零
――この手紙を読んでいる方へ。
もし、これが読まれているということは、私は既に『それ』の持ち主ではありません。
恐らく、どのような形であれ、私はこの町を離れていることでしょう。そして、どのような形にせよ、もう戻ってくることはありません。
この手紙を読んでいる、あなたへ。
恐縮ながら、私の代わりに、あなたのそばにあるはずの鞄を、届けて頂きたい。
その中に入っているものを、町で一番背の高い、時計台まで。
私には、どうしても、出来なかったことだから。
April.9 In Tokinosaki City.
To My Nameless Dear.
○
八弥は楠木がのこした鞄に入っていた、その手紙を読み返していた。
何度か、こんな風な手紙を読んだことがあったっけ。溜息をつきながら、目を細めて星空を眺める。あのときは、道場の若い男が何人か、こんな手紙をわざわざよこしていった。
父はそれに目を通しては難しい顔をして、母は涙を流していた。八弥も両親の目を盗むようにしながら手紙を見たことがあったが、この楠木の手紙はそれらと、ひどくそっくりだったのだ。
遺書。
八弥の脳裏に浮かんだ、確信めいた一言だった。
出兵した若者たちは、どうしているだろう。遠い空をぼんやりと眺めて、思いをはせる。
かつて自分がいた山は、どのあたりだろう。遠くに見える丘の星の一つ一つまで見えるようで、声まで聞こえてくるようで、あの中のどれかが楠木さんなのかなぁ、なんて八弥は考えたりしていた。
夜風がさぁ、と吹き抜けていく。
八弥は急にすとん、と、何もかもが分かる気がしてしまった。
――こんなところに人がいるとは、思ってもみませんでしたから。
きっかけは、彼からしてみても、偶然だったのだろう。
あるいは、何かの理由が引きあわせたのかもしれない。
――そう、思い出作り……とでも、言いましょうか。
――実は私、近いうちにこの町を出て行くんですよ。
きっと、少しでも町のことを、記憶に刻みつけておきたかったに違いない。
それだけ心配で、そして、大切なことだったのだろう。
――あの時計塔は、どうですか? この町の人々には、愛されていますか?
ずっと、ずっと、この事ばかり考えていたに違いない。
無念だったに違いない。
――私はこの町が好きです。
――八弥さんは幸せですよ。こんな町にいられるんですから。
「…………」
八弥は立ち上がって、再び、鞄と薙刀をしっかりと握りしめ、掴んだ。
彼と話したひとつひとつ、息遣いまで、細やかに思い出すことが出来る。八弥は、もう一度だけ、と丘の向こうに見える星を見つめた。
ちか、と、不意に星が瞬いた気がした。
「あっ」
八弥は思わず声を上げて、足を一歩、引き寄せられるように踏み出し――すぐに足を踏み外しそうになって、危うく元に戻した。ここが不安定な時計台の高く、鉄骨の上だということを一瞬忘れてしまっていたのだ。
星はまだ、ちかちか、と瞬いている。八弥にはそれが、ただ輝いているだけには、どうしても見えなかった。彼女は目を細め、静かに呼吸を止めた。
完全な無表情。
「……大丈夫です」
八弥は、虚空に向かって呟いた。
「ぜったい、やり遂げて見せます」
風に乗せて、声を流していくように。
「待っててください」
――八弥は少しだけ、哀しそうに、わらった。
「すぐ、行きますから」
鞄を持ちあげて、時計台の上を見上げる。
てっぺんまで行って、この鞄の中身にある『荷物』を使わなければいけない。それが、楠木が自分に託したことだ。使命の様なものかもしれない。
八弥は再び、階段を上るために歩みを進める。
これさえできれば、自分は――――
ウウウゥゥゥ、と耳障りな音が聞こえたのは、ちょうどその時だった。
「っ!」
八弥は背筋の凍る思いで、反射的に音の方向を振り返る。
嫌でも聞きなれた、警戒心を煽る音。
誰もいないはずのこの町で、誰がサイレンを鳴らしているのかも分からない。ただ、そのサイレンが意味することはたった一つ。
丘の向こうから聞こえてくる、ばらばらばらばら、という独特なエンジン音。
「こんなときに……!」
空襲が、やってきたのだ。
物好きにも、こんな夜更けに。
静まり返った、この町に。
○
八弥は走っていた。
薙刀と鞄を握りしめたまま、複雑に絡み合う鉄の森を。
空襲の飛行機の音は、だんだん大きくなってくる。こちらに近付いてきているということだ。町にはもう誰もいないのに、どうしてわざわざやってくるんだ、八弥は内心でどうしようもない気持ちを捨て切れなかった。
細い通路をひとつ抜けると、時計台の中心部に辿りつく。
周りを鉄骨でぐるぐると取り囲まれ、外の月の光の一条たりとも入り込んでこない。まるで鉄骨の洞窟だ。八弥は山で空襲を耐えしのいだ記憶を呼び起こし、改めてその暗さにおののいた。
中心には太い鉄柱が一本そびえ立っており――この時計台を支える背骨の様なものだろう――その周りに螺旋階段がぐるぐると巻きついている。階段は銀色に塗装され、手すりも設置されており、五段に一本ほどの間隔で支柱が立てられている。
