第四話
――何かあれば鳥を飛ばせ。それを見たらすぐ、森の外で待機している私たちが助けに入る。
そう言ったヴィンセントのいやに真剣な顔を思い出して、クリードはクッと堪え笑いをしていた。
昔から変わらない。ヴィンセントは確かに何でもそつなくこなしたが、そんな完璧な裏側、何故か家族――ひいては大切な身内に対しては、過度なほどに心配症なところがあった。
良く言えば、情が深い。そういうところはリチャードに似ているらしい。
「リックも、息子があれじゃあ心配だろうな……」
騙されやすいわけではないが、一度懐に入れた人間にはどこまでも寛容であり、疑いを持たない。裏切られてもきっと、それが裏切りと気付かないのだろう。とはいえ心底馬鹿ではないし、そんなことでは第一区の公爵領領主など勤まるはずもない。
ヴィンセントは「一度懐に入れるまで」が長い人種なのだ。
だからこそある意味厄介ではあるのだが……知らぬ間に「身内」として内側に含まれていたクリードからすれば、そんな性質が逆に「心配」になったりする。
まるでクリードまでもが父親になった気持ちを噛み締めつつ、無造作に生える草を踏んで、一歩一歩と森を歩んだ。
静かな森には、どれだけ見渡してもクリードとは同類の気配はなかった。
魔獣は居るようだが、クリードが数年前に来たときと変わらず、襲いかかってくることもなく身を潜めて様子伺っている。
よって、森に入った者を魔獣が無差別に食い荒らしているということはないと考えられるだろう。そうなれば、帰らずの森と呼ばれる原因は別にあるということなのだが、魔獣でもないのならば本格的にバミューダトライアングルなどの不思議空間と同様のものであるということになるのだろうか。
ある程度森を見回って何もなければ出よう、と、ゆったりと歩いていたクリードは、真剣な表情でそんなことを考えていた。
――――いくらか歩いた頃。
さすがに何の変哲もない森だったために、クリードも「そろそろ帰ろうか」と思い始めた頃合いだった。
そのタイミングで、森の奥にひっそりとたたずむ小さな家を見つけた。
そこは異様な雰囲気を醸しており、人間の気配も、クリードと同類の気配もない。では何がおかしいのかと聞かれれば、ただ「異様」なのだとしか、クリードにも明確には答えることが出来ない。
そしてクリードの鼻をかすめる森には似つかわしくない血の臭いも、その家の異様さを一層引き立てているように思える。
封じの楔が外れている今、クリードの血への欲求も蘇り、その喉がごくりと音を立てた。
間違いない。その香りは、あの家からするのだ。
しかし、クリードはもううら若い吸血鬼ではない。見た目には若くても年齢的にはひいおじいちゃんの年齢である。自制もできるし、家に無作法に踏み込むようなこともしない。ということで儀礼的にその扉を数度叩くと、クリードは返事を待つ。
――が、特に反応もない。
するとどうだろう。先程まで家の中にあった気配が、突然一切消え失せた。そして……。
「だれ」
クリードの背後から、女にしては低めの、落ち着いているともいえる声が響く。当然、背後をとられたクリードは驚きのまま振り返り、その女の姿を見て瞠目した。
ところどころ破れているボロけた簡素な服を身につけたその女は、一見すれば、大きな目とややほりの深い顔立ちをしているためにクリードやヴィンセントのような西洋の人間と同じに思える。しかし、女の腿あたりにまで伸びるその髪は塗りつぶしたように真っ黒であり、瞳はクリードとは違い燃えるような赤の色をしていた。
怪物と呼ばれる者の目は、紫色をしている。それは人間には現れないといわれる色であり、クリードも例外なく紫の瞳をしていた。
しかしこの女は違う。怪物の色と言われる紫ではなく、しかし普通の人間にも現れない赤の瞳をしているのだ。
そして何より、女の前髪の両端の生え際には、十センチ程度の硬質そうな鋭利な角が生えている。二本のうちの一本はどういうわけか先端が欠けており、その姿の異様さを引き立てていた。
「……あんたは?」
「だれ」
感情の宿らないその瞳はただ真っ直ぐにクリードを見つめ、女はつまらなさそうに、いいから答えろと言わんばかりに同じ言葉を繰り返した。
珍しくも、クリードは焦りを感じていた。女が淡々としているからというのもそうだが、何より、先ほどまで大人しくクリードの動向を見守っていた魔獣が、何故か集まってきているのだ。
多くの魔獣が身を潜め、二人を取り囲んでじっくりと観察している。何をするでもなくただ様子を見ているだけではあるが、だからこそ意味の分からないその行動が不気味に思えた。
これまで幾度となく苦難を乗り越えてきたクリードではあるものの――――さすがにこれだけの数の魔獣を相手にして、生きて帰れる保証は無い。
「……俺は吸血鬼。名をクリードという」
「……キュウケツキ……人間?」
じっと何かを確認するその目は、クリードを見つめて動かない。
「いや、モンスターと呼ばれている」
「もんすたー……」
女は小さくつぶやくと、周囲に一瞬視線を流す。
いったい何の合図だったのか。クリードには分からなかったが、女の視線を受けてすぐ、集まっていた魔獣が去ったために、ひとまずホッと安堵の息を吐く。
「……あんた、名前は? 人間か?」
「……名などない。人間でもない」
言いながらゆっくりと足を踏み出した女はクリードを一切見ないまま家に入ると、何の躊躇いもなく、あまりにもあっけなく扉を閉めた。
きっとここは、追いかけるべきなのだろう。だって、知りたいことも、聞くべきことも山ほどある。いや、聞かなければならないこと、と言ってもいい。
分かっている。クリードにだって、それくらいは分かるのだ。
しかしどういうわけなのか。到底深追いする気にもなれず、クリードはすぐにその場を離れた。
結局帰らずの森へ入った者がどうなったのかは分からないが、それでもヴィンセントへの報告には、ここまででも充分な情報が手に入ったと思ってもいいだろう。
森から出てきたクリードを目にして、ヴィンセントは満面の笑みを見せた。それにクリードはらしくもなくふうと体の力が抜けて、自分がいかに緊張していたかを思い知った。