別な町
「こんにちは」
黒いスーツに帽子をかぶり、傍らに黒い大きな鞄を抱えたその人影が、男の声で少女に挨拶をした。
少女は怪しむ以前に、驚いていた。どうしてこんな場所に、こんな立派な服を着た男がいるのだろう。
「こ、こんにちは……」
ぺこり、と頭を下げる。誰かに挨拶をするのが久しぶりで、なんだかぎこちない動作になってしまい、しばらく頭を上げることが出来なかった。
男はそれを咎めるでもなく、朗らかに切り出した。
「素敵な場所ですね」
「……、」
「町を見下ろすこともできるし、自然も豊かだ」
独り言のように続ける男に、少女はただ黙っていた。
「いつもここに居るんですか?」
「え、えと……」
不意に問いかけられて、少女は口ごもった。確かにいつもここに居る、それ以外にすることがなく、居場所も無いからだ。
しかし、少女はセーラー服に身を包んだままだった。それなのに、学校にもいかずに山に一人でいる。この状況で大人になんと言い訳をしたらよいだろうか。それを考えている間に、
「はい」
思考の波に耐えかねて、少女はそう、素直に頷いてしまっていた。
「そうですか……」
男の目元は、目深な帽子ですっかり見えない。逆に、にっこりと笑みの形を作った口元が強調されるように少女の印象に残った。
男はお構いなしに、ベンチに腰をかけた。ゆったり、そんな言葉が上手くあてはまるような妙な雰囲気があって、少女は何も言いだせずにいた。
「私のことは……楠木、とでも呼んでください」
「……」
「ああ、念のために――怪しいものではありませんよ。ただ、ちょっと散歩をしていたらこんなところで女の子がひとりでいたものだから、不思議で立ち寄っただけの、ただの旅の男です。そういうことにしておいてください」
そう言ったきり、男は含みありげに黙りこくった。それがこちらの様子を窺っているのだ、ということに少女が気付いたのは、ほんの少し後だった。
「……八弥、です」
「ヤヤさんですね。分かりました」
男――楠木は、ゆったり微笑んだ。
「ヤヤさんは、いつもここに居るのですか?」
楠木はとても楽しそうに、少女――八弥と話をしたがった。
「はい……ずっとここで暮らしてます」
「へぇ。そうなんですか……」
「…………」
楠木はそのたび、興味深そうに頷いて、すぐ後になってまた新しい話を続けるのだった。八弥はしばらく人と話したことが無かったので、緊張して固まっているばかりだった。
彼の質問は、好きな食べ物はなんだ、とか、好きな季節はなんだ、とか、本当にたわいもないものばかりで、八弥はいつの間にか、怪しむ以前に不思議に思ってしまった。なぜ、見ず知らずの自分に、そんな事を尋ねるのか、まったく分からなかった。
「あの」
たまりかねて、八弥は口を開いてしまった。
「その……楠木さんは、どうして、私にそんな事を聞くんですか……?」
すると、彼は口元を少しだけ笑みに変えて、
「どうして、と言われれば、ヤヤさんがここにいたからですね」
「え?」
「こんなところに人がいるとは、思ってもみませんでしたから」
「そ、それは……」
八弥は俯いた。
「ちょっと、事情があって……」
「……そうですか。では、深くは聞かない方がいいですね」
「ごめんなさい」
頭を下げる八弥に、楠木は「いえいえ」と首を振った。
「私は、あなたをいじめるためにここに来たわけじゃあありませんから」
「じゃあ、何をしに来たんですか……?」
「ん? んー……そうですね、何と言ったものかな、ええと」
少しの間言葉を選んだ末に、楠木はぽん、と手を叩いた。
「そう、思い出作り……とでも、言いましょうか」
「思い出……?」
飛び出してきたのは、やはり良く分からない言葉だった。困惑する八弥を見て、しかし楠木は続けた。
「実は私、近いうちにこの町を出て行くんですよ」
「はぁ……」
「なので、その前にもう一度、隅々までこの町を見ておきたいと思いましてね。あまり多くの場所を見て回ったことも無いですから」
そこで、楠木は顔を目下の町の風景に向けて、
「こんなに眺めのいい場所が隠れていただなんて。歩いた甲斐がありましたよ」
「……」
八弥は気まずそうに、目だけで眼下の風景を見やった。
空襲で所々の焼かれた町に、煙が立ち上っている。
