い至った」

だがそれは勘違いだった。

他の生徒が作った作品を採点しながらも、頭の中では当該人物のことばが脳裏を駆け巡る。教師は、強いてそれを手放そうとはしなかった。

自分のなかで咀嚼した先に、それでもかすかに小骨が歯茎に触ったはずだった。印象に残ったはずなのに、そこまで踏み入って咀嚼することはしなかった。それが後悔すべき結末へと導かれることになる。

すべてが終わってから知った詞、いわば原作はこんな風だった。

「遠くに行きたかった。それ以外にこの苦痛から逃れる術はないと思い至ったから」

それを知ったのは、結婚式の日の夜、新郎の友人だと紹介された歌手から説明を受けたのだ。

本来ならば音楽にほとんど馴染がない彼女にとって、その人物の名前はぴんとこなかった。彼女の妹をはじめとする家族たちは事実を知ると目を丸くしていた。そんな話は聴いていなかったとばかりだった。それに対して、「話したわよ、音楽を生業にしている家族がいると、私は話したはずよ」

当該人物が新しく妹と呼ぶべき人間にたいして好意を抱いた理由は、自分の名前を知ったのちでも大仰な態度を示さなかったからかもしれない。

「ああ、そうなの?どこかで聴いたことがある名前かもしれないわね」

素気なかったことが、新鮮な印象を発言者の伺いしれないところで与えていた。



しかし驚愕すべき事実はそんなことではない。

どういう会話の経緯からか、その詞を紹介されたとき、女教師は絶句したのだ。

乏しい音楽関係の知識が間違っていたことを知った。

生徒が自殺する前に書いた詩は真似たものではなかった。

レトリックとして外形は借用したのかもしれない。

しかしそういう器に入れた酒は生徒のオリジナルだった。

もしも気付いていれば生徒の心臓が止まることは妨げられたかもしれない。

酒の席だったから、みなに真意が伝わることは妨げられると思ったのは早計だった。

新婚の花嫁が酒を過ぎるなどと聴いたことがない。

それが一般的な常識というものだろう。

いつ意識が失われたのか、よく覚えていない。

しかし意識が失われる最後の瞬間、こう思ったことだけは覚えていた。

もしも自分が気付いたら、彼を遠くに行かせることはなかっただろう、還ってこられないほどの遠くに・・・・

てこない。自分が殺したのだ。

自意識はそういう自分をひたすらに反芻していた。


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