第十二話
エレン=セシルはまぶたを揺らしながら、ゆっくりと目を開けた。
上質な布と柔らかな感触を頬に感じ、自分がベッドに寝かされているのだと気づく。すぐに視線を巡らせて部屋を見渡せば、自分が今寝かされている場所が見覚えのない部屋であることまでが分かった。
そうして警戒しながらも起き上がり、無駄に煌びやかなその部屋をよく確認しようと目を細めると、思ったよりも広い一室だったらしく、奥行きが広いのが見えた。それはあの森の家しか知らない彼女にとって、まったくの未知とも言える広さである。
「やあ、ネル。起きたんだね」
睨みつけるような目で振り向けば、落ち着いた雰囲気で微笑むセオドアの姿があった。それを確認してエレンがさらに眼光を強めると、セオドアの笑みが苦笑に変わる。
「多少手荒に連れてきたことは謝るよ……だけどどうしても、貴女を私だけのモノにしたかった」
熱のこもった瞳に、エレンは拳を握り締める。
その首には「封じの楔」が嵌められているものの、それでも腕力には自身のあるエレンは、今になってやっと右腕を切り離したことを後悔した。
両腕が揃っていれば、勝算は確実だった。片腕の、それも利き腕がないだけでこんなにも力が落ちる、と。
そんなエレンを見て何を思ったのか。セオドアが、エレンの座っているベッドにゆったりと腰掛けた。
「キミは本当にあの人にそっくりだ。五代目国王……アルフレッド王が愛した鬼に」
「……子孫か」
「ああ、声も美しい。……そうだよ、アルフレッドは私の曽祖父にあたる」
それを聞いて、エレンの殺気が大きなものへと変わった。
――――東洋の北の山には、悲しい恋の話が受け継がれている。
しかしながら「悲しい」というのは鬼以外の妖怪が見た時の感想であり、鬼からすれば恥でありできれば門外不出にしておきたい話である。
美しい女の鬼がいた。
美しく、気高く、凛としていて、出張らず、歩けば他の妖怪も振り向いてしまうほどの美鬼である。
そんな彼女がある日、人間に恋をしたのだ。
人間は鬼の敵である。鬼を見て怯え、殺されると勝手に妄想し、あまつさえ敵意のない鬼に刃を向ける。そのため、彼女が人間に恋をしたということを聞いた鬼の村の者たちは当然皆が反対し、彼女を閉じ込めた。
けれど彼女は無理やりに抜け出し、人間と逢瀬を重ねる。
何度閉じ込めても抜け出す彼女にしだいに周囲は距離を置くようになり、誰もが彼女に拒絶を示した。そうして彼女の腹に子が宿った時、彼女はとうとう村を飛び出した。
「私はあの人と行きます」
そう言葉を残したが、すでに止める者もおらず、彼女は何の枷もなく村を出る。
私の国に共に来て欲しい。そう言った人間の言葉を信じて待ち合わせの場所に来た鬼は、はやる気持ちを持て余してそこで待っていた。
――――けれど、人間は来なかった。
それでも彼女は諦めず、雨の中も嵐の中も待ち続けた。しかし結局人間は現れないまま、子どもが産まれる。彼女は愛しい男との子を見つめ、幸せそうに微笑んだ。
「あなたは私とあの人の光。せっかくだからあの人の国の名前で、エレンとしましょうか」
エレンが物心つく頃。
彼女からはすでに美しさは失われ、ただ憎しみを紡ぐ毎日を過ごしていた。
結局、人間は現れなかった。希望を持てた時期もとうに過ぎ、気がつけば彼女の中には絶望しか残されていない。それでも仲間ではなく人間を選んだ彼女は、鬼の村にも戻れなかった。
鬼の村から離れた山の一角。そこに、鬼の親子は暮らしていた。
「いい? ネル。絶対に人間は信じてはいけない。私とアルのようになるだけよ。愛なんてくだらないわ。ああ、出会わなければよかった」
口癖のように紡いでは、毎日毎日男への憎しみを募らせる。震える唇からはか弱く、けれども確実に強い憎しみの念を吐き出した。
エレンには彼女が何を言っているのか、最初は分からなかった。けれど成長するにつれ、彼女の言っていることを理解して言葉のピースを繋いで過去を考えれば、エレンにもその父なる男が憎く思えるのは仕方がなかったのかもしれない。
エレンの顔を見たくないという彼女は、しかしエレンを愛しく思い、その心の歪みから心を壊していった。
しかしエレンたちはただ生き続け、やがて数十年の時を経て、エレンも母を支えようと思える心を持ち始めた。
最初からやり直そう、そうすれば母ももう一度笑える日がくるかもしれない。そう考えて、エレンはその日、母の好きだと言っていた花を詰みに家を出た。受け取ってもらえなくても、何か心に届けばいいなと。そういうところはエレンが半分人間だからなのか、妙に人間臭い感情を無意識に持っていた。
しかしその日より、母にもう一度笑顔を、という願いは、儚くも消え去ることになる。
「ああ、私の鬼姫――貴女は変わらず美しい」
王位継承を済ませ、年老いた姿で、アルフレッド・バジル=セシル・オレンジが再び現れたのだ。
「我が曽祖父、アルフレッド王の時代、貧困に追いやられていたルーズバーグ王国は、奇跡的にも建て直した。……鬼姫の加護があってこそだ」
