第三話
道もない険しい獣道を、彼女は一人たくましく歩いていた。
ルーズバーグ王国、北の地であるアドウィン地方より数日。途中までは馬車で王都に向かっていた彼女だったが、さすがに「帰らずの森」と呼ばれている森に御者は「すまないがここまでで」と足を踏み入れようとせず、それならばと歩き始めたは良いものの……彼女の雑な性格が災いしてか、近いからと獣道を歩いている現在。
当然、彼女は迷っていた。
ふわりと柔らかな金の髪を高い位置で一つに縛り、その深い青の目は知的さを感じさせる。着ているのは緑を基調とした修道服で、首から掛けられた大きめの十字架が歩くたびに揺れていた。
顔立ちは一般的であるものの、彼女のまとうその雰囲気だけは、どこか異質にも思えた。
「……ほんっと、王都って暑い」
ルーズバーグ自体そんなに暖かな国ではないのだが、北の区に居た彼女からすれば暑いことこの上ないのだろう。独り呟きつつも歩いている彼女は人の気配のない森に視線を巡らせるが、一瞬足を止めるのみで、それらを気にする様子はない。
一応魔獣の存在には気づいている。けれどおとなしい魔獣なようで、彼女の様子を見てくるだけなために、退治しようとは思わなかった。
「……あら?」
ある程度歩くと、彼女はとある家を見つめて目を見開いた。
こんな山奥に家があるなんて思いもしなかったのだろう。さらに人の気配もなく、家の周りは冷たい空気に包まれている。廃墟、にしては家が寂れていないし、確かに誰かが住んでいそうな雰囲気はあるのだが――。
「どなたかいらっしゃいますか」
ここで動けなくなっている人が居たりするのではないか、との思いから彼女は声をかけたのだが、返事はなかった。窓もないその家は、正面の扉からしか中の様子を伺えない。
何度呼びかけても、やはり返事はない。そのため仕方なく木製の扉に手をかけると、何かに気付いた彼女はぴくりと眉を揺らして、突然動きを止めた。
――空気が重い。先程までの暖かな空気が、この家の周囲だけうんと冷えているようにも思える。
(……人間が、いるの……?)
とてもそうは思えないが、彼女は心中でつぶやくと、その扉からそっと手を離した。
彼女が正式にエクソシストとなれたのは四年前のことだ。
今もまだまだひよっ子ではあるが、彼女の魔力と身体能力を知る者は彼女を馬鹿にするでもなく、大金を差し出して彼女に悪魔祓いを請うほどになった。
その四年で、命の危機に何度出くわしただろう。そういう経験があるからこその直感が、この扉の向こうに居るのは人間ではないと彼女に訴えかけていた。
(……なるほどね。帰らずの森、なんて、何で呼ばれ始めたのかと思えば……)
彼女は御者から、帰らずの森について大方のことを教わっていた。
入った者は戻らない。魔獣の咆哮もよく響き、入った者の断末魔を聞いたものも少なくないと。
(コイツが原因かな?)
