第十三話
――ネル。私の可愛い子。どうかあなたは幸せになって。
エレンは母が殺される光景を、母が動かなくなるまでずっと見つめていた。そしてエレンの母も、最後にエレンに言葉を残して、その赤い瞳から生気を失われてもなお、ずっとエレンを見つめていた。
摘んだ花が、エレンの足元に落ちる。けれどそんなことにも、エレン自身は気づかない。
アルフレッドは母を殺すと、後を追って自害した。長い時を若く美しく過ごす愛する鬼を殺し、誰の手も届かない場所にともに逝ったのだ。
残されたエレンはただ、母を見つめるしかできなかった。
「殺してやる……殺してやる……!」
エレンはそうつぶやきながら、セオドアを殴る。それは片腕がなく本来の力を発揮できていないのか、人間の腕力より少し強い程度であり、セオドアはただつっ立っていた。
「……ああ、そうだ。私だけを見ていてくれ、私のネル」
嬉しそうな瞳をするセオドアは、ただ見守るようにエレンにされるがままになっている。それがエレンには気持ちが悪く、殴る手にもいっそう力がこもる。
エレンが母の死を実感したのは、一人で家を移った時だった。
山奥にある別の家に住み着き、初めて独りになった時、隣に母がいない事に違和感を感じた。そうして死んだのだと思い出し、母の最後の言葉も耳元で蘇る。
――どうかあなたは幸せに。
「ッ……殺してやる!」
「鬼姫!」
言葉とともに、王の間の扉が開かれた。そうして入ってきた男を見ると、セオドアは嫌悪に顔を歪める。
剣を持つその男は服も汚れて破れており、走ってきたためか肩で息をしている。いつもより乱れた髪や身なりだが、間違いなくこの王都から引き離したはずのヴィンセントだった。
さっと剣を置くと、ヴィンセントは膝をついて礼をとる。けれどセオドアは、どうしてこの男がここにいるのかと、わなわなと拳を震わせていた。
「アディ、ここは王の間であるぞ」
「……承知でございます、国王陛下」
「この者を捕らえよ!」
王の間の外に控えているであろう騎士にそう言うが、返事はなかった。セオドアはそれに眉を寄せると、すぐにヴィンセントに視線を戻す。
「何をした」
「僭越ながら、腕試しを。陛下はその昔おっしゃいました。強い男こそが、上に立つべきであるのだと」
「……誠に、どこまでもフレッドに似ている男よ」
震える拳をそのままに、セオドアはヴィンセントの髪を鷲掴みにすると、ぐっと顔を持ち上げて睨みつける。それにヴィンセントは顔を歪めるが、やはり抵抗はしなかった。
「残念であったな、アディ。貴様の家はもうない。公爵邸も怪物も全部なくなったのだ。貴様の持つものはもう何もないぞ。さあどうする。今まで恵まれていた貴様が、全てを失って、」
「そうでございますね、陛下」
かすれる声で言うヴィンセントは、余裕のある笑みを浮かべる。
「しかし私は、運にも恵まれている」
一気に憤怒したセオドアは力のままに腕を振ると、ヴィンセントの身体がその上質な絨毯に投げ出された。
セオドアは恵まれなかった。何物にも選ばれなかった。
激情のままに、倒れた身体を蹴りつける。
「忌々しい! 貴様はフレッドの生き霊だ! 私が愚王であると見せつける!」
何でも持っていたセオドアの弟は、心から兄を慕っていた。
セオドアの後ろをついて歩き、無垢な瞳で兄を見上げる。笑顔を向け、素直に、純粋に、まるでセオドアの内に秘めた醜さを引き立てるように、真っ直ぐに誠実に育った。
だからこそ、許せなかった。
フレデリックがつきまとうから、大人たちは比較する。
鏡のような、弟の存在。次期王だと言われていた、全てに恵まれた男。
その存在が、セオドアには邪魔だった。
「こいつは敵じゃない」
もう何度か、セオドアが蹴るとも踏むとも言えない行為を繰り返した頃。――――ふらりとやってきたエレンが、ヴィンセントをかばうように彼を背に隠す。
小さく呟かれたのは、エレンの耳に残っていた言葉だった。
エレンの登場に少し落ち着いたセオドアは、やがて血が滲むほどに拳を握り締めた。
「ネル……どうした、ネル。人間は嫌いだろう? さあ、消そう。貴女の嫌う人間を」
「鬼……姫」
ヴィンセントはゆっくりと呼吸を繰り返しながら、ぐっと上体を持ち上げる。
身体中が熱い。正直、容赦なく暴行を受けたために、このまま横になっていたい気持ちである。
しかしそんな感情はひた隠し、鼻から血を流して目元も腫らしているヴィンセントは、どこかすがるようにエレンを見つめた。
「私はエレンという。エレン=セシルだ」
「……エレ、ン……」
