風のおと
八弥はクリスの隣を歩きながら、彼の話を聞いていた。
「僕は、ロンドンから来まシタ。先生は、僕に言葉を教えてくれた人デス」
八弥はふむ、と頷くことしかできない。
ろんどん、という町の名前は聞いたことが無い。恐らくは外国にある町なのだろう、しかし八弥には外国に対する知識は全くなかった。
かつ、かつ、と足元から響く音は、クリスが手に持った金属のステッキが地面を叩く音だ。彼は常にこうして足元を探るように歩いていた。
ああ、彼は目が見えないのか、八弥がそれに気付くのに、だから時間はかからなかった。
「ヤヤさんは、誰を探しているんデスか?」
青い目は光が見えないだろうに、ひどく澄んでいるから不思議だった。それをしっかりと八弥に向けて、微笑みながらクリスは尋ねた。
「楠木さん、という人を探してます……」
「クスノキ、サン……デスか」
「心当たり、ないですか?」
「……ゴメンナサイ」
それだけ言って、申し訳なさそうにクリスは俯いた。
「……、」
八弥は、不思議な人だと思った。本当は目が見えているんじゃないか、と思ってしまうほど。
「不思議、デスか?」
「えっ!?」
あわてて口を紡ぐ。クリスはハハ、と笑って、それからステッキを持っていない方の手で、自分の耳を指さした。
「音で分かりマス」
「音……?」
「僕は、生まれた時からずっと、目が見えなかったんデス」
かつ、と音が響く。
「ダカラ、ずっと耳だけを頼りにして、生きてきまシタ。八弥さんがどんな気持ちデ、どんな事を思っているのカ、ちょっとした仕草の『音』が、僕の耳には聞こえていマス」
これもそうデス、とステッキを打ち鳴らし、
「モチロン、足元を確かめる為デモありマスが……周りから聞こえる『音』を聞けば、どこにどんなモノがあるのカも分かりマス」
「へぇ」
八弥は素直な声をあげた。
「すごい、ですね」
「そうでもないデス。エト……快適じゃないコトも、少なくありマセン」
寂しそうに、クリスは笑った。道は曲がり角になっていたが、器用に、ゆっくりと曲がった。
「……先生は前に、時計台の話をしていマシタ」
「時計台?」
目の前にそびえる、白い塔を見ながら八弥は呟いた。
「いま、目の前にありますよ」
「本当デスか?」
かつ、という音がやんだ。見れば青年は寂しそうに、見えない瞳で塔を見上げていた。
「キレイ、なんでしょうカ」
「きれいです」
「僕には見えまセン。ヤヤさんには見えているのに……こういうことがあると、僕は」
またステッキを鳴らしながら、
「ちょっと、寂しいデス」
かつかつ、と歩き出した。
八弥は鞄と薙刀を持ち、クリスの横で歩き続けた。どこに向かっているのかは分からなかったが、八弥はクリスの進もうとする方に半歩遅れてついていった。
クリスの足取りはぶれることなく器用だったが、時折目を閉じて立ち止まり、何かに耳を傾けるような仕草をする。そういうとき、八弥は出来るだけ音を立てないように、何も考えないでいた。
時折、ふわりと風が肌を撫でる。そんな時、クリスはとても心地よさそうな表情をした。
「クリスさんは」
八弥は歩きながら尋ねた。
「いつも、何をしているんですか」
「僕は普段、音楽の勉強をしていマス」
「音楽?」
「はい」
やんわり、とクリスは笑った。八弥は長らく人と接してこなかったが、彼の笑顔はとてもきれいな笑顔だと、そう思っていた。
「目が見えなくてモ、音楽は楽しめマス」
八弥は大人しく頷いた。クリスはそれを感じ取ったようにフフ、と笑って、
「ヤヤさんは、音楽は好きデスか?」
「あんまり、しらないです」
八弥が普段聞いている音楽と言えば、自然の中に響く小鳥の声や、木の葉の擦れる風の音とかくらいだ。そんなものでも、素振りで疲れ果てている時には大層涼しげで心地よいものだが、音楽と呼べるかは微妙な所だ。
辺りに立ち込める霧は白く、深い。触ってみるとひんやりと冷たく、体温を少しずつ奪っていくよう。ふたりで歩く先にある白い塔は、だんだん大きくなっていく。
「デハ、よろしければ」
クリスはにこやかな笑顔を、八弥に向けた。
「僕の練習している音楽を、少し聞かせてあげまショウ」
ついてきて下サイ、とクリスは少しだけ歩く速度を早くした。八弥はその後を、三歩遅れてついていく。
不意に、八弥はおかしな気持ちになって眉をひそめた。目が見えない人に先導されるのは、なんだかちぐはぐだと感じたのだ。
○
クリスと共に歩く無人の町は、ひどく静かだが、ひどくうるさい。
静かなのは、周りに誰もいないから。うるさいのは、クリスの足音と杖の音が背の高い建物に反響して、よけいに響くからだ。
八弥はたびたびクリスに話しかけられながら、彼の後ろをおっかなびっくり、ついていった。薙刀と鞄を抱えてながら歩いている事に、クリスは気付いているのだろうか。
やがて不意に彼が立ち止まったとき、時計台はもうすっかり目と鼻の先にあった。大分背が高く感ぜられる。
そこは、小さい石造りの建物だった。大通りから少し外れたような、けれど近くにあるようなちょうどいい場所にあった。灰色の古ぼけた外観も、こげ茶色の扉も、ひっそりとした雰囲気がなんとも言えない。
「ドウゾ。入って下サイ」
