第六話
「大丈夫? ヴィンスちゃん」
シオが心配そうにヴィンセントの背をさすり、落ち着くように促す。しかしヴィンセントは数度頷くだけで言葉を発することもなく、まだ全く落ち着いていないことは目に見えて明らかであった。
自らが森に踏み込もうと決意したヴィンセントは行動が早く、翌々日には準備を整えてシオと共に目的のその地に赴いていた。
一応国王陛下には自らが森へ出向く旨を伝えているため、帰れなかった時のことも万全にしている。そんなヴィンセントをクリードはもちろん止めたのだが、ヴィンセント自身、何故かシオがいるから大丈夫なような気もしていたために、きっと平気だろうと心のどこかで余裕を持っていた。
――そうやって、意気込んで来たものの。
森の奥にある小さな家。そこにたどり着いたと同時、ヴィンセントはすでに消化済みの昼食を吐き出していた。
ヴィンセントには戦場の経験はない。実戦的な剣術の訓練はしているし、仕事柄死体は目にしていたとしても、さすがにそれは安らかに目を閉じているものであり、決して魔獣に食われている様などではない。
内蔵が飛び散り、あたり一面真っ赤な液体に濡れている光景など知らないのだ。
「だれ」
声がした。息も絶え絶えに口元をぬぐい、ヴィンセントは分かりやすく肩を揺らすと、声の主に視線を送る。
「あら、本当に鬼が居る」
「……天狗? 何故ここに」
ヴィンセントはその女を見て、クリードの報告にあった女と同一人物であると一目で理解した。
確かに雰囲気は異様だし、先ほど魔獣に食われていた男の返り血なのか、まだ乾いていないそれで服を赤く染めている。前髪の生え際から伸びる硬質そうな角も二本あり、確かに片方は欠けてはいるが、クリードの言っていたとおりユニコーンのように立派だった。
「天狗、と、人間、が……?」
真っ赤な瞳がヴィンセントを捕らえた。それにまるで金縛りにでもあったように動けなくなったヴィンセントは、緊張した面持ちのままで視線を送り返す。
――――それと同時。ぐしゃぐしゃと死体を食い終えた魔獣は、長い舌でべろりと口の周りの血を舐めとると、鋭い目を光らせて悠然と立つ鬼の女を見据えた。
けれど襲うでもなく、警戒している様子でもない。それどころか、その魔獣は女ではなく、シオやヴィンセントを威嚇しているようにも思えた。
「ヴィンスちゃん、私に任せて。……あなたどうしてここに居るの?」
「……天狗は?」
「私はちょっと息抜きに来たこの国でこのヴィンスちゃんに会って、成り行きでお世話になってる。それで? あなたは?」
「……男を、探してる」
「男?」
シオを見ていたその真っ赤な双眸が、再びヴィンセントに落とされた。シオの足元にしゃがみこんでいたヴィンセントはやはりその視線に動けなくなり、ただ力なく視線を返す。
別に、睨まれているわけではない。ただ、女の瞳があまりにも凍てついていたために、これまで女性からそんなふうに見られたことのないヴィンセントには恐ろしいものに思えたのだ。
「……違う」
淡々と、感情の滲まない声で、女が呟いた。
「そりゃそうでしょ。東洋に居るはずのあんたがヴィンスちゃん探してたら驚きよ……そもそもあんた何年生きてるの?」
「私……は、母が殺されてから、長く生きてる」
「だから長くって何年」
「何年……」
何を聞かれているのかを理解していないように首を傾げたかと思えば、唐突に飽きたのか、女はくるりと背を向けて歩き出す。
効率主義なだけかもしれない。自身の確認事項を終えたために、もう用もないのだろう。
「ちょ、ちょっと! まだ話は終わってないわよ!」
「……天狗。人間の匂いが移っている」
「だから?」
「私は人間が嫌いだ」
女が、今度は敵意を持ってヴィンセントを見下ろすと、その雰囲気の変化に反応してか女の背後に居た数匹の魔獣が低く唸った。
地を這うような低い唸り声だ。微かに地響きさえもしている気がする。
殺される、とヴィンセントの本能が感じとった。魔獣に食われるのか、それとも女に殺されるのか。本能的に手が震えるのは仕方がない。
けれどそれでも、何故かヴィンセントの心の奥はどこか冷静であり、先ほどよりも落ち着いて鬼を見つめることができていた。
――――男を探してる。
そう言った鬼は、ヴィンセントを見て「違う」と言った。つまり「人間の男を探している」ということなのだろう。
けれど鬼は「人間が嫌い」と言う。
全身でヴィンセントを警戒しながら、それでも鬼は人間の男を探している、とは……。
(……なんて、矛盾)
決して帰らずの森から出ない鬼が、嫌いなはずの人間を探している、なんて。
(不器用な、人だ)
見つけたいのか、見つけたくないのか。まるで人間のような感情の矛盾を見つけ出してしまえば、鬼の弱さに触れた気がして、ヴィンセントはさらに心に余裕ができるのを感じる。
ゆっくりと立ち上がった。それを鬼は変わらず冷たい目で見るのだが、関係ないとでも言うようにヴィンセントは穏やかに微笑む。
「……初めまして、私はこのルーズバーグ王国、王都第一区公爵領を治めております、ヴィンセント・アドルフ・デ・アルフォード・ブラッドリーと申します。どうぞヴィンスとお呼びください」
ヴィンセントの目にはまだ動揺が滲んでいるが、まっすぐに鬼を見つめ、最後までしっかりとした声で言うことができた。それに鬼は目を細めると、何も語ることなくフッと顔を背けて、家に入って行ってしまう。
バタン、と、やや強めに扉が閉まる。ちらりと見えた室内には、クリードからの報告にあったとおり、血の跡のような滲みが広がっていた。
「……鬼は気難しいのよ。それこそ、天狗よりも」
シオはそう言うけれど――――ヴィンセントは真っ直ぐにその家を見つめ、引き止めるシオに構わず静かに扉に歩み寄る。
不器用な人だと思った。矛盾だらけの言葉と目的を思い出し、恐怖がゆっくりと引っ込んでいく。
きっと分かり合える。どこかでそう、確信出来た。
「また来ます。貴女の人探しのお手伝いをさせてください」
「ちょっとヴィンスちゃん!」
ヴィンセントの声に、鬼は言葉を返さない。けれど魔獣が森に帰って行くのを見れば、気が荒れているわけではなことは分かった。
それにホッと安堵し、ここでやっと、ヴィンセントはいつものとおり、緊張感もなく微笑むことができた。
「今日は帰ろう、シオ。長居は迷惑だろうからね」
来たときよりも穏やかなその笑みに、シオは渋々ながらに頷いた。
これが、帰らずの森の鬼と、ルーズバーグ王国においての有名人である、王都第一区公爵領領主、ヴィンセント・アドルフ・デ・アルフォード・ブラッドリーとの出会いである。