第二話
ハロルド=テイラー・モルダー=ブラウンから見た上司、ヴィンセントは、何にでも恵まれ、何不自由なく育ち、けれど誠実にまっすぐとした目をしているという印象がある。
ハロルドは十五の頃「いずれはこのアルフォード公爵家を継ぐ、ヴィンセント様だ。おまえは手となり足となり、ヴィンセント様にお仕えしなさい」と父に連れられてから、もう長くヴィンセントと共に過ごしてきた。
ヴィンセントはその頃からとても純粋で、アルフォード邸に保護されていた怪物たちにも怯えることなく、己の信じた道を突き進む強さをも持っていた。
正直、拍子抜けである。
ハロルドは子どもながらに、どうせ爵位が約束されているだけの甘えたお坊ちゃんが居るのだろう、と疑っていたからだ。
しかし結論から言えば、ヴィンセントはハロルドが思っていたのとは全く逆の男だった。
だからこそ現在も、ハロルドはヴィンセントに仕えていられる。これまでにハロルドが一度でも失望していたなら、きっと今もここには居なかっただろう。
――――そんなヴィンセントは、さすがハロルドが認めた男、と言うべきなのか、女性からは驚くほどに人気が高い。「怪物公爵」であるために一夜限りの関係しか望まれないが、それでも絶えず誘いがあるのにはハロルドも驚かされたものだ。
しかし、ヴィンセントはこれまで、その誘いの全てを断っていた。
彼が誠実であると言うこともあるのだろう。ある意味で潔癖かとも思えるほどに、彼はただ頑なに女性を拒み、一部では「女嫌い」とさえ噂されていた。
ハロルドは正直「遊ぶくらいなら良いのではないか」とは思っていた。だって、ヴィンセントはあまりにも重責を担い過ぎている。少しくらい発散させなければ、ストレスで死んでしまうのではないかと思えたのだ。
なのに、ヴィンセントはずっと誠実に生きていた。
そんな彼だったからこそ、ハロルドも失望しなかったのかもしれないが、どうにも心配は拭えない。
そんなに厳しく生きずとも、もう少し自身に緩く生きても良いのではないかと。ハロルドは常にそう思っていた。
――の、だが。
「ハリー、東洋の女性はどうしてああも美しいんだろう」
何を思い出しているのかは明確だ。
遠くにいる彼女を思い浮かべて、ヴィンセントはうっとりと呟く。
「お言葉ですがヴィンス様。すべての東洋女性を妖怪である鬼と同等に思うのは間違っております」
「そうか……そうだね」
聞いているのかいないのか。悩ましげな表情でハロルドに言葉を返しながらも、ヴィンセントは目を通す書類を的確に処理していた。
ハロルドはたまに、ヴィンセントは同時に幾つの物事に対処できるのかを試してみたくなる。会話をしながら書類を作成するのは手馴れているようだし、どちらも内容に違和感はない。むしろ話の返事は的確である上、書類も一切のミスは見られないから恐ろしい。
こんな彼だからこそ、たまには息抜きを――――とは思うが、森の鬼に心奪われるのだけはさすがに反対である。
それならばシオとよろしくしてくれた方が幾分有難いというものだ。聞く限り、例の鬼はあまりにも凶暴すぎる。
「ヴィンス! 引きこもり公爵! どうだ、俺と夜会に行かないか!」
蹴破るように書斎の扉を開けたその男は、豪快な笑顔を貼り付けてドカドカとヴィンセントの座る机までやってきた。
ヴィンセントは当然ながら一瞬何が起きたのかと呆けたものの、すぐにハロルドを見上げる。しかしハロルドも首を横に振るばかりで、どうやら彼が来ることは知らなかったらしいと分かった。
「アレックス、私は忙しい。出口はあっちだ、こっちじゃないぞ」
「お堅いこと言うなよヴィンスー。前に招待状出したろ、迎えに来てやった」
「必要ない。ハリー、お客様がお帰りだ」
「うわあ待て! ハリーは手荒なんだぞヴィンス……はあ、本当に冗談の通じねえ男だ。ほら、オルグの視察の報告書。――東区域北東子爵領領主のアグエイアス子爵が、少々面倒なことをしてるらしい」
渡された紙束にパラパラと目をやると、ヴィンセントは真剣な面持ちで数度頷く。
「……なるほど」
記されていたのは、オルグ地方東区域北東子爵領領主の鉱山事業所の不当解雇と、偽造帳簿の作成についてである。
「……アレックスは視察に行ったんだったね。アグエイアス子爵の鉱山事業所に行った感想は?」
「そこに書いた通りだ。――不当解雇された人間に話を聞けば、アグエイアス子爵は最近独裁的になっていたらしい。理不尽な怒り方もざらだったみたいだし、経理を任されていた人間に聞いたんだが、偽造帳簿の存在はその者も知らないくらいに秘密裏に作られていたようだ。……まったく、俺も騙されてた」