「お、おじゃまします」
八弥は玄関の所に立って一礼し、そろそろと泥棒のように中に入った。
それの中は一間しかない、簡素すぎるような部屋だった。ぼろぼろの畳が敷かれ、卓袱台も、台所も無い。暮らしをするための場所ではないようだった。
その代わり、見たことのない物体がいくつも立てかけられている。
「これは?」
「それは、ギター、という楽器デス」
「ぎたー?」
「気になりマスか? 僕は普段、コレで音楽を練習していマス」
クリスは壁近くにあった椅子を引っ張り出し、そこに器用に腰掛けた。そして、ギター、というらしいそれを手にとって、組んだ足の上に乗せる。
木で出来た部分には穴が空いていて、金属のような弦が何本か張られている。クリスは左手の指を器用に使ってその弦を押さえて、右手で穴の上にかかった弦を弾いているようだった。
八弥は薙刀と鞄を傍らに置いて、自分もぺたり、と畳にじかに座りこんだ。最初は体育座りをしようとしたが、不意に考えを改めて結局正座をした。
クリスはふ、と八弥に微笑みかけて、ギターから音を鳴らしてみせた。今まで聞いたことも無い音がした。
「……、」
「デハ、ヤヤさんの為に一曲――」
青年は芝居じみた台詞を言って、ギターの音に乗せて歌を歌い始めた。
うーさーぎー、おーいし、かーのーやーまー……
それまでには見られなかった、滑らかな日本語だった。
「ふるさと」だ。もちろん、八弥も聞いたことのある曲だったが……ギターの音に乗せて聞いたのは、これが初めてだった。
こーぶーなー、つーりし、かーのーかーわー……
クリスの声は、とても透き通っていて、静かな街に響き渡るよう。
目を閉じて歌うその表情は、楽しそうな笑顔だった。
ゆーめーは、いーまーも、めーぐーりーてー……
八弥は自然と目を閉じて、声を出さずに口だけで同じように口ずさんでいた。
ふるさと。
わーすーれー、がーたき、ふーるーさーとー……
そこで、クリスの歌は終わった。
「いかがでしたカ?」
八弥は何も言わずに、ぱちぱちぱち、と小さく拍手を送った。青年は照れくさそうに、何も言わず頭を下げた。
「先生は、僕に音楽も教えてくれていまシタ」
八弥とクリスは壁にもたれるように、肩を並べて座っていた。とはいっても身長差があるので、八弥の肩はクリスのそれよりも少し下にある。
「言葉も分からない僕に、本当に親切にしてくれまシタ。いつも面白い話、タクサン、してくれまシタ」
「……、」
八弥は、楠木の事を思い出していた。面白い話。それは、八弥の知らない外の町のことだった。
ふるさと。そう、あれはきっと、楠木のふるさとの事だったのかもしれない。
「ろんどんって、どんな所ですか」
「ロンドンですか? そうデスね……」
クリスは目を閉じて、思い出しながら言葉を辿り、
「とても……静かなところだったと、思いマス。それから、良く紅茶を飲みマシた」
「こうちゃ?」
「ロンドンのお茶デス。あまり馴染みが無いカモしれませんが……是非飲ませてあげたいデスが、僕ひとりじゃ、お茶を作れないので」
八弥はそれからも、クリスの話をずっと隣で聞いていた。
彼の話す異国の様子は、少なからず八弥にとっては分からない部分が多々あった。それは彼の話が殆んど聴覚に頼ったものであって、景観や建物の様子については全く語られなかったからだ。
ただ、クリス独特の語り口調に、聞き入る部分も多かった。
「町が静かな時は、遠くから歌が聞こえてくるコトもありマス。教会や学校で、子どもたちが歌っている歌デス」
「へぇ」
「ちょっと町を離れると、風の音がとても綺麗なんデスよ」
「風の音、ですか」
八弥は自分の傍らの薙刀を持ちあげて、握りしめるように言った。
「私も、風の音は好きです」
山で暮らしていた頃が、とても懐かしく感じられた。町に降りてきてからは、いろいろな事があった。
「ヤヤさんも、自然が好きなんデスか?」
「好きというか、ずっと自然に囲まれていましたから」
「素敵なコトだと思いマス」
クリスは見えない目を、思いをはせるように細めた。
「モシ、風を見ることが出来たら……」
「風を……見る?」
「僕は時々、そんな事を考えるんデス」
それきり、クリスは何も言わずに、壁にもたれかかって眠るようになにも喋らなかった。
八弥も、何も言わずに彼の隣で、じっとしていた。
外は相変わらず静かで、人の声どころか、気配すらしない。少なくとも八弥には、何も聞こえなかった。
隣にいるクリスなら、あるいは何か自分に聞こえないものを聞いているかもしれない。
八弥はふと、自分はいったい何をしているんだろうと考えた。
薙刀と、大きな荷物を持って、楠木を探しに町へ降りてきたはずだ。こんなにのんびりとしていて、いいのだろうか。
「……、」
「大丈夫、デス」
クリスが呟いた。
「きっと、見つかりマス。ヤヤさんにとって大切な人なら、なおさらデス」
「……だと、いいですけど……」
結局、八弥は言われるがままに、しばらくそこでのんびりと過ごした。不思議とクリスの隣は、八弥の焦る心や、モヤモヤとした不安を、少しずつ取り去ってくれるような気がした。
クリスはゆったりと微笑みながら、八弥に頷いたのだった。