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9/12

目の前の

 ――ふと気が付くと、八弥は懐かしい空気の中にいた。


 小さな子供が走り回れる程度には大きい、木造の建物。こげ茶色の木が床、壁、天井といたるところに張られ、日の光が当たるような場所は色あせ独特の色合いを呈している。

 木の匂いと、窓から吹き込んでくる風の薫りは、屋内にいることを忘れさせない程度に開放感に満ち溢れている。

 はっきりと覚えている。子どもの時から何度となく見た、自分の生まれ育った家の道場だ。八弥は懐かしい光景に目を細めながら、それからふと、引っかかりを覚えた。

 何故、ここにいるのだろうか。

 ふと気付いてみれば、自分は白い道着に身を包み、手にはしっかりと木製の薙刀を握りしめている。

 そして、目の前には、同じように白い道着に身を包んだ大柄な男が、同じように薙刀を構えている。


 ――さァ、八弥。見してみぃ。


 男は低い声で、八弥にそう告げた。その言葉をきっかけに、八弥は薙刀を構え、意識を集中させる。

 何度となく練習した型と、毎日の鍛錬で積み重ねた動き。

 自分の持てる全てを使って、男に向かって薙刀を振るう。

 斜め下から切り上げた刃を男が受け止め、返す刀でこちらに突きを繰り出す。八弥は身体を捻ってそれを避け、回転力をそのままに力いっぱい横に刃を薙ぐ。

 とんでもない速さで繰り広げられるひとつひとつの動きを、八弥はぜんぶ、覚えていた。

 指先の力加減から、呼吸のひとつひとつまで。だから八弥には分かる。

 次の斜め下からの切り上げを避け、相手の左腕を叩く。

 ぐおッ、と鈍い声を上げて、男は薙刀を取り落とした。

 それからしばらくは信じられない、というような顔をして、それからガハハ、と豪快に笑った。


 ――参った! こりゃ一本とられたけんのう。


 男は皮の厚い掌で、八弥の頭を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でた。


 ――いやァ、強うなったのう。

 ――流石は、おいの娘じゃ! 八弥、お前はおいの宝じゃ!


 八弥はその言葉が嬉しくて、目を閉じて笑っていた。

 男は戦争に駆り出され、女は家を守るのがあたりまえの時代に、大事なひとり娘だからと武道を教えてくれた。

 大きな掌も、しわがれた大きな声も、八弥にとってはひとつひとつ、大切な思い出だ。

 初めて父から一本を取った、11歳の夏。


  ○


 ゆっくりと、八弥は目を開き――


「ん……」

 目の前に広がっていたのは、畳敷きの小さな居間だった。

 先ほどまで自分が見ていた場所とはずいぶん広さが違ったので、八弥はなかなか遠近感を取り戻すことが出来なかったが、意識の覚醒と同時に自分が壁に寄り掛かっている事に気が付いた。

「夢、か……」

 クリスと出会ってからのいきさつを思い返しながら、八弥はつぶやいた。どうやら眠ってしまっていたらしい。

 途端に恥ずかしいような気持ちになる。八弥は俯いて、自分の傍らに黒い鞄と、薙刀を見つけた。

「…………」

 薙刀を握りしめる。

 昔のころの夢を見たのは、随分と久しぶりだ。自分ひとりで山に住むようになってからは、そもそも夢を見ることも少なくなり、見たとしても悪い夢ばかりだった。飛行機のエンジン音と、けたたましい爆音や悲鳴を聞きながら眠るので、悪い夢も自然と増えてくる。

 あの頃はよかった。

 戦争だ、富国強兵だと騒いでいても、自分に直接降りかかる不便は全くなかった。いつも通りに薙刀の練習さえ出来ていれば、ちょっと食べるものが少なくても平気でいられた。

 空襲がぜんぶ、持っていった。家も、日常も、大切な家族も。それでもこうして、薙刀だけは残っている。八弥は正直、これまで無くせば、生きていく自信すら無くしてしまいそうだ。

