リィーンとクレイス
リィーンは戸惑っていた。目の前に現れたとてもきれいな銀髪に青い目と整った顔立ちを持つ位の高そうな男を見て、一瞬胸の奥が疼くように痛んだのだ。そして同時に、どうしてかその姿を見て何処か嬉しさを感じた。そんな自分の感情が、リィーンには解らなかった。
彼女が何も覚えていない状態で目を覚ましたのは、半年ほど前の事だった。鼻に着く薬草の匂いと、痛んで思うように動かない身体に、混乱していたのだが、すぐに視界に入ってきた男に優しく語りかけられ、少し落ち付くことが出来た。
「大丈夫かい?」
「……あの、私は……」
何故ここに居るのか、と聞こうとすると、男が察したように微笑んで口を開いた。
「驚いたよ。森の中に居たら何かが落ちてくる音がして。慌てて寄ってみたら、その何かは君だったんだ。一体、何があったの?」
「……え、えと、」
何があったの、と聞かれても答える術はなかった。なにせ、思い出そうとすると白い靄の様なものがかかって、それを阻もうとしてくるのだ。
男は、急に聞かれても困るよね、と言いながら新しい話題を振ってくる。
「そういえば、どうしてこんな所に?あの男の人の事は解決した?」
「あの男の人……?」
首を傾げている彼女を見て、男は訝しげな視線を向けてくる。それから、彼の頭の中に浮かんだ考えを確かめるように尋ねてきた。
「君は、僕が誰だかわかるかい?」
「……お知り合いの方でしたか?」
その答えを聞いて男は驚いた顔をしたが、それは一瞬の事ですぐに優しい笑みになった。
「僕はアレン。……君は、リィーンというんだ」
リィーンは目の前でどこか苦しそうに顔を歪めている男に語りかける。
「……ええと、クレイス様、どこかお怪我でもなされたのですか?」
そう言ってクレイスに近づき、彼の様子を伺いながら握りしめられていたその手を掴んだ。それから、優しくその手を開く。
「あまり強い力で握ると、かえってご自分を傷つけてしまいますよ」
「……レイア」
その優しい手つきに、クレイスは先程までの表情を緩めた。それから、その触れられている手とは反対の手でリィーンの頬に触れようとしてきた。それに彼女は驚いて身を固めると、その手はピタリと止まり行き場が無くなってしまう。
リィーンはそのままクレイスの表情を伺った。すると、彼はリィーンを眉を寄せながら再び苦しげなものに戻ってしまった。
ーーーこの人にこんな顔をさせているのは、私なのか。
それが解ると、自分まで苦しくなった。
この人は半年前までの自分の事を知って居る人なのだ。親しい人であればあるほど、リィーンの記憶が無いことでその人に悲しい思いをさせてしまうのは解っていた。
……けれど、リィーンは思い出せないのだ。
今まで思い出そうと何度も努力した。けれど、深く考えるたびに酷い頭痛が襲う。そして結局白い靄がかかったまま終わってしまうのだ。
「リィーン。君はこのあとおばさまに呼ばれていたのではないかい?」
アレンが二人の間に流れている空気を断ち切るようにそう告げると、リィーンははっとしてクレイスの手を放した。
「そうでした。……ごめんなさいクレイス様、私はこれで失礼いたします」
「あ……」
クレイスが呼び止めようとする前に彼女は身を翻して急ぐように行ってしまった。
取り残された男たちはその背が見えなくなると、お互いに顔を見合った。特にアレンとクレイスは、まるでお互いを睨みつけるように視線を向けている。そんな二人の空気に怯えたのか、村人の男はそっとその場を離れた。
その気配が消えたのを皮切りに、アレンは先程までリィーンに向けられていたものとは異なる鋭い声色で告げた。
「ご自分の妻の事なのに、随分と見つけるのに時間がかかりましたね、マクイルオス侯爵様」
「……俺の事を知っていたのか」
クレイスはアレンの嫌味を受け流しながらそう答える。これでもクレイスは出来うる限り自分の足で国内を探し回っていたのだ。
「ええ。その容姿とお名前ですぐに解りましたよ。こんな田舎にも貴族の方々のお噂は流れてくるものです」
