誰かの背中
右手に鞄、左手に薙刀、かたわらには小さな少女。
奇妙な出で立ちになった八弥は、荒れ果てた町を歩いていく。
「お姉ちゃん」
「ん?」
ふと、隣をとてとてと歩いていたゆりが首をかしげた。
「どうしてお姉ちゃんは、おおきなかばんをもってるの?」
「んー……。これはね、私の知り合いのおじさんが置いていっちゃったの」
「おじさん?」
「そう。とっても変なおじさん」
思い出すと、八弥まで自然と笑ってしまう。
「だから、これをおじさんに届けに行くんだよ」
「なにがはいってるの?」
「それは……知らない」
「あけてみようよ!」
無邪気に告げるゆりに、八弥は首を振った。
「だめだよ、人のものなんだから……」
「えー、いいでしょ?」
「だめ」
言い放って、八弥はそれきり鞄について、はなそうとしなかった。
時計塔はもうすぐそこだ。ゆっくりあるいても、あと十分もかからないだろう、そんな距離だった。
もちろん、それは見た目の主観なので直線的な距離の話になるのだが、結局今となっては関係ない。目の前はひたすらに平らで、どこまでもまっすぐに、歩いていける。
「もうすぐだね」
ゆりにそういうと、小さな少女は首をかしげた。
「なにが?」
「ほら、あそこ。あの白い塔に、私達は向かってるんだよ」
理由も無く屈みこんで、八弥は指をさして時計塔を示した。
「どこ?」
「ほら、あそこだよ。見えるでしょ」
こころもち穏やかな口調になるのは、小さな子供を相手にしているからだろうか。八弥は一人っ子だったから、こうして小さな子の相手をする機会は全くなかったので、なんだか不思議な気持ちになった。
しかし、ゆりは口をぽかん、と開けたまま、不可解そうに八弥を見ていた。
「なにもみえないよ?」
「え?」
「お姉ちゃん、しろいとうって、なに? おかし?」
ゆりが余りに純粋に疑わしげなことを言うので、八弥は勢いよく、時計台を見た。
時計台を見たのだ。そこには確かに、白くそびえたつ時計台があった。
「本当に、何も見えない?」
「うん」
真剣に頷いたゆりが、そこにはいた。
「うそ、ついてない?」
「うそなんてついてないもん」
「本当に?」
「ほんとうだよ?」
お姉ちゃん、どうしたの?
そんな言葉が聞こえてくるようだった。
「…………、」
八弥は一呼吸置いて、もう一度、もう一度だけ、そう決めて振り返った。
やはり、そこには白い塔が見えていた。真っ白く、灰色の空と町に映えるようだった。
「……ううん」
かぶりを振る。
「違う」
ふる。
「絶対に、あそこに在る」
呟いて、立ち上がる。
「お姉ちゃん?」
「いこ。すぐに」
左手の薙刀を強く、握りしめた。
歩き出す八弥に、ゆりはとてとてと危なっかしく走りながら、
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
「どうしたの?」
「……」
ぽかん、と口を開けたままゆりは少しだけ黙ってから、
「……なんでもない」
と、それきり俯いたまま、口を開こうとしなかった。
八弥はそれを見下ろしながら、ゆりの裸足が危なげに自分と並んでいるのを見た。
歩き続けること、それから十分ほど。
駅の近くまで来ると、少ないとはいえ、それまでの荒野のような町に比べれは段違いに活気にあふれていた。
町を歩く黒い洋服の男や、せわしく小走りする和服の女性。無邪気に笑って走り回っている子供達と、それを見守るどこか暗い影を落とす老人たち。
「すみません」
八弥は近くにいた、若いスーツ姿の男に声をかけた。
「楠木さんという男性を知りませんか?」
「くすのきぃ?」
「えと……黒いスーツと帽子をかぶって、三十代くらいの男性です」
それ以外に大きな特徴も無かったので、そうとしか説明できなかった。しかし、
「う~ん……そんな人はありふれているからなぁ」
「はぁ」
「見たかもしれないけど、それが君の探している人だとは限らないかもしれない」
つまりは、それだけ目立たない格好をしている人物だということだ。
「すみません、ありがとうございました……」
馬鹿丁寧なお辞儀をすると、相手の男は笑いながら去って行った。
「お姉ちゃん、おじさんさがしてるの?」
「うん……」
それから八弥は、ゆりを連れて、楠木の事を聞いて回った。老若男女を問わず、その場にいた人々に片っ端から聞いて回ったのだ。
しかし、結局なんの手掛かりも得られないまま。黒いスーツ姿の、帽子をかぶった男。
「いっぱいいる……」