「……いけない」

 かぶりを振って、深呼吸をひとつ。

 今は、もうひとつだけ、よりどころがある。八弥は少しだけ、足に力が入った。

 立ち上がって背伸びをすると、そこで違和感に気付く。

「あれ……クリスさん?」

 彼の姿が見えない。眠っている間に、どこかへ行ってしまったのだろうか。

 奥の小さな台所や、裏口ものぞいてみたが、影も見えない。自分が眠っている間に、どこかへ行ってしまったのだろうか。

 八弥はひとり残された部屋の中で、玄関に鍵がかかっていないことに気がついてから、

「不用心なんだなぁ」

 と、妙に的外れなことを思っていた。

 クリスは目が見えないので、ひとりで鍵を閉められないということに気付いたのは、それから数秒たってのことだった。

 

 外の空気を吸ってみようと外に出ると、白い霧が赤く染まっていることに八弥は気がついた。

 白い時計台が橙色に塗り替えられ、重い影を落としている。ぼやけた空には、真っ赤な太陽が輝いていた。

「もう、夕方かぁ」

 ついさっきまでは早朝の町を歩いていただけだと思えば、今度は夕暮れ。どうやら自分は結構な時間、眠りこけてしまっていたらしい。時間の感覚があやふやになっているようでも、立ち込める霧のひんやりとした感覚が八弥を自然と落ち着かせていた。

 凛とそびえ立つ時計台は、前に見たときより少し背が高い気がして、八弥はてっぺんを見上げながら目を細めた。気のせいではなく本当に高くなっているのなら、やはりこれはおかしなことだ。

 建物は、ひとりで勝手に高くなったりしない。思わずついた溜息は文字通り霧散して、少しだけ無人の町に響いた。

 相変わらず、町には自分以外には誰もいないらしい。やっと出会ったクリスも、今はここにはいない。

 同じひとりでも、山にいるのと建物に囲まれるのとでは大違いだ。八弥は急にうら寂しい気分になって、家の中から薙刀を持ち出した。

 思い返せば、今日も素振りをしていない。八弥は気分をすっきりさせる意味でも、毎日の習慣を消化することにした。


 あんな夢を見たせいか、素振りにも熱が入る。

 日が傾き、あたりが暗くなるにつれて、一筋一筋鋭くなっていくようだ。八弥は切っ先以外の何も目にしないつもりで、一心不乱に薙刀を振るい続けた。

 目の前の仮想敵は――自分の最大の理解者であり、強敵でもあった、父の姿。大柄で力のこもった彼の切っ先は、いつだって自分より鋭くて、精緻だった。

 すっかり彼の動きは、頭に入っている。だから、八弥は真っ直ぐに視線を向け続けた。

 父が動きを止め、構えに入ると、八弥も同じように構えに入る。武道ではこうなった時、大体先に動いた方が負ける。

 息を整えながら、間合いを慎重に見極める。

 父はこういう時、決して隙を見せなかった。だから大体、自分からちょっと動いて隙を作るところから始まる。これも少し気が緩めば、逆に自分が隙を作ることになるため、なかなかに難儀する。

