遠い遠く
ぼうっと考え事をしていたら、いつの間にか夜になっていた。
雲はすっかり晴れて、美しい星空が広がっている。見ているだけで吸い込まれそうで、時間の経過を忘れさせるようでもあった。
月明かりを静かに照り返す白い時計塔は、やはり八弥の目にはそこにそそり立っているように見えた。ゆりの言葉と態度を見ていたら、なんだか自分まで目の前の景色に自信が無くなって来たのだ。
思えば、あれだけの空襲があって、あれだけ町が壊れたのに、ここだけが無事なのだっておかしな話だ。そう思えば、ゆりの言葉が真実なのかもしれない。
今自分が見ているのは時計塔の幻か何かで、きっと自分は長い間山にこもっていたせいで頭がおかしくなっているのかもしれない。
手を伸ばす。目の前に広がる星空も、実は自分の目が見せる幻なのかもしれない。
自分にとって、この世界は何だろう。
ひょっとしたら、あの時会ったと思っている楠木も、自分が見せた夢か何かで、自分はその夢に惑わされてこんなところまでのこのこと歩いてきただけなのだろうか。
「……ううん」
かぶりを振る。
それでも。あの時の表情、声、別な町の話……それぞれ八弥にとって、ひとつひとつ新鮮で、楽しいひとときだった。
あれは本物だ。
間違い無く、八弥にとってのほんものだった。
だからこそ、と八弥は目の前の鞄を見下ろして、呼吸を整えた。
「この鞄も……」
届けなければいけない。それが本物なのだったら、きっとこの鞄を頼りに、また会える。
もっともっと、いろいろな話を聞きたい。もっといろいろな事を知りたい。
楠木は自分に、なにか大切なものをくれる。そんな気がしたのだ。
――八弥さんは幸せ者ですよ。
その笑顔に、なんだか自然と笑えてくるようだった。
しあわせもの。
ボォー……。
遠くから地鳴りのような轟音が聞こえてきた。
「っ」
一瞬、空襲のサイレンかと思って身構えたが、続けざまにごうんごうん、とかすかな地響きを感じて気付いた。
遠くから響いてくるそれが、機関車の走る音だと分かった時、八弥は鞄を手にとって駆け出していた。
○
プラットホームで鞄と薙刀を持ち、楠木の姿を探す。
機関車から降りてくる人は少なく、遠くの町に疎開でもするのか、乗り込む人の方が圧倒的に多かった。客車の中は既に満員を通りこしていて、人ですし詰めになっていた。
八弥はけして高くない背を必死に伸ばして、楠木の姿を探した。
黒いスーツに、黒い帽子の男。しかし、似たような男すら探すことが出来ずに、ただただ人の姿を見送るような時間が過ぎて行った。
ボォォ、と大きく汽笛を鳴らしながら、汽車は無情にも、ゆっくりと駅を出ていってしまった。
「あっ……」
待って、と手を伸ばしかけて、すぐにそれをやめた。
「行かないで……!」
言葉とは裏腹に、八弥の身体は縫い付けられたように動かない。
ただ、汽車の背を見送ることしかできなかった。
「きみ、ちょっときみ」
ホームに膝を抱えて座り込んでいる八弥を気の毒に思ったのか、それとも怪しんだのか、駅員が不機嫌そうに声をかけた。
「どうしたんだい? さっきの電車に乗り遅れたのか?」
「……、」
「それなら、もうすぐ連絡船が来るから港に行きなさい。疎開するつもりならそれが一番だ。ここら辺は空襲が激しいから列車を頻繁に走らせることはできないんだよ。もう線路が所々途切れている場所もあるからね」
やれやれ、と呟く駅員に、八弥は顔を上げた。
「ここは」
「うん?」
「ここは、大丈夫なんですか?」
八弥の瞳は黒く染まっていて、駅員は思わずぎょっとしてしまうほどだった。
「だ、大丈夫って、どういうことだい?」
「だって、こんなに目立つ建物なのに……」
「?」
「空襲にあっても、どうしてここの時計台は無事なままなんですか……?」
「時計台……?」
駅員は首をかしげ、怪訝そうに八弥に告げた。
「時計台なら――大分前に、壊れたままだけど?」
「……え?」
「いったいいつの話をしてるんだい? 確かにここには白くて立派な時計台が作られてたけど……しばらく前に、空襲で焼け落ちちゃったよ。再建しようって案もあるけど……ま、このご時世だからね」
駅員は肩をすくめて、
