引裂く
「薙刀は、お父さんに教えてもらったんです」
夕焼けに背を向けながら、八弥はふと呟いた。顔には汗が流れ、息は上がり。凛と伸ばした背は、まるで戦場を駆け抜けてきた武者のよう。
演武を終えた八弥は薙刀を片手にぶら下げたまま、立ったまま、自然と口を開いていたのだ。
「小さい頃からずっと、この薙刀を使って心身を磨いてきました。けど、戦争が始まってからは……女なんだから、家でじっとしてろって……」
「戦争、ですか……」
「……だから、ひとりでここに居るんです」
八弥は笑いながら、
「ひとりの方が、気楽なんです」
「ふふ、それは同感です」
楠木も八弥に頷くように笑って、
「私も、長くひとりで旅をしていますからね。その気持ちは良く分かりますよ。なんでもやりたい事を、自分で出来ますからね」
「すごく、たのしいです」
「ただ、ちょっと寂しくなる時がありますよね」
「……はい」
八弥は素直に頷いた。
「たまには、誰かと一緒に過ごしたいですけど……町には家族はいないし、友達もいないし……だったら、ここにいる方がいいです」
「……確かに、ここはいい場所かもしれませんね。眺めもいいし、居心地もいい。身体を動かせる広さもある」
「今となっては、毎日のように、ここで薙刀を振っているだけなんですけどね」
眺めなんて気にした事も無い。八弥は毎日を、ほとんど薙刀と共に過ごしているようなものだった。
「勿体ないですよ」
楠木は苦笑しながら、
「せっかくこんな綺麗な町にいるんですから。もっとこの町を、愛してあげるべきです」
「……?」
「私はこの町が好きです」
楠木はそう言って、ゆるりと立ち上がった。
「八弥さんは幸せですよ。こんな町にいられるんですから」
そう言い残して、彼は帽子を片手に抑えて、八弥に背を向けて歩き去ってしまう。
「あ……」
「すみません。そろそろ汽車が出てしまうもので、行かなくてはいけないのです」
最後に、楠木は立ち止まって八弥を振り返り、
「素敵なひとときでした。ありがとうございました」
それだけ言い残して、ゆっくりと山を下りて行ったのだった。
八弥はそれを、黙って見送った。
何と言って引きとめればいいか、それがとっさに思い浮かばなかったからだ。楠木の広い背中は、まるで八弥にもう言うことはない、と告げているようで、何を言うべきか分からなかった。
はぁ、と溜息をついて、八弥はベンチに座った。
今日は一段と疲れた、ような気がする。誰かと話したせいだろう、ずっと山に居た八弥は、長らく誰かと話をするということが無かった。慣れないことをするのはいつだって疲れることだ。
ふわぁ、と欠伸が出る。
「今日はもう寝ようかな……」
まだ夕焼けは沈み切っていないが、何もすることがない時は寝るのが一番だ。
八弥は大きく伸びをしてベンチから立ち上がり――
「……あれ」
そこで、気が付いた。
さっきまで、ついさっきまで楠木が座っていた場所に、あの大きな黒い鞄が置いてあったのだ。
「忘れて行ったんだ……!」
慌てて八弥はそれを抱えた。楠木と体格が違う八弥には結構大きな鞄だったが、なんとか抱えて歩き出す。
今ならまだ、走れば間にあうかもしれない。
八弥はそう考えて、鞄を手に山を下ろうとした。
ウー……。
遠くからサイレンが聞こえてきたのは、ちょうどそんな時だった。
「ッ……」
八弥は立ち止まり、空を見上げた。
そこには、八弥の目にも分かるほど、たくさんの飛行機が飛来していたのだ。まるで夕焼け空を染めるカラスのような、黒の群れ。
八弥は逡巡して、鞄を抱えたまま立ち尽くした。
もし八弥がこのまま引き返せば、楠木は汽車に乗ってしまうだろう。そうなると、もはやこの荷物を届けることはできなくなる。八弥には、電車に乗って旅をするような持ちあわせは無かった。
かと言って、このまま彼を追いかけたらどうだろう。もうじき空襲が町を覆う。そんな中を歩いていたら、八弥の命は雨の中を濡れないで歩くよりも心もとない。
八弥は迷った。
立ち尽くして、町を見下ろして、
引き返すことに決めた。
鞄を抱え、一目散に山を登る。
あの洞窟の中に居れば、きっと無事だ。それに楠木とて、空襲があるのだから防空壕に逃げ込んでいるはずだ。再会の機会は、いくらでもある。
極限状態の良く回る頭で、八弥はそう考えてかけた。
洞窟へと、走る。片手に鞄を、片手には薙刀を。
彼女の後を追うように、町の方からすさまじい爆音が響き始めていた。
振り払うように八弥は洞窟に逃げ込んで、じっと目を閉じた。
○
大きな道場のある家に生まれた八弥。
小さいころから武道に親しんできたが、背が低く剣道が苦手だったため、父親から薙刀を勧められたのが彼女の人生の始まりだった。
毎日のように稽古に明け暮れ、父親から一本をとることも増えていった。
そんな折、この国が戦争に参入する事がきまり――この小さな町に、空襲がやってくることも珍しくなくなった。
家が焼けた。
家族も死んだ。
身寄りも無く、友人もいない。
ただ薙刀を真摯に振るい続けた少女は、空襲で、戦争で、何もかもを失ってしまったのだ。
町を離れることに、まったく抵抗は無かった。
少しでも安全な所に。八弥は町から少し外れた山にこもり、そこで薙刀を振って、洞窟で眠り、起きて薙刀を振って、そんな生活を繰り返すようになった。
本当に、何をするでもなかった。
毎日毎日、単純な作業を繰り返した。学校にはもちろん行かない(行けない)が、着るものを持ってくるのも億劫だったからセーラー服をそのまま着てきた。たまに降る雨で髪を洗って、汗を流した。お腹が減ったら動物を薙刀で殺して、火を焚いて焼いて食べたり、草を食べたりした。
ずっと一人で、一言も発さない日が珍しくないような、死んだような日々だった。
でも、八弥は生きていた。
生きたかった。
目が覚めた時、八弥は洞窟の中にいた。
「…………」
あちこち身体が痛むが、不思議と疲れはない。立ち上がって服の汚れを払い、傍らの薙刀と、鞄を手に取った。
町へ降りて、楠木へこれを届けなければならない。
眠気で頭が回らないのをいいことに、八弥は歩き出した。余計なあれこれを考えて迷うよりよっぽどよかった。