広場を見回しただけで、似たような格好の男は何人かいた。当然彼らにも話しかけてみたが、楠木ではなかったようで、怪訝そうに、あるいは心配そうに視線を向けられるだけだった。
一緒に探してあげようか、という人もいた。八弥はそれを断って、できるだけ二人で探し続けた。
八弥の手に握っている薙刀を見て、明らかに迷惑そうな顔をする人もいた。八弥は文句も言わずに、毅然とその視線をかわし続けた。
何時間となく、彼女は追い続けたのだった。
「はぁ……」
曇っていた空は少しずつ割れ始め、隙間から夕焼けの光が差し込み始めていた。八弥は駅の前のちょっとした段差に腰掛けて、うなだれるように溜息をついた。
隣ではゆりが足をぶらぶらと退屈そうに揺らしながら、どこから持ってきたのだろう、大判焼きをほくほくと頬張っていた。
「お姉ちゃんも、たべる?」
「ううん……ゆりが食べていいよ」
「お姉ちゃんも、おなかすいてるでしょ?」
やたらとしつこく食い下がってくるゆりに、八弥はうんざりと言った。
「私、お腹すいてないから。だいじょうぶだよ」
「だいじょうぶ」
「うん。ゆりが食べちゃって。ゆりも、お腹すいてるでしょ」
「……だいじょうぶ」
しゅん、と肩を落としながらも、ゆりはまたちびちびとそれを食べ始めた。
暖かそうな白い湯気も、きつね色の生地も、黒いこしあんも、どれも八弥の食欲をそそる事は無かった。そもそも八弥は、空腹を覚えている訳ではなかったのだ。
地べたに置いた鞄と薙刀に視線を注ぎながら、八弥はぼうっと途方に暮れた。
どうしたらいいだろうか。駅のひとにでも、これを預ければいいのだろうか。それともいっそ諦めて、この鞄をここに置いて立ち去れば良いのだろうか。
はぁ、と溜息をついてから、八弥は仰ぎ見るように時計台を見上げた。白い塔は夕日を浴びて、真っ赤に光を照り返していた。
「……」
「お姉ちゃん?」
ゆりは半分くらいまで食べた大判焼きを大事そうに抱えたまま、
「どうしたの?」
「……やっぱり、見えないんだ」
「なにが?」
無邪気に聞き返すゆりの口元には、笑顔と一緒に、食べ損ねたあんこがくっついていた。
なんだか急に可笑しくなって、八弥はそれを手でぬぐいながら、
「なんでもないよ」
とだけ、短く告げた。
どうして見えないんだろう、とか、楠木はどこに居るんだろう、とか、そもそもどうしてゆりは一緒に居るんだろう、とか、そんな事はもう、なんだかどうでもよかった。
ただ、八弥は漠然と、目の前の黒い鞄を、持ち主に返してあげたいだけだった。
目的も、何もない。もともと何もない人生だ、と目を細めた。
両親も死んで、家も焼けおち、身寄りも無い、何もない。
それだけの自分に、ただそこに居るだけの自分に、いったい何をしろって言うんだろう。どうして私は、ここにいるんだろう。
朦朧とする。なんだか全てが、ぼんやりと、遠くにいるもののように感じられた。水中で漂うように現実味がなく、目の前がぼやけ、身体はひどく動かしにくくてだるい。
「おかあさん!」
眠たくなっているような八弥の思考は、そんな唐突な叫び声で引き戻された。
隣で座っていたはずのゆりが、一目散に駆け出していた。その先に居るのは、やわらかな表情の女性だった。
ゆりが女性の身体に飛び込むように抱きついてから、一言二言、話をしていた。
会話の内容はよく聞き取れなかったが、ゆりがこちらを指さして、なにかを必死に伝えようとしているのは分かった。女性は最初は驚いたような表情をしていたが、次第に泣きそうな笑顔になって、それから八弥の元に歩み寄って、真っ先に頭を下げた。
「ありがとうございます、何とお礼を言ったらいいか……! うちの子がご迷惑をおかけしました」
「い、いえ……私は、ただ……」
ただ……。
「…………」
「お姉ちゃん、ありがとう!」
「ありがとうございました。すみません、連絡船の時間がありますので、失礼します」
「またねー!」
すぐさま女性に手を引かれ、ゆりは去って行った。
途中で何度も振り返り、八弥に手を振っては――笑っていた。
「お母さん、か……」
よく状況は飲み込めなかったが――
偶然に母親を見つけ、母親もゆりを探していたのか、偶然に再会し、今は連絡船に乗るために港へ向かっていった……そういうことなんだろう。
「よかった」
溜息のように呟いて、八弥はちょっとだけ、手を振り返した。
夕焼けに向かうように歩く親子の姿は、とても綺麗で、ちょっとだけ羨ましかった。
私にも、あんな頃があったのかな。
八弥はふと思い出そうとして、やめた。
手をつないでいた親子は、だんだん小さくなって、やがて見えなくなった。