 それでも、成長というのは怖いものだ。

 来る日も来る日も素振りを欠かさなかった自分なら、仮想敵とはいえ、父から一本を取れる。

 斜め下から来る切り上げを避け、突きをかわし、その腕に一撃を叩きこむ。

「やった……っ」

 はぁ、はぁ、と乱れる息を整えて、八弥は額の汗をぬぐう。

 まだ、勝てる。自分はまだ、やれる。そう確信できるような気分でいたが、ちゃんと手ごたえが返ってこないのは少しだけ寂しかった。

 もう、父と手を合わせることは出来ない。

 見上げると、日はすっかり暮れてしまい、真っ暗な夜空が八弥にのしかかっていた。


  ○


 八弥は家の中に戻ってしばらく待っていたが、クリスは中々帰ってこない。

 人間というのは勝手なもので、その場に本人がいないとどうとでも邪推することが出来るのだった。八弥はもんもんと部屋の角でうずくまりながら、彼の帰りを待っていた。

 天井からつりさげられた古い電灯が、頼りなく部屋を照らしている。

 夜だから暗くて道に迷っているのだろうか、八弥はそう考えてすぐに否定した。やはり彼は目が見えないから、外の光は関係ないはずなのだ。

 八弥はしきりに立ち上がっては座ったり、軽く身体を動かしたりしてみたが、どうにもそわそわと落ち着かない。

「どうしたんだろ……」

 外に様子を見に行こうか、とも考えたが、入れ違いになった時の事を考えるとなかなか踏ん切りがつかない。八弥は大人しく、待ち続けることに決めた。

 小さくうずくまり、無言で玄関を見つめ続ける。

「はぁ……」

 小さな溜息まで、よく響く。やまびこの様に、どこからともなく自分の耳に戻ってくるようにさえ感ぜられた。

 八弥はふと、小さい頃、家でひとり留守番を任された時の事を思い出した。

 辺りは真っ暗で、頼るものが何もない。ただただ布団にくるまって、それでも言いつけ通りに玄関からは目を離さずにじっと帰りを待ち続けていた。

 今も、大して変わらない。ひとりに慣れて何一つ恐怖が無いのが、変わったことだろうか。

 暗い場所にいるのは当たり前になってしまったし、いざ泥棒だなんだとなっても、薙刀を使えば自衛くらいはできる。

 ただ、余裕が生まれるのは罪でもあるという事が、八弥には分かっていなかった。いかんせん、することが無い。要するに暇なのである。

 クリスの部屋は見回しても、必要最低限の家具しか置いていなかった。本も無ければ、花札もない。あるとすれば、壁にかかっているいくつものギターである。

 八弥は試しに手にとって、クリスのまねをするように弦を指で弾いてみた。びん、と妙な音が響き、八弥はおかしくなって首をかしげた。二、三度そうして弦を弾いてみて、それをそっと元に戻した。

 壊したらいけない。これはクリスにとって大切なものだ。


 八弥は待ち続けた。無音の空間に取り残され続けることが、これほどつらいとは。

 手持無沙汰になって、薙刀を手で持ち上げてなんとなく弄んでいると、

「あ」

 八弥の目に飛び込んできたのは、山から後生大事に抱えてきた黒い鞄だった。

 畳の上にあるせいか、妙な存在感を放っている。

「…………」


 ――なにがはいってるの?


 唐突に頭の中に響いてきたのは、ゆりの声だった。

 無邪気に、ただ疑問を投げかける言葉。

 八弥はその時こそ気にも留めていなかったが、言われてみれば鞄の中身について考えた事はあまり無かった。

 そして、こんな時だからこそ。

 何もやることが無い今だからこそ――これは、人間の知的好奇心をくすぐる、魔法の箱に変わる。


 ――あけてみようよ!

 ――だめだよ、人のものなんだから……。


「…………っ」

 こく、と唾を飲み込む。

 薙刀を傍らに置き、手を鞄に伸ばして、思いとどまるように引っ込めてまた伸ばして。まるで蜻蛉でも捕まえようとしているような動きだが、八弥は自分の誘惑と必死に戦っているのだった。

 開けても、いいのだろうか。

 どうせ周りには、誰もいない。誰も見ていないのだし、そっと元に戻しておけば……。


 ――あけてみようよ!


 ゆりの声が、ダメ押しの様に脳裏に響く。

「……楠木さん……」

 薙刀で心身を極めた少女の心は、いともたやすく好奇心という相手に負けてしまったのだ。

「ごめんなさい……壊したり、しませんから」

 八弥は意味も無く鞄に向かって頭を下げる。

 それから、そっと、そっと鞄に手を伸ばして――


 ぱちん、と金具を外し――――

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