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螺旋の先

「ただいま、戻りまシタ」

 夜もとっぷりと更け、草木も眠るころ。

 月がちょうど夜空のてっぺんに上ったとき、玄関の扉を開けてクリスが戻ってきた。

「おかえり、なさい」

 八弥は壁に背をもたれて、ぐったりとそう呟いた。

「遅かったですね」

「エト……そうでショウか?」

 クリスは杖で周りを探しながら、器用に畳の上に座り、

「スミマセン、何分時間が分からないので……」

「もう、すっかり夜遅いですよ。そろそろ、日付が……」

「えッ。そ、そんなに、デスか?」

 八弥が頷いたのを確かめるように大きく目を見開いてから、居心地悪そうにクリスは肩をすくめた。

「す、スミマセン……長い間、留守を任せる形になってしまいまシタ」

「気にしないでください」

 八弥はゆったりと微笑んで、それから尋ねた。

「クリスさんは、今まで何を……」

「散歩、デス」

 ちか、と天井から吊り下げられた電灯が少し瞬いた。

「時々、町を歩いて時間を潰しているんデス」

「こんな時間まで、ですか」

「僕には、時間なんて、あってないような物デスからね……ついつい、遠くまで行ってしまうことがあるんデス」

 先生にもよく注意されていまシタ、と冗談めかして笑うクリス。

 八弥には、それがすぐに分かった。彼には時間を知らせてくれる月も、星も、太陽すら見えないのだ。だからこんな時間になっても、気付くことが出来ないのだろう。

「散歩は、楽しいデスよ」

 ふとクリスが口を開いた。

「町を歩いていると、時々、不思議な音が聞こえることがあるんデス」

「不思議な?」

「と言ってモ、実際聞こえる音じゃありまセン。気配みたいなものデス。まるで、隣に誰かが一緒にいて、その人の後ろをついていくような……僕は、それを辿って行くのが好きなんデス」

 隣に、誰かが一緒にいる。八弥はその言葉が、ふいに耳に残った。

 楠木がいて、ゆりがいて、クリスがいる。自分の隣にいた人々は、思い返せば意外と多い。

「羨ましいです」

「え?」

 八弥はつい、口を滑らせるように呟いていた。

「クリスさんには、いろいろな音が聞こえていて……とっても、たのしそうです。でも、私には、なにも聞こえませんから……」

「……、気にすることはありまセン」

 クリスはそこで、やんわりと微笑んだ。

「僕にだって、ヤヤさんに見えているものが見えないんデスから。お互い様、デス。誰にだって、できないことは、あるんデス」

 その言葉は、半分自分に言い聞かせているのかもしれないと、八弥は思った。

「だから、ヤヤさんは見えるものも、大切にした方がいいんだと思いマス。例えば――僕には見えない、時計台とか」

「時計台」

 ぴく、と一瞬だけ、八弥は背筋をこわばらせた。

 クリスはそれを察したのか、一瞬だけ怪訝そうに黙り込んだが、やがて言葉をつづけた。

「僕には、見えまセンからね。時計は僕の人生で、一番縁が無い物デス。本当にそこにあるのなら……僕は、ヤヤさんが羨ましい。綺麗な物ならば、尚更デス」

「…………」

 八弥は何かを言い返そうとするように、少し息を吸い込んで、また吐きだした。

 静かにかぶりを振る。

「……私、そろそろ行きますね」

 八弥はそう言って立ち上がり、セーラーのスカートの裾や襟元を簡単に正す。

「行く? ドコにデスか?」

 クリスは目を丸くしているようだったが、八弥は気にしていなかった。


 開きっぱなしになっていた黒い鞄を折りたたみ、ぱちん、と金具で鍵をする。


「ちょっと、行かなきゃいけない所があるんです」

 鞄と薙刀を手に持ち、玄関に歩き出した。

「いろいろ、ありがとうございます。楽しかったです」

「ヤヤさん」

「大丈夫です、心配しないで」

 玄関の扉を開けて、最後に振り返った時、クリスは不安そうに八弥を見上げていた。

 八弥はそこで、精一杯の『笑顔』で一言告げた。


「すぐに、戻ってきますから」


 最初で最後の、嘘だった。

 八弥は後ろ手にばたん、と扉を閉め、町にたった一つ灯る光から逃げ出したのだ。

 自分の影がどんどん、長く伸びて行った。


  ○


 八弥は元々、中学生だ。

 成績で遅れを取ることは無かったし、どちらかと言えば勤勉な方。友人こそ少なかった彼女だったが、一般的な教養こそあるはずだった。

 だから八弥には、黒い鞄の中が一体何なのか、特に深く考えなくとも一目でわかったのだ。


「はぁっ……はぁっ……」

 八弥は息を切らしながら、ようやくの思いで時計台の足元にやってきた。

 クリスの家から見た時は随分近くに見えたはずなのに、いざ来てみるとかなり遠い。八弥は何十分と走り続けたので、鞄をごとん、と勢いよく地面に下ろして息を整えた。

 大分呼吸を整えたところで、八弥は空高くそびえる時計台のてっぺんをもう一度見上げた。

 白く伸びるそれは、天まで届きそうなほどだ。星空を支えているかのように、しっかりと自立している。

「えと……」

 八弥はためらいなく鞄を開き、その中から一枚の紙を取り出した。

 しばらくそれに目を走らせる。何度か眉をしかめたが、やがてうん、とひとり頷き、それをスカートのポケットにしまいこんだ。

 八弥は真っ直ぐに、時計台の入り口を目指す。

「……ハハ」

 歩きながら、力無く笑う。

「やっぱり……そうなんだね」

 何かを諦めるように。

 八弥は実家の道場に通っていた年上の、ある青年の事を思い出した。ちょうどクリスと同じ年の頃で快活な性格だったが、ある日、何かを諦めたような笑顔を浮かべて挨拶に来たのを覚えている。