「鉄砲に出来そうなものは、全部、軍が持っていっちゃうからね。おかげで機関車の修理もおちおち出来ないし、壊れた線路や建物の補修も出来ない。いわんや、時計台なんて必要のないものを作り直すのは、到底無理だろうね」
「……そうですか」
「変なこと聞くね? 駅の建物を外から見たら、すぐに分かることじゃないか」
肩を揺らして笑いながら、駅員はこほん、と咳払いをした。やけに年寄りくさくて、八弥は少しだけ笑いそうになった。
「それより、その制服は中学生……だよね? もうそろそろ日が暮れるよ。帰りなさい」
「……帰る?」
「そうさ。……あっ、ごめんよ」
笑顔で自信満々に言ってから、駅員はしまった、と表情を消した。空襲の激しいこの町では、もう帰る家がないという人々も珍しくない。
「気を悪くしないでくれよ」
「いえ、気にしてませんから……別に、今に限ったことじゃないですし」
「……もしよかったら、ここの駅舎にでも泊まっていくといいよ。どうせ誰もいないだろうし、雨風くらいはしのげるだろうしね。一番近くの防空壕の場所くらいなら分かるから」
駅員の言葉に、八弥は何も反応を示さなかった。もう何日も、飲み食いをしていないような気分だった。
「今夜は僕もここに居るから。何かあったら、駅員の休憩室に来てくれ」
駅員は慣れっこだ、とでもいうようにそう告げた。
きっと、今までも自分と同じような境遇の人々に対応してきたのだろう、八弥は適当に頷いて、去っていく駅員の背中を見送った。
何をするでもなく八弥は、ただうずくまって時を過ごし――
夜もだいぶ更けてきたのだろうか、辺りは静寂に包まれていた。
とても活気にあふれていた町とは思えない静けさだ。空襲も来ず、サイレンの音も、飛行機の音も聞こえてこない。
八弥の身体に疲労は蓄積されていたが、何とも言えない気分の冴えにさいなまれて、眠るような気分にはならなかった。今日の自分はどこかおかしい気がする、そう考えた時に、今日はまだ薙刀の素振りをしていないことに気が付いた。
少し身体を動かそう。決意して薙刀を手に立ち上がり、駅のホームを舞台に、少女の演武は始まった。
静かな夜に、ただ薙刀が空を裂く音だけがこだまする。
少し肌寒いような夜風を振り払うように、八弥の身体には汗がじんわりと浮かび、瞳は月や星に負けないような鋭い光を帯びていた。
「はっ、はっ」
短く息を吐きながら、八弥の動きは鋭さを増していく。
その動きを何十分続けただろう、八弥は唐突にそれを止めて、だらりと手足を垂らした。
「これでおしまい……」
崩れるように膝から倒れ、はぁ、と息を荒々しく吐いた。額には汗が浮かび、左目には汗がしみて痛む。はぁ、はぁと肩で息をする様子は、それまでの八弥とは違った不安定さがあった。
身体の中で歯車が回っているなら、まるでそれぞれが自分勝手に動き始めて調和をなしていないような、そんな違和感。
今日の自分は、何かがおかしい。駅のホームにへたり込む少女は、疲れた頭で感じていた。
「…………」
ふと思い立って、八弥は立ち上がって黒い鞄を手に取った。そっと駅のホームを抜けて、広場の方へと歩いてゆく。
見上げるのは、やはり駅の時計台だった。
自分には見える。確かに、そこにある。なのに駅員が言うには、以前の空襲で焼け落ちてしまい、再建のめども経っていないという。
自分の目には、見えていないものが見えている。
たった一日会って話をしただけの人を探しまわって、疲れきって、あげくにそれは見つからない。
八弥は溜息をつくでもなく、なにかを呟くでもなく……ただただ無言で、無表情で、無感動なまま、駅の中へと足を引きずるように入って行く。
建物の中に、人がひとり横になれそうなちょっとした隙間を見つけると、八弥はそこに横になって、そのまま眠りにつこうと目を閉じた。
冷たい灰色の石が打たれたそこは、寒くて硬くて寝心地はけして良くなかったが、それまで洞窟の中で寝泊まりしていた八弥にとってみれば、快適そのものだった。
「おふとん……」
寝言のように漏れ出た言葉は、ひどく贅沢なもので。
「おふとんで、寝たいな……」
それを最後に、八弥の身体から意識が遠のき、力が抜けた。