時々赤く見えるのは、火事の炎か何かだろうか。美しい町並みはすっかり息をひそめて、壊された、という印象だけを見る者に植え付けるよう。
建設途中の時計塔だけは全くの無傷で、半端な高さでそびえ立っている。空襲に負けまいとしている姿が逆に、周囲とは浮いてしまっているのだから皮肉に思えた。
だから彼女は、この光景を見てとても眺めが良い、とは言えなかった。
けれど、彼女はとても冷めた目でそれを見下ろすように眺めていた。一度見てしまえば、目を離すことが出来ないような、遠い満月に見入られたような感覚。
「こういう場所が好きなんです」
楠木は呟いた。帽子の下には、どんな目が隠れているのだろうか。
「遠くを眺められる場所が好きなんですよ。ヤヤさんはいったい、どうなんでしょうかね」
「どう、って」
「そういう場所が好きだから、ここにいるんじゃないですか?」
くす、と笑う楠木。
「……、」
八弥はどう反応するべきか、考えている間に結局なにも言えなかった。
「あの」
意を決して口を開いた八弥の口から、こんな言葉が漏れ出た。
「あなたは、どこから来たんですか?」
「えッ」
「どこから来たんですか?」
ふと口をついて出た疑問に、楠木はしばらく口を半開きにして固まっていた。
その様子に、八弥は慌てて頭を下げた。
「す、すいません! 失礼なことを聞いたかもしれません……」
「は、はは。いえ、気にしていませんよ」
「すみません、忘れてください……」
しつこいくらいに頭を下げる八弥に、楠木も苦笑を浮かべる。
「私、そんな大層なところから来ている訳じゃありませんよ? ただ、いきなりそんな事を聞かれて……びっくりしてしまいましたけどね」
はは、と力なく笑う楠木。
「でも、ここじゃない所から来ていたのは本当です」
「……えと」
今度は慎重に言葉を選びながら、
「前に居た場所は……どんな所、だったんですか?」
「そうですね……」
楠木はしばし考え込んでから、
「……この町とは、大分違うところでした。でも、この町に、とっても良く似ています」
「……?」
「たとえば、町並みですね」
町へ指をさして、
「ああいう白い町並みは、私の町にもありました。石造りで通りを挟むようにずらっと並んでいて」
「へぇ……」
「でも、日本の古い木造建築などは、私の町にはありませんでした。よほど田舎の方に行けば、別でしたけどね」
「ぜんぶ、石造りのものばかりなんですか?」
「はい」
にっこり、と笑う口に八弥は少しだけ、身を乗り出すように次の言葉を待った。
「それと、あの時計塔ですね」
続けざまに楠木は、建設途中の時計塔を指さして、
「私がいた町には、あれによく似た、とても高い塔がありました」
「時計塔ですか?」
「ええ、時計塔です。とても古くて高いんです。100年近く経った今でも動いているんですよ」
「100年もですか?」
「ええ。それだけ町のみんなに愛されている時計塔です」
へぇ、と八弥は息をのんだ。
「あの時計塔は、どうですか? この町の人々には、愛されていますか?」
「……」
押し黙る。
八弥はしばらく、この山で暮らしている。あの時計塔を作り始めたのは、ちょうど八弥が町を離れるようになってからだ。
評判なんて聞いたことも無かった。ただ、八弥はここから時計塔が毎日背を伸ばしていくのを見るのは、まさしく時計代わりに毎日が進んでいくのを確かめる、ひとつの指標になっていた。
八弥は時計を持っていない。持っているのはただ、一本の薙刀だけだから。
「よく、分かりません」
「そうですか」
こともなげに楠木は呟いてから、次に山の方へと目をやった。
「ただ、この町の自然には敵わないと、私は思います」
「自然……?」
「私の元いた場所でも、こんなに綺麗な緑を見ることはできませんでしたから」
「緑」
「ええ。ですが、そういうのは適当ではないと思うので――やっぱり、自然といったほうがいいですね」
楠木は笑った。
八弥は周囲に目をやった。今までずっとこの山に居る八弥だったが、その自然に目をやったことは、思えば一度だってなかった。それどころではなく、必死な状況にあったからだ。
町と反対方向を向けば、確かに緑と青が広がる。見る人が見れば美しい景色だが、
「……」
八弥は首をかしげ、いぶかしむようにそれを見ていた。
