霧中の町
次に目を覚ました時、八弥の身体にはひどいだるさが残っていた。
ゆっくりと上体を起こし、鞄と薙刀を手にとって駅の構内を抜けだし広場へと出る。まだ朝早くなのか人影はまったく無く、空はうすく白んでいるくらいだ。
少し湿っぽく、霧が立ちこめているような心地よい涼しさ。
八弥の目は、その湿っぽい冷たさで次第にさめていく。遠くから聞こえてくる何かの音は、港の造船所だろうか。
「そういえば……」
ゆりは無事に、船に乗って疎開することが出来ただろうか。それならありがたい。家族と一緒に、安心できる場所に逃げることが出来る。
それはきっと、とても幸せなことだろう。
八弥はそれが出来ない。どこへ行っても、どう過ごしても、ずっとずっと一人のままだ。
――たかがそれが、どうしたというのか、八弥は少しずつ明るさを増していく空に虚ろな目を向けた。
ひとりじゃあ、いけないのか。
ひとりだと、何かダメなのか。
八弥は身体をよじって、時計台を見上げた。あの白い姿のまま、時計台は空高くそびえたっている。少しだけ背が高くなっているように見えるのは、気のせいだろうか。
今日も八弥には、見えている。
同じひとりぼっちだからだろうか。きっと他の、誰かと一緒にいる人達には、見えていないのだろうか。
「……、」
首を振って、八弥は鞄と薙刀を握り直し、駅に背を向けようとした。
「ありがとう」
最後に、時計台に、駅に簡単に頭を下げてから、八弥は背を向けて歩き出した。
○
朝の町には、ただ静けさだけが広がっている。
毎日毎日、空襲におびえ、いつまでこんな生活が続くのか。そんな不安に駆られながら送る生活は、いっこうに疲労ばかりが増していくばかりだろう。せめて眠る時くらいは、安息を貪りたいのかもしれない、と八弥はぼんやり考えた。
何の事は無い、八弥にとっては結局、ひとごとのように思えて仕方が無かったからだ。今、自分にあるのはこの身一つだけ。まして町の中心部から離れた山奥ともなると、空襲で狙われる可能性は大幅に減る。加えて、八弥はそこにある洞窟の中に身をひそめて空襲をやり過ごしているのだ。空からの脅威は、ほぼ無いとみていい。
幸いにして、町に降りてからは警報が鳴るようなことも無い。危うい歩みであったが、しかし道を踏み外したりしないというどこか絶対的な自信が八弥にはあった。
「それにしても……」
本当に静かだ、と八弥は思う。
山にいた時には、たまに吹く風に木の葉の擦れる音、鳥の声、雨の音――いろいろな音に囲まれていた。むしろ、無音であるということが全く無かった。
そんな自分でも、思わず落ち着かなくなってしまうほどの静かさ。町にいるのは、自分ひとりだけになってしまったような感覚。そんな町をひとり、歩いていくのには、得体のしれない不気味さと、――ほんの少しの、安堵感がある。
鞄を抱え、薙刀を握り、八弥はあてどなくふらふらと進む。
楠木を探す、という目的はそのままに、ふらふらと。
町の中心部には全く来たことが無かったから、八弥はほとんど手探りの状態で歩き回ることになる。
太陽が昇って来たのか、少しずつだが町は明るくなってきている。それにつれて、それまでぼんやりとしか見ていなかった町の様子が少しずつ、意識されるようになってきた。
白や灰色の石畳が伸びる広い道路には路面電車の線路が走り、ガス灯が点々と背を伸ばしている。道の両側には古めかしい石造りの建物と、木造の和風な家とが混在している。一見して乱雑な配置に見えるが、白い石ばかりの風景にすすけた黒っぽい色が配色してあるのは、それはそれで見栄えは決して悪くはない。
それまで緑や青といった発色の良い色に囲まれて過ごしてきた八弥にとっては、まるで別な世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚える。
氷の湖の上を歩いているような、そんな感覚。
そんな町を歩く足取りは、一歩一歩進むたびに軽やかになっていくように感ぜられる。八弥はゆっくり歩いていたはずが、すたすた、半ば駆け足のようになっていく。
霧が立ち込める静寂。
八弥は誰かの姿を求めて、あちこちを見て回った。建物の中へ入って行ったり、家の主にわざわざ聞きだすのも気が引けたので、あくまで見て回った。途中で道に迷ってしまわないかという心配は、振り返った時に確かにそこに見える、白い時計台が消してくれた。
細い建物の隙間やちょっとした広場の様な所まで、すみずみ探して回った。しかし、どこを探しても人はおろか、猫だとか犬だとか、動物の類を見ることも敵わなかった。
「みんな、疎開しちゃってるのかな」
呟いて、それが一番自然だと八弥は思った。あれだけ空襲が激しいのだ、それも当たり前かもしれない。
「けど……」
八弥は周囲の、町の風景をもう一度見まわして考える。