エレンに伸ばされたセオドアの手は、彼女の左手によって乱暴に払われる。
「おまえを探していた」
「そうか、ネルも私を求めていてくれたんだね」
「ふざけるな」
エレンは首に嵌められたそれを外そうと手をかけるが、やはり外れることはない。腕一本ではやりにくさもあって、自らの首に爪が立つ。
「ああ、いけない。ネル……きみの美しい肌が傷ついてしまったよ」
「触れるな、近寄るな」
「……どうして、ネル。私を探していたんだろう?」
「ああ、私は父を探していた。父の血を継ぐ者を……殺すために」
ぎらりと鬼の目が光る。
それにセオドアは怯えることなく、むしろうっとりとした表情を見せた。
ギルバートは最初から分かっていた。
『――国の栄華のために、曽祖父のように、私も鬼を手に入れよう』
国のためと言いながら、本当は鬼を欲していたこと。第五代国王陛下のアルフレッドの時代、彼が残した鬼姫の絵姿を見たときから、彼女に魅入られ、囚われていること。
けれどいつもの一時的な感情だろうと、ギルバートはその時、安易に判断を下してずっと放置していた。
それが、仇となった。
「あーあ。俺もうリックに合わせる顔ねえわ」
崩れていく公爵邸を見つめて、アレキサンダーがまるで他人事のようにぼんやりとつぶやく。
「……何故、加担した……あなたにとってアルフォード公爵家は家族のようなものだったはずだ。アルフォード卿とは古くからの友人だったんだろう」
「何故、ね。そこは陛下に聞いてねえのな、ギル。……まあ、なんつーか、妻であるトレイシーを愛してるのは嘘じゃないんだけどさ。初恋の相手って、どうあっても大事なんだわ」
「……初恋?」
「リックの嫁さんだよ。俺の幼馴染みでなぁ……シンディは昔っから身体が弱かった。だから、ヴィンスに爵位継承させて、リックを南の伯爵領に移してもらったんだ。もちろん……陛下のお言葉で」
ヴィンセントが公爵家を継いだのは、彼がまだ十九の頃。
「……一年前……このルーズバーグに、鬼が来たときから……?」
すべてが、仕組まれていたのだろうか。
ギルバートは知っていた。
セオドアがヴィンセントに『帰らずの森の調査と原因の排除』という命を下した時、鬼が住んでいると知っているセオドアは、あわよくばその鬼にヴィンセントを消させようとしていたのだ。
しかし理由は明らかではない。憶測で言うならば、アルフォード公爵家の嫡男であるヴィンセント・アドルフ・デ・アルフォード・ブラッドリーは、神に愛された才能と容姿を持っていたために、セオドアがかつての劣等感を思い出したからかもしれない。
――セオドアには、よくできた弟の、フレデリックという存在が居た。
何でもできるフレデリックと、何もできないセオドア。両親の愛はフレデリックに注がれ、セオドアは見向きもされなくなった。
それを、幼い頃より大臣であった父について王宮に来ていたギルバートは知っていた。
――フレッドが邪魔だ。あいつがぼくの邪魔ばかりするんだ。
当時口癖のように言っていたセオドアは結局、弟の地位を奪い、王宮から、王都からも追い出した。それは汚い手段であり、信頼されていたフレデリックが「やっていない」と言っても信じてもらえないほどのことをして、自分だと気づかれないよう、根を張り、準備をし、回りくどく、用意周到に。
――きっとセオドアは、ヴィンセントが邪魔だった。
鬼を手に入れた未来に、何かと目立つ輝かしい彼の存在は、セオドアにとって危惧すべき存在だったのだろう。王宮によく出向くヴィンセントが鬼と出会ったとき、鬼を取られるかもしれない。そんなのは耐えられないと。
帰らずの森に「魔獣駆除」ということで騎士を向かわせたのはセオドアだ。そしてそれが殺されているのを何度か確認して、ヴィンセントも同じようにされるだろうと確信すると、怪物を保護しているヴィンセントに、その名目で森へ向かわせ鬼に早々に殺させようとした。
――ギルバートは知っていた。
そうやって手を打ちながらも、セオドアの心中が揺らいでいることにも、気づいていた。
「カルヴァート公爵……あなたは被害者だ。脅され、悪事を強要された」
「……いいや、陛下には感謝してる。おかげでシンディは出かけられるまでになったらしい。あのままここに居れば、そうはいかなかった。……悪い、ギル。俺の身勝手でお前を道連れにすることになる。……本当にすまない」
「……それならば、そこで寝たふりをしてるベアトリス嬢とテイラー卿にも言ってやってくれ」
ゴシャ、と火が燃え移り、柱が倒れる。けれどそれに動揺することもなく、身を低くして、ギルバートは視線を隣に移した。
「駄目ですよ、宰相閣下。気づかないふりも大人のマナー」
「ええ、まったくです。寝たふりをしている人間にも、寝たふりをする理由があるんですから」
悪びれもなく目を開けた二人は、いつの間に外したのか、口に噛ませていた布がない。そしてその口元に嫌な笑みを浮かべると、ベアトリスは縛っていた紐をまるでマジックのようにパラリと解き、両手をぐっと握り締めた。
その目には、少し楽しそうな色も交えて。




