第十話
――――私はあなたの敵じゃない。
その言葉が、なんとなく鬼の耳に残っている。
ヴィンセントは「視察に行くからしばらくこれない」という宣言通り、あの日以来森に訪れることはなかった。
しかしどうということはない。彼が訪れる前までの、ひとりぼっちの時間が戻ってきただけである。
平穏で静かな森の家で、鬼は一人、目を閉じた。
鬼の母は、鬼の目の前で殺された。
最後に母は笑っていた。そして父も、笑っていた。その光景は異様とも思え、けれど鬼は怯えることもなく、やけに幸せそうな二人をただ見つめていた。
――許さない……貴女が一人、生きることは。
そう延々とつぶやき、父は母の心臓を潰す。鬼は痛覚などがあまり発達していない。そのため、腕を切られようがもがれようが死ぬこともなく、心臓を潰されない限りは生き続ける。
けれど、その母の永遠の命も、父の手の内であっさりと終わった。
母は父を憎んでいた。約束を守らなかった父を、母を捨てた父を、愛するがゆえに憎んでいた。そして父は、国に帰り別の女性を隣に置いてもなお母を求め、愛するがゆえに母を殺した。
――これで、私だけの貴女だ。
あの狂気に満ちた笑みを、鬼は忘れることはないだろう。
鬼に魅入られ、惑わされて狂った、男の狂愛の果ての姿だ。
ふと、気がつけば、扉の前に人の気配を感じる。
鬼は目を開けると視線を移し、その気配に集中した。
人間の気配だ。一瞬ヴィンセントかと頭を過ぎるが、ヴィンセントならばすぐに扉をノックし、嬉々として何かを語りはじめるか、すぐにでも鬼に治療をしたいと叫ぶのだろう。そう考えればヴィンセントであるという可能性もなくなる。
ならばここに来る人間で、山賊でもヴィンセントでもない者といえばエクソシストの女になるが……あの人間も肩を抉られて重症のはずだ。すぐに再戦を挑むこともないと思える。
ならばすぐに襲ってこない人間がお行儀よく訪れるなど、ヴィンセント以外では――、
「ネル、居るかい」
静かに、その声が響く。鬼は早まっていく鼓動を感じつつ、ゆっくりとその双眸を見開いた。
「――その話、本当なの?」
ベアトリスは眉を寄せると、シオに訝しげに問う。するとシオは神妙そうな顔で頷いて、人のことだからあまり言わない方がいいと思って黙っていた、と続けた。
「まさかシオが守っていた山に住んでいた白鬼が、帰らずの森の鬼とはね……」
「私も驚いたよ。引っ越してきた鬼の親子は山奥から一切出てこなくてほんっと引きこもりで……だから不審に思ってきちんと調べたのよ。正直半信半疑だったんだけど、あの反応は間違いない。私がその話をしたとき、鬼は殺気立った」
――悲しい悲しい恋の話。それは、シオが調べるとすぐに判明した。
「……だから『教会の守護』に触れてもあの程度で済んだってわけね……」
「おう、お前ら。客が来てるぜ。女中がヴィンセントは居ないって説得してんだけどよ、どーも引かねえらしいんだ」
クリードはその整えられていない銀の髪をバリバリと乱暴に掻き回すと、もう片方の手で玄関を指す。
シオとベアトリスは視線を合わせて首を傾げた。ハロルドが書斎にこもっているのを見ると、アポイントなしの来客のようだ。
「どんな人?」
「えーっと……なんか、ギルバート、とか言ってた気がする」
その名前に反応を示したのはベアトリスだ。他には何も聞くこともなく、一目散に玄関に駆け出した。