かすかだが、ヴィンセントにはエレンが微笑んだように見えた。けれども幻だったのかと思わせるほどに一瞬で無表情に戻ると、幾分冷えた表情でセオドアを見上げる。
「どきなさい、ネル。この男は貴女の嫌いな、憎んでいる人間だ」
「……ああ、人間だ。けれど……これは敵じゃない」
――言葉は、届いていたと。
ヴィンセントは、その神秘的な色をした瞳にじわりと涙を浮かばせる。
もう分かち合えないと諦めていた。エレンは人間を嫌い、拒絶して独りで生きていくのではないかと。しかし、ヴィンセントの言葉が届いたのだ。
「……おまえはいつもそうだった……何物にも恵まれ、神にさえ愛されていた」
――次期王はお前だ、フレッド。私ではない。
まだフレデリックが王宮に居た頃、セオドアが一度、弟に弱音を吐いたことがある。
普段はもちろん敵視しているフレデリックにそんなことはしないのだが、両親がフレデリックを王にしようと話していたことを、使用人が噂していたのを聞いたことで、少し心が不安定でつい弱い面を見せてしまったのだ。
けれどそんなセオドアを笑うでもなく、フレデリックはただ冷静に受け止めた。
――兄様、私は兄様が日々どのように努力をなさっているのかを知っております。
フレデリックは少し悲しそうに、まるで消え入りそうな儚い笑顔を浮かばせるが、そのままセオドアを見ることなく足元に視線を落とす。
――戦争が起きないのは兄様の案あってこそだ。暴れ馬のレオンを見事に乗りこなすのも、自らが泥にまみれて地方の経験をし、それを国の未来に生かそうと働きかけるのも。
恵まれていても、それが王の器かと言われれば違う。言外にそう言われ、セオドアはフレデリックの横顔をただ見つめる。
――兄様、私は兄様のように強くなりたい。
「お前になくて私にあるものなぞ何一つない! なのにおまえは奪う! 私から何もかも!」
鬼の異質な輝きを放つ美しさに見惚れた。
いつの間にかセオドアの心の中にはその存在が住み着き、いつかの賢王のように、彼女を手に入れたいと心が掻き立てられた。
東洋の妖怪である鬼という存在が、ルーズバーグには居ないことは明らかであった。しかしセオドアは諦めきれず、どうやって東洋に出向こうかと思いを巡らせていた、一年前。
朗報が舞い込んだのだ。
――地方の山に、東洋の妖怪である「鬼」らしきものが居るそうなのです。
ギルバートのその言葉に、セオドアの直感が、それは曽祖父が残した鬼の娘であると訴えていた。
セオドアが曽祖父の残した鬼の存在を知ったのは、彼が王宮の奥の間でゆっくりと横になっていた頃である。セオドアの曽祖父、アルフレッドは、まだ幼いセオドアが一度だけ会いに行った時に、思い出すように語っていた。
――テッド、私は東洋に愛しい想いを残してきた。私が王でなければ、あの時捕らえられて無理に連れ帰られることもなく、共に未来を歩めたのに。
――娘はエレンと名付けられたようだ。あの人の想いがそこに詰まっていると思うと、年甲斐もなく泣けてきてね。
――まだテッドには分からんだろう。今はそれで良い、いつか理解できる時が来る。テッド。後悔しない生を歩め。私のようには生きてはならぬ。
かつての賢王は、そう言った数日語、王宮から姿を消した。
「さすがリックの息子だ、ここまで騎士が全て泡を吹いていたぞ」
騒ぎを聞きつけてやってきた騎士や兵をもいなして来たのだろうその男は、しかし感嘆したようにヴィンセントに微笑んだ。
茶の髪と深緑の瞳をした、一見すれば落ち着いているようにも見える彼は、実は粗暴で武に長けており、王宮勤めの騎士の間でも有名な存在だである。
「ウィル! どうして、」
「ウィリアム。ここがどこか理解しておるのか!」
ヴィンセントとセオドアからかけられた言葉に、王都第四区公爵領領主であるウィリアム=オルブライト・オーブリーは不敵な笑みを返すと、ヴィンセントをかばうようにしてそこにいるエレンの姿に一度こくりと頷いた。
「なるほど、こりゃ綺麗な鬼だ。惑わされるのもわからんでもない」
「アディ、ウィリアム。お前たちには失望した。爵位剥奪は免れぬぞ」
「――では、国王陛下。私たちの失望も聞き届けていただきましょう」
言いながらウィリアムの後ろから入ってきたのは、王都第二区公爵領領主、ヴァレンタイン=アッシュフォードだ。それにヴィンセントは目を丸くしていたのだが、その後に入ってきた二人に、さらに目を丸くすることになる。
「……リック……フレッド……」
呟いたのは、セオドアであった。