 きっと、自分も同じように笑っているんだろう。八弥はもういちど、はは、と短く笑った。

 気付いていたのだ。こんな真っ暗闇の中、頼りない月の明かりだけで、ただの紙に書かれていることが読めるはずがないことを。


 駅の中に入ったところで、八弥はもう一度、スカートの中の紙を取り出し、暗闇の中にいることを感じさせないほど不自由なく目を走らせた。

 紙面の上に広がるのは、時計台の設計図の様なものだった。

 時計台は全部で7階建てで、駅舎から時計台に入るためにはどこに行けばよいか、時計台の中をどのように進めば良いかが事細かに書いてあった。

 八弥はその通りに進んでいく。片手に薙刀、片手に鞄を握りしめて。

 駅舎から駅員の休憩室に入り、そこから時計台の中に入ることが出来る。

 いつか出会った駅員の姿は無く、それどころか駅舎の中に入ってから、誰ともすれ違うことが無い。この町は改めて、完全に無人になってしまっているようだった。

 休憩室の扉を開くと、鉄筋で支えられた時計台の土台、その間を縫うように細い道が出来ていた。鉄骨で作られた、細い細い小道。

 八弥はそこを、身体をひねったり、頭を下げたりしながらゆっくりと進んでいった。

 大きな鞄に、長い薙刀。進む上では不自由極まりないものだったが、八弥はそれでも手放さなかった。まるで、自身の半身であるかのように。

 時計台の中がここまで入り組んだ場所とは、八弥は思いもしなかった。一種の息苦しささえ感じられた。

 やがて進んでいくと、鉄骨に据え付けられた階段を見つけ、ためらいなく足をかける。上の階に進んでもやることは同じで、少しずつ少しずつ、前進していくだけだった。


 ふいに、八弥はこれまでに起こったこと、ひとつひとつを思い返すようになっていた。楠木に出会ってからのこと、ひとつひとつを。

 迷路のような通路を歩きながら、八弥は思う。

 殆んど何もせず、誰とも関わりを持たず、――それこそ死んだような自分の人生が、ここ数日で大きく変わっている。

 全ては、この黒い鞄の持ち主から始まったことだ。彼はずっと内向きに塞ぎ込んでいた自分に、外の世界の話を聞かせてくれた。うなだれていた自分の視界を、真っ直ぐ前に向かせてくれたのだ。

 幼い少女と出会った時は、無邪気な言葉と振る舞いが新鮮だった。浮き足立っていた様な自分をしっかりと、地に立たせてくれた。彼女が母と再会したのを見たときは、嬉しさと別な感情が半分ずつ。

 目の見えない青年と出会って、見える物だけが全てじゃない事も分かった。けれど、見える物を大切にしなさいとも、彼は言った。言葉ひとつひとつが幻想的で、八弥にとっての新しい世界だった。

 それから、握りしめた鞄の重さがのしかかる。どうして自分はこの鞄を持ち主に届けないといけなかったんだろう、そんな事を考えるようになった。

 最初は、ただ持ち主が困っているから、それだけのことだったと思う。けれど、今は違う。これは八弥が、ちゃんと運ばないといけないものなのだ。

 きっかけは偶然だったかもしれない。

 楠木だって、実際あんなところに人がいるなんて、考えもしなかったかもしれない。今となっては確かめる方法も無い。八弥は少なくとも、あの場所に人が来るなんて考えもしなかった。

 何が自分を、そうさせたのだろう。

 気が付くと、八弥は無心に進み進んで、5階まで上って来ていた。全力で走ったばかりの体力は既に尽きかけていて、鉄骨の上にへたり込んだ。

 ちょっと休憩、と呟いて、八弥は時計台からの景色を眺めた。

 鉄骨が複雑に組まれただけの通路からは、簡単に外の景色を眺めることが出来る。八弥は体育座りで、町と夜空とを交互に眺めた。

 随分高くまで来たようで、家や道路はとても小さく見える。ただ、そんな中でも灯りの灯っている家は全くない。完全に真っ暗だ。

 夜空を見上げてみれば、まさしく目と鼻の先に星と月とが見える。

「高いなぁ」

 八弥は気の抜けた感想を呟いた。

 夜風がふわり、と前髪を撫でる。ただ鉄骨の上に乗っている構図の八弥は、一歩間違えれば真っ逆さまに下に落ちてしまいそうだ。首だけで下の様子をうかがって、すぐに引っ込めた。

 ふと、八弥の脳裏にある企みが浮かび上がってきた。ここから飛び降りてみたら、どうなるだろう。

 今の自分がこの高さから落ちたら、痛いのか、怖いのか。

 風に撫でられながら、八弥は立ち上がり、黒い鞄と、薙刀とを握りしめて、また歩みを進めた。

 少なくとも、今はまだその時じゃない。

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