「はは、ヤヤさんには難しい話でしたか」
「はい……」
「まぁ、人には好みもありますからね。何が一番かなんて、人の数だけ違います」
楠木の言葉に、八弥は不思議と引き込まれるような気持ちでいた。
彼は、自分には無い何かを持っているのかもしれない。今まで八弥が感じてこなかった、色々な事を知っているような、そんな気がしたのだ。
「あの」
八弥は少し落ち着いて、言葉を少しずつ手繰るように言った。
「もっと、いろんなお話、聞かせてください」
「……ええ、いいですよ」
少しだけ嬉しそうに、楠木は頷いた。
楠木は八弥に、色々な事を語った。
元いた町の詳しい話をしてくれた。白い石造りの大きな建物の話、道行く大道芸人の面白い話。
そこから旅をしてきたという楠木は、旅の道中で出会った不思議な郵便屋との話、道すがら立ち寄った古びた館での体験談も聞かせてくれた。
八弥はそれを、目を輝かせながら真剣な表情で聞いていた。
口元には笑顔も浮かべず、ともすれば無表情にも見える彼女の顔には、しかし爛々と輝く大きな瞳があったのだ。帽子を目深にかぶった楠木は、果たしてそれに気付いたのか。
たっぷりと話を終えて疲れたのか、楠木は「ふぅ」と溜息をついた。
「こんなに話しこんだのは久しぶりですね」
「ありがとうございます。とっても面白かったです」
深々と頭を下げる八弥に、楠木は心から楽しい、と言わんばかりに笑った。
「そう思ってもらえたら嬉しいです」
八弥はもう一度頷いた。
「なんだか、こうして誰かの話を聞くのって……久しぶりなんです。だから、つい夢中になっちゃって……」
「……」
楠木はじっと黙っていた。
八弥はそれきり、何も言わなかったので、二人の間に妙な沈黙が流れる。
山の遠くから、カァ、カァ、とカラスの鳴く声が聞こえてくる。それを見上げようとして八弥は、空がすっかり夕焼けに染まっているのを見た。
「おや、もうそんな時間ですか」
楠木は同じようにそれを見上げて、驚いた風に呟いた。
「そろそろ、行かないといけませんね」
「行くって、どこへですか?」
「さっきも言ったでしょう? 私はこの町を出て行くんです」
にっこり、と口元を笑わせて楠木は告げた。
八弥は「そうですか」と短く呟いて、
「そうですか……」
と、もう一度繰り返した。
しゅん、と肩を落として八弥は俯いていた。顔にははっきりと表情は浮かんでいる訳ではなかったが、楠木の話を聞いていた時と比べれば、大分落ち込んでいる様子が見て取れた。
「……もし、よろしければ」
ふと楠木が、八弥の言葉に先回りするように口を開いた。
「ヤヤさんの、それが気になっていたんです」
「?」
「それですよ。ずっと手に持っている、それです」
楠木が指さしたのは――八弥が大事そうにずっと持っている、木の薙刀だった。
「いったい、何に使う道具なのですか? もしよろしければ、使い方を教えてください」
「使い方……?」
「まぁ、私の話のお礼とでも思ってください」
なんだかよく分からないことを言っているように聞こえるが、話の礼ということなら八弥は断るわけにはいかなかった。
「わかりました」
短く答えて、八弥は少し楠木から距離をとった。
薙刀を構えて、鋭く切っ先を見つめる。夕焼けから伸びる真っ黒な影を、八弥は切っ先の向こう側に見据えた。
楠木は無言でベンチに座ったまま、じっとこちらの一挙手一投足に目を凝らしている。八弥は幾分落ち着かない気持ちでいたが、瑣末なことだと首を振った。
「……ふぅ」
目を閉じて、息を整える。
こうして心を落ち着けるのが、薙刀を振る上での、ひいては武道と呼ばれる物の、基本中の基本だ。心の乱れは、動きの乱れにつながり、ひいては人としての乱れに繋がっていく。
最も、自分にそれを言えた義理ではない。この薙刀も、今ではすっかり我流となりつつある。いわんや生き方をや、どうしてこれを武道と呼べるだろう。
それでも、八弥は薙刀を手に取っている。
「…………」
深く、深く呼吸をして、充分に神経と心を研ぎ澄ます。
暗闇の中、一条の光を手繰るような感覚だ。少しでも乱れれば、見失ってしまう。
ばさばさ、と鳥がはばたいた。
それを皮切りに――
八弥は、薙刀を振るい始める。
目の前の見えない何かを、必死に打ち倒すように。流れるように、踊るように。