「ならば、レイアの事も解っていたのだな」
クレイスがそう尋ねると、アレンは頷いた。
「先程言いましたが、噂はここでも流れてくるのです。もちろん、あなたが妻を蔑ろにしていたことも」
その嫌味に、クレイスは舌打ちをした。しかし、自分のしでかしたことは解っているので、クレイスはその苛立ちを抑えて、冷静になろうと努める。
「確かに俺は彼女を蔑ろにしていたし、辛い思いをさせた。だが、」
そのままアレンを睨むように見据えて、告げた。
「俺は、レイアが愛しい。……絶対に手放したくはない」
だから、お前から奪ってでも連れて行く。
口には出していないクレイスのその思いまでも察したのか、アレンは眼を細めた。それから、リィーンには見せない不敵な笑みを浮かべる。その様子を見て一瞬怯むが、それをおくびにもださずにクレイスはアレンに背を向けた。
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「俺は、貴女の夫だ。だから共にいても問題はないだろう」
次の日からアレンが村の外で出かけ、リィーンが村の中で行動をする度にクレイスはそう言って後をついて回って彼女を手伝った。それにリィーンは困った顔をするが、どうしてか無下にできなかったので、渋々ついてくることを承諾したのだった。
幾日か経った時、クレイス本来の仕事はどうしているのか、と尋ねると、貴女は気にしなくていい、と言うだけで、やはり彼女の傍を離れようとしなかった。
本来ならば鬱陶しいと思うだろうが、リィーンはどうしてもそんな風に思えなかった。強引についてきているが、本来ならば妻である自分を無理に連れ帰すようなことはしない。ただ傍に居るだけで、触れようとはしてこない。リィーンの意思を尊重しようとしてくれているのが解るので、彼女はその態度に戸惑う他なかった。
ある日の事だ。アレンが出かけ、最近そばに居るクレイスがまだ来ていなかったが、いつものようにリィーンが畑仕事をしていると、村に住んでいる娘がリィーンの姿を見つけて、嬉しそうに声をかけてきた。
「リィーン!」
「あら?どうしたの、何か嬉しいことでもあった?」
そう尋ねると、その娘はうふふ、とほほ笑んだ。それから、まだあまり人には言っていないのだけど、と前置きをして、秘密を話すようにリィーンの耳元で告げた。
「私ね、子供が出来たの」
その言葉を聞いた瞬間、リィーンの頭は酷く痛んだ。だけど、嬉しい報告をしてくれたのだから、と娘には微笑んでおめでとう、と告げる。そうして軽く世間話をした後離れて行った彼女の姿が完全に見えなくなると、リィーンは痛む頭を押さえながらその場に蹲った。
ーーー……との、子供が出来たの。
金髪と青い目を持つ美しい女性が、そう告げる場面がリィーンの頭を過った。すると、リィーンの頭はさらに痛みを増し、加えて胸の奥がズキリと痛む。同時に、悲しいという感情がリィーンを襲った。
「レイア!」
蹲っていたリィーンを見つけて、クレイスがすぐさま彼女の傍に駆け寄ってきた。その姿を視界に入れると、さらにその悲しみが増した。
うめき声を上げながら苦しそうに蹲っている彼女を見て、クレイスはそれまで触れることを躊躇っていたことを忘れて、彼女を抱きしめるように包み込んだ。その温もりをリィーンが感じた瞬間だった。
過去の自分が、2年間彼の家で過ごしていた記憶が一気にリィーンの中を駆け巡ったのだ。
ガンガンと痛む頭を押さえながら、リィーンは自分を包み込んでいる男の胸を押す。
「レイア……」
その行動に一瞬傷ついたような表情を見せたクレイスだが、それでもリィーンを抱きしめようとする。その行動にリィーンは顔を歪めながら彼を拒絶するように自分の身体を離す。そして、クレイスの瞳を見つめながら告げた。
「ダラムアト伯爵夫人とのお子様はどうされたのです」
そう告げた彼女の瞳は、悲しみとクレイスへの諦め、そして拒絶の色を含んだ……レイアの瞳だった。