見上げれば、螺旋階段はとてつもなく長く、柱の先は殆んど見えない。ここを上っていけと言われたら、まるで悪い冗談のように聞こえるかもしれない。それでも、八弥はためらわずに一歩を踏み出した。
駆けあがっていく。
足の裏で金属を叩く音が時計台の中で反響して、かんかんかんかん、と不思議な音を響かせる。その向こうからかすかに聞こえる、ばらばらばら、という音も、八弥にはしっかりと聞こえていた。
「急がないと……!」
八弥は焦り焦り、階段を駆け上っていく。
空襲は無慈悲だ。人も、家も、町の象徴である時計台すらも、一瞬で奪い去っていく。いまこの時計台も、決して例外とは思えなかった。
自分以外には見えていないこの時計台も、空襲に対してはどうなるかは全く分からない。もし爆撃を受けて倒れてしまったりしたら、それこそ一環の終わりだ。八弥の力ではどうしようもない領域で、楠木の遺志がないがしろにされてしまう。
それを避けるためには一か八か、八弥は全速力で走るしかなかった。
息は切れ、足には疲労が蓄積されていく。鈍痛を堪えて目を細め、息は荒くなっていく。
毎日の鍛錬で鍛え上げてきた身体も、大きな荷物を抱えながら階段を駆け上るためにはやや力不足だったようだ。おまけに今は、焦りから呼吸も少し乱れている。
外の景色は見えないが、いったいどうなっているのだろうか。八弥は一瞬だけ、そんな事を気にかけてしまった。空襲の飛行機の音だけが聞こえてくるのは、なんとも居心地が悪いものだ。
そうして一瞬だけでも、意識を外に向けたのが、間違いだった。
がっ、と。
靴底を滑らせ――――八弥の身体が、勢いよくバランスを崩す。
「――――ッ!!」
ゆっくりと、感じられた。
八弥は足を滑らせ、後ろに倒れ込む。
背中と後頭部をしたたかに打ちつけ、「うっぐ」と肺の中の酸素をすべて吐き出してしまったような感覚に陥り、意識が飛びかける。
八弥はなんとか理性を保っていたが――
やがて重力に引かれ、八弥の身体はまるで凍結した雪道を滑るように、下へ下へと引かれて行く。当然、雪道のように平らな道ではない。ごとごとごと、と物騒な音を立てて八弥は階段を滑り落ちてゆく。
痛みと衝撃、そして錯乱で八弥の意識はすでにまともではない。
さらに八弥にとっては不幸なことに、ここはただのまっすぐな階段ではない、螺旋階段なのだった。
――手摺りの支柱と支柱の間から、八弥は宙に投げ出される。
八弥は大分、高い場所まで上ってきている。
万が一、この体勢で落ちたら、頭から真っ逆さまだ。どうであれ、助からない。
「……………………ァっ!」
まともに息も出来ず、声にならない言葉を発しながら、八弥は右手を伸ばす。運よく、それは支柱の一本を掴み、落下することは免れた。
次の瞬間、左手に握りしめていた鞄の重さが、八弥の細い体に襲いかかる。どん、と音がしたような感覚とともに、八弥の身体は力なくだらり、と垂れさがる形になった。
右手一本だけで、全体重と鞄の重さとを支えている形。
八弥は苦しさの余りに呻くように声をあげた。目をぎゅっとつぶり、歯を食いしばる。そうでもしないと、自分ごと落ちてしまいそうなのだ。
右手がぶるぶると震え、焼けるような痛みが走る。八弥は何とかして状況を打開しようと、意識を張り巡らせた。
ただぶら下がっているだけでは、いずれ力尽きてしまう。その前に、鞄だけでも、あるいは自分の身体だけでも、階段の上に載せないといけない。
からん。
遥か下から聞こえてきた乾いた音に、八弥は一瞬、身をすくめた。
なんの音だろう――考えるまでも無かった。
八弥は今、右手で支柱を掴み、左手に鞄をぶら下げている。
つまり、八弥は音の正体である『それ』を、すでに手に持っていないのだった。
山に暮らしていた時から、ずっと大事に持ち歩いていた――あの、薙刀を。
今の音は、薙刀が、下に落ちた音なのだ。
「あぁ……」
ぎゅ、ときつく閉じた目から、涙か汗か、にじむ。
いつだって手放すことは無かった、薙刀。
家も家族も、何もかも失った八弥にたった一つ残された、心のよりどころ。山を下りて旅をしてきたときも、いつも手放すことが無かった。
それも、いま、あっけなく手放してしまった。
左手にぶら下がる鞄の重たさが、ひときわ鈍くのしかかる気がした。溜まりかねて、八弥は鞄から手を滑らせ、うっかり落としてしまいそうになる。
しかし、八弥の反射は素早かった。手を素早く、階段に巻きつかれている柱の方へとものを放り投げるように振る。鞄はほんの短い時間だけ空を舞って、ごとん、と重たい音を立てて階段の上に落ちた。
螺旋階段という構造上、現在八弥がぶら下がっている場所から見ても、下側に階段がある。人がひとり歩いていけるほどなので決して八弥から見て近くではなかったが、それでも、遥か下に落としてしまうよりはマシだった。
身軽になった八弥は懸垂の要領で身体を階段の上に乗せ、それから少し下がり、鞄を回収する。念のために中身を確認する。どうやら中身は、無事なようだ。
元から落としても問題なさそうな物ではあったが、流石に状況が状況だ。八弥はほっ、と胸をなでおろして、それから沈む気持ちを必死に奮い立たせた。
薙刀はもう、手元にはない。
もう、後戻りはできないのだ。