この町だけは、綺麗なままで空襲を一度も受けていない。同じ町でも、別な場所ではひどい被害が出ているのに、駅を中心にしたこの辺りだけは切り取られたように傷一つない。まるで鉄壁の要塞。
不思議で、それでいて不気味だ。
八弥はもう一度、時計台を振り返る。大分離れてしまったのか、時計台はずいぶんと小さく見えた。しかし、それでもしっかりとそこにそびえ立つ様は、何かを支える柱のように。
「……、はぁ」
不意に疲れが出てくるような気がして、八弥は地面に直接へたり込んで楽な姿勢を取った。大きく溜息をついて、空を仰ぎ見る。
青いというよりは白く、けれどしっかりと晴れ渡った、今までに見たことのない色の空だった。日は高く昇り、時間はすっかり朝になっているようだ。
しかし、やはり人の現れる気配はない。
「どうしたんだろう……」
心細げに八弥は呟いて、身体を抱えた。
「アノ……」
ふと、八弥のものではない声が聞こえ、彼女は即座に振り返った。
声の主は、八弥の後ろからふらふら、と歩み寄って来ていた。18ほどに見える、線の細い青年だった。
髪の色は銀色で、瞳は青い。一目で外国人だと分かる容貌に、黒いスーツを着込んで、――右手には金属製のステッキを握ってかつ、かつ、と地面について歩いていた。
「ソコに、ダレか、いるんデスか?」
青年は少し発音が怪しいながらも、慣れた様子の日本語を発した。
八弥は、目の前の外国人の青年が日本語を話しているのを確認して、
「……はい」
と、小さく返事をした。
青年はほっとしたように笑顔になって、目を細めた。
「ヨカッタ……やっと、人に会えまシタ」
青年はかつ、と器用にステッキを地面に打ち鳴らすと、立ち止まって溜息をついた。
八弥も同じように立ち上がって、青年に向き直る。
「あなたは……?」
「僕、ですか? エト……」
そこで、青年は少しだけためらうように言葉を詰まらせてから、
「クリストファー、と言いマス。ソノ、アナタは日本人、デスよね?」
「はい」
「ゴメンナサイ、僕は怪しい者じゃありまセンから……」
「は、はぁ……。……?」
ははは、と苦笑する青年の様子に、八弥はふと違和感を覚えた。
彼の目元、特徴的な青い瞳が、まるで虚空を見つめているように光がともっていない。
「アノ」
すると、クリストファーの方から八弥に話しかけてきた。びく、と肩を揺らす八弥を気にする様子も無く、
「アナタの名前を、聞いてもいいデショウカ?」
「は、はい……八弥、と言います」
「ヤヤさん、デスか」
クリストファーは再び笑顔になって、
「僕の事は、ドウゾ、クリスと呼んでくだサイ」
「は、はいっ」
無意味に敬語になりながら、声を裏返して八弥は返事をした。彼の言葉のひとつひとつに、柔らかく、だからこそ落ち着かない優しさの様なものを感じてしまう。
そのせいなのか、それとも相手が外国人だからなのか、はたまたその妙な瞳のせいか――八弥はすっかり、クリスの持つ雰囲気に中てられてしまった。山の中で、たまに鹿だとかを見たときと同じような、何故か目の離せないあの感覚に似ていた。
八弥の身体は無意味に硬直してしまって、うかつに何かを言い出せないような気分にさせられていた。そんな事を知ってか知らずか、クリスはのんびりと呟いた。
「アノ、ヤヤさんは何をしているんデスか?」
「え、え、えと……」
何故かドギマギしながら、八弥は答えた。
「そ、その、私は……人を、探しているんです……」
「人探し、デスか?」
「は、はい……」
「それは……エエト……奇遇、デスね。僕も人を探しているんデス」
にっこり、と微笑みながら、クリスは言った。
「あなたも……ですか?」
「ハイ。デスが、今日はやけに町が静かデ……まるで、誰もいなくなっちゃったみたいデ、不安になってたところだったんデス」
「……、」
それには八弥も同感だった。
誰もいない町。そこでばったりと出会った、自分と同じように人探しをしているという、外国人の青年。
「ダカラ、あなたに――ヤヤさんに会えてよかったデス。このまま一人だったらどうしようかと思ってまシタ」
そう言ってとても優しげな笑顔を浮かべるクリスは、とても男性とは思えないほど、幼い顔立ちをしていた。もちろん八弥と比べれば、背も高く、声も幾分か低い。けれど、まるで年齢を感じさせないような、とても「浮いた」存在感。
実際、彼の存在は、八弥にとってみればとても異質なものだった。自分ひとりだと思っていた世界に、突然現れた、雲に隠れた夜空にぽつんと浮かぶ、けれど細くて頼りなさげな三日月のよう。
「……、そ、それでっ」
思わず彼をじぃと見つめてしまっていた事に気付き、八弥は顔を逸らしながら尋ねた。
「あ、あなたは、誰を探しているんですか?」
それに、クリスは真剣な表情で答えた。
「僕は……先生を探しているんデス」