その可能性に眉をひそめて、女は背負っていた荷物を下ろす。教会の紋章が刺繍されたその服は一枚脱げば動きやすい構造になっているが、女はまだそれを脱ぐことをしなかった。もしも出てきたのが人間ならば、重装備の彼女を見て驚いてしまうと考えてだ。
「すみません。誰か居ませんか」
返事はない。首にかけていた隠しナイフである十字架を手にして刃を引き出すと、彼女は今度こそその扉にしっかりと手を置き、力を込めた。
鬼の毎日は、非常にシンプルなものである。
寝ることもない鬼はただその家にある椅子に座り、時間が過ぎるのを待つ。時にやってくる山賊を返り討ちにしては魔獣に食わせ、時にやってくる迷惑な騎士たちを殺しては魔獣に食わせ……ということもしているが、毎日毎日そんなに慌ただしいわけでもない。
しかしこの数ヶ月。とある人間がやってきていることによって、鬼の毎日がやや変わりつつあった。
自らをヴィンセントと名乗るその男は、頻繁にやってきては何をするでもなく、他愛ない話を鬼に聞かせる。
断じて、鬼が頼んだわけではない。鬼が扉を開けずともその前に勝手に座り込み、返事をせずとも一方的に何らかの出来事を語るのだ。
時に山賊が来ては彼が返り討ちにし、しかしそれは殺すまでをしない。魔獣に食わせるのを止めてくれ、と叫んで山賊の命を救おうとするような、鬼からすれば意味の分からない男である。
最初は「止めてくれ」なんて言葉も無視をしていた。当然だ。鬼には従う義理がない。
しかしだんだんとその言葉が耳につくようになり、うるさいからと山賊を殺して魔獣に食わせれば「なんてことをするんだ!」と泣きそうな顔をされた。
そしてそういうことが繰り返されると鬼も折れて、魔獣を追い払うことまでしてやっている。
しかしここ数日程、そんなヴィンセントもこの森を訪れなくなっていた。
鬼は特に気にもしていないが、やってくる山賊を殺しては魔獣に食わせるという循環は復活している。
ヴィンセントが見れば咎められるのだろうが、人間の怒りなど鬼には恐るるに足らない。そもそも怒るといってもヴィンセントは泣きそうな顔をしていて、どうしてか怒っている側が怒られているような顔をしているから、人間から見てもあれは怖くないだろう。
――――そして、今日もまたここ数日と変わらずヴィンセントは来ていないため、鬼は一人でいつものように椅子に座っていた。
「どなたかいらっしゃいますか」
静かな森に響く、穏やかな声。ヴィンセント以外の人間の声に、鬼は閉じていた目をゆっくりと開ける。
どういうわけか、扉の外からの気配は、人間とは少し違っているように思えた。かと言って完全に異質なものかと言われればそうではなく、どこか人間味も帯びている。
まるで、自分のようだと。――――そう思うと同時に、鬼は扉の前の存在に興味を持った。珍しくも立ち上がり、自らが歩み寄る。
けれどはたして、開けてしまってもいいのだろうか。
「すみません。誰か居ませんか」
再び声が掛けられた。
同族かもしれない。今までどっちつかずであった鬼は、えも言われぬ歓喜のままに扉に手を伸ばす。
――が、躊躇いは一瞬。次には、バン! と扉が勢いよく開かれた。そこから低い姿勢で女が鬼に突進してくるのを目にして、数歩分早くひらりとそれを華麗にかわす。
人間だった。
手にナイフを持った、自分に敵意のある人間。
瞬時にそれを認識して鬼が家から出ると、向かってくるその女が振りかざすナイフを軽くいなす。けれど女も相当な手練のようで、鬼とはいえ一瞬でも隙を見せれば危ないと思わせるほどだ。
鬼の鋭いひと突きが、女の肩を抉った。すると女の肩口にあった教会の紋章を裂く形となり、そこに込められた魔力に、鬼の腕が肘あたりまで一気にただれる。
じくじくとした内からの激痛が鬼を襲った。しかし、並みの人間では耐えられないその激痛を受けても、鬼の固まった顔の筋肉には感情の一つも浮かばない。
逆に、左肩を抉られた女は激痛に顔を歪め、未だ血を噴き出している患部を押さえ込んで膝をついた。
「……人間か?」
見下ろす鬼は、やはり抑揚のない声を女にかける。
「……っ、殺せ! 怪物に情けをかけられたくない!」
「人間か?」
最初よりも強い声に女は肩を揺らすと、痛みをこらえながらもゆっくりと口を開いた。
「ああ、人間だ」
鬼は傍目には無表情だったが、心中では今までにない落胆を見せていた。
血の臭いに魔獣が寄ってくる。そうして赤く腫れてただれている鬼の腕を見ると、牙を剥き出して女に威嚇を示していた。
もう死ぬのかと、女は目を閉じた。
最後に一目、会いたかったと。あの、神秘的な瞳の秀麗な男に。もう一度だけでも……。
「ビー!」
その声に女は、弾かれたように顔を上げる。
「ヴィンス!」
不覚にも涙が溢れたが気にすることもなく、女はヴィンセントに駆け寄った。