不愉快そうに眉を歪めてそう言うと、彼は部屋の中心にあるソファに深く腰掛けた。
王都第五区公爵領領主、アレキサンダー・スミス=カルヴァート・マーシャル=ホールは、大柄な体躯と逞しい筋肉に見合う、全てにおいて豪快な男である。
金にも見える茶色の髪は短くツンツンと立てられ、その茶色の瞳は常に獲物を狙っているように爛々としている。動物に例えるならば、十人が十人は「百獣の王だ」と答えるだろう。
そんなアレキサンダーは、オルグ地方という、王都の西にある工業地域をまとめる王都第五区の公爵領領領主である。さらにはヴィンセントの父であるリチャードと友人関係なために、ヴィンセントとの付き合いもハロルド以上に長い。
ヴィンセントはアレキサンダーを兄のように思っており、それは今でも変わらない彼の立ち位置である。
「アレックス……王都に最近よく来るね」
「おう、俺は引っ張りだこなんだよ。ヴィンスも今夜は夜会に行かないか?」
「行かない。まったく、カルヴァート公爵夫人は夫にフラフラとされて気が気じゃないだろうね」
「いや、トレイシーは俺が妻一筋なのを自覚してるから大丈夫だ。俺はただ情報収集のために行っているだけだしな」
「ほう、それはそれは毎回楽しそうな情報収集だなあ」
独り言のようにつぶやけば、アレキサンダーはスッと視線をそらす。
アレキサンダーは、ヴィンセントの母であるシンシアと幼馴染みである。そして父であるリチャードとは今よりうんと若い頃に知り合い、結局二人のキューピットのような役割をするほどに三人で仲を深めた。そのため、アレキサンダーは生まれた頃からヴィンセントを知っている。
逆にヴィンセントも、物心ついた頃からではあるが、アレキサンダーという男をよく知っているのだ。
そうやって長い目で見てきたヴィンセントがアレキサンダーという男を率直に言うならば、ただ女にだらしなく、妻一筋と言いながらも愛想だけは周囲に無駄に振りまいて期待させるという、決して誠実なものではない。
しかしそれがヴィンセントの反面教師として役立っているのも事実だ。
「いやー……あ、そうか。そうだよな。ヴィンスはもう二十だけど、ベアトリス嬢が居るもんな」
「……ビー? 何で今ビーの名前が出てくる?」
「はいはい。昔っからベアトリス嬢はヴィンスに首ったけ、ヴィンスもよく懐いてたもんなあ。分かってる分かってる。馬に蹴られねえように俺も夜会への誘いを控えましょうかねえ」
「意味が分からない」
「おまえ、何にでも恵まれてるようで、女心だけはまったく理解できてないよな」
確かにアレキサンダーほど、ヴィンセントは女性に対して優しくも甘くもない。特に厳しいわけではないのだが、過度な甘さがないのだ。けれどヴィンセントは気にするでもなく、むしろ「どうして好意のない相手に甘くしなければならない」という疑問こそあれ、アレキサンダーのように「女性には優しく」という考えに肯定することはできなかった。
しかし今、初めてそれに肯定しなければならないかもしれない。
ヴィンセントは考えるように視線を落とすと、森の奥に住む美しい鬼を思い出す。
もしかしたら彼女は、自分が女性の扱いを知らないから、家から出てきてくれないのだろうか。
「おいヴィンス、悪かったよ。そんな落ち込むなって……」
黙り込んだヴィンセントに、落ち込んでしまったと思ったアレキサンダーが気遣うようにそう言うが、ヴィンセントはその言葉を聞いておらず、やがてゆっくりと視線をアレキサンダーに戻す。
「アレックス、教えてほしいんだけど」
「お、おう。何だ」
「家から出てこない女性と面と向かって話すには、どうしたらいいんだろう」
「……は?」
ヴィンセントの言葉を聞いて、アレキサンダーはぽかんと口を開けた。
そんなアレキサンダーの背後。離れた場所で仕事をしていたハロルドが、聞き流せない言葉にヴィンセントを見やる。しかしそんな視線にも気づかない彼はただ答えを待つように、アレキサンダーをじっと見ていた。
「えー、と……何、引きこもりなの?」
「ああ、まあそう、なのかな……? なんというか、人が嫌いらしくて」
「……ヴィンスならその女を相手にしなくても従順なのが手に余る程寄ってくるだろ」
「だけどセオドア陛下の命令でもあるし……」
「陛下!? そりゃ……失敗するわけにもいかんなあ」
微妙に食い違った会話に、ハロルドはやっとその視線を緩めた。杞憂であればいい。
ヴィンセントが危険を承知で必要以上に森に出向くのも、国王陛下から「帰らずの森」の調査を任されたという責任のためであると。
胸をなで下ろして、ハロルドは再び手元の資料に目を落とした。