虐げられ王女のアタシは最強竜王様の運命の番(一人称)
王宮大広間に集った貴族たちのざわめきが、アタシの真珠のような耳をすり抜けていく。アタシ——ビューティーは、壁際の柱に背を預けて、賑やかな宴席を眺めている。
今夜はお父様のヴァルデス国王の即位二十年を祝う大夜会だ。異母きょうだいたちが中央の舞踏場で踊り、笑い合っている。
金髪のアーデル兄様、彼と同母のマリアンヌ姉様、赤毛のリナーリア姉様。みんなきれい。快活な声は弟のロルド。……お父様の二十人の愛妾が産んだ子どもたちは、みんな仲がいい。乳母たちも仲良し。愛妾たちも。居間を共有し、食卓を共にし、美しい薔薇園や中庭で泥だらけになって追いかけっこをした。
ただ一人を除いて。
アタシの母——第三側妃エイラは、身分の低さを理由に後宮でいつも端に追いやられていた。他の側妃たちから陰口を叩かれ、使用人たちにいじめられていたわ。アタシを産んだ翌月、産褥熱に倒れてそのまま死んじゃった。アタシが物心ついたとき、母はすでにいなかった。残ったのは薄い肖像画と、お父様の愛だけ。
アタシがお父様に愛されているんで、異母きょうだいたちはアタシをいじめた。ひどい。
でも、あの子たちも悪い子じゃないのよ。アタシを愛するお父様のため、アタシ、あの子たちを許してあげる。
ただ、あの輪の中に飛び込んでいく理由を、ずっと見つけられずにいるわ。だってアタシ、お父様に一番愛されたお母様の娘なんだもの。奴らと格が違うわ。
グラスのぶどう酒を口に運んだ瞬間、広間がざわめいた。
扉が開いた。
正確には、砕けた。
石造りの大扉が内側から吹き飛んだのだ。そして紫紺の外套をまとった長身の男が、粉塵の中から歩み出てきた。なんて美貌なの……! こんなに綺麗な顔の男の人、見たことない!
その背には折りたたまれた漆黒の翼。額には金の角が二本。肌は日焼けした褐色で、銀色の髪がくるくる渦巻き、肩まで流れている。その瞳は燃えるような琥珀色。
それが、まっすぐに。
まっすぐに、アタシを見ていた。
「竜王陛下……!」
誰かの悲鳴に似た声が上がった。そうか、とアタシは妙に冷静に思った。あのお方が竜王ジルヴェスト。天空に浮かぶ竜族の王城テシェンを統べる、世界最強種族である竜族の王なのね。
彼はアタシ以外の誰も見ていなかった。
騎士たちが槍を向けるのなんて意に介さず、ゆっくりと歩み寄ってくる。異母きょうだいたちは逃げ出したわ。でもアタシは逃げなかった。逃げるなんて頭に浮かばなかった。
だって――アタシには、わかってた! 彼がなんでここにきたのか!
「見つけた」
低い声が、耳のすぐそばで降ってきた。気づけば彼はアタシの目の前に立っていて、その琥珀色の瞳がアタシの顔を舐めるように見つめている。
「あなたが……アタシを?」
「番の気配を三百年追い続けた。ようやく辿り着いた」
番。
竜族の番とは、魂で結ばれた生涯の伴侶のことだ。彼らは番としか子孫を残さない。あらゆる種族に転生する番だけを求め、その魂を永遠に老い続ける。
彼は大きな手を差し伸べた。こげ茶の指先に、鱗の名残の光沢がある。
「来てくれるか、ビューティー」
アタシの名を知っていた。それだけで、なぜか涙が出そうになった。この人は最初から、アタシの名前を知っていたのだ。
みんなから虐げられ、いじめられ続けたかわいそうなアタシのことを、この人は最初から求めてた……。
アタシはその手を取った。
竜王の翼に抱かれて空を飛んだことある? 最高の経験よ!
雲を抜けた先に、それはあった。
白と金の尖塔が何本も空に伸び、滝が逆さまに天へと流れ落ちている。虹色の橋が島々をつなぎ、夜空に輝く。暗い中を輝く翼を羽ばたかせ竜族たちが自由に飛び交う——天空城テシェン。
「綺麗……」
思わず声が出た。ジルヴェストが愛おし気にアタシの髪の毛を撫でる。
「お前が来てくれて、城も喜んでいる」
出迎えた竜族の臣下たちは、最初こそ人間の番を訝しむ目で見ていた。しかし竜王が一喝すれば、アタシを傷つけようとする者は一人もいなかった。侍女頭のウルラは、翼の生えた老婦人で、アタシに城の案内をしながらこっそり囁いた。
「王が番を見つけたのは、我らも嬉しゅうございます。長い間、あのお方はずっと一人でしたから」
三百年も、一人で。
アタシの十七年とは比べるべくもないけれど、それでも——孤独の形が似ている気がして、胸が痛んだわ。
与えられた部屋は、夜空を切り取ったような天蓋の寝台と、地上が一望できる広いテラスを持つ、夢みたいな場所だった。
あっという間に季節が過ぎた。
ジルヴェストは寡黙だったが、嘘をつかなかった。アタシが泣いた夜には、何も言わずに隣に座っていた。アタシがかわいそうなお母様のことを話すと、黙って聞いてくれた。
アタシがどうしてアタシなの? と問うと、
「魂が呼んでいた。理屈ではない。ただ、お前でなければならなかった」
完璧な答えである。アタシには十分以上だった。
ある朝、テラスに出ると、彼がいた。手を差し伸べてくれた。アタシはその手を取った。
アタシは——あんなに虐げられていた、きょうだいの中で一番綺麗だったアタシは、ようやく、アタシにふさわしい場所を見つけたのだ。
***
手紙が届いたのは、薔薇の季節の終わり頃のことである。
差出人の封蝋には、見慣れない紋章が押されていた。黒い竜が翼を広げ、その爪に星をつかんでいる。天空城テシェンの紋章だった。
わたし——アリアンヌは、ラノワール王国の女王として、そしてヴァルデス王の第一正妃が産んだ娘として、その手紙を開封した。
「竜王妃ビューティー・テシェンより、ラノワール王国への友好訪問の申し出……」
侍女頭のセルフィーヌが読み上げる声を、わたしは静かに聞いていた。
ビューティー。
その名前を、口の中で転がしてみる。異母妹だ。前王であり父であるヴァルデス王、今は隠居して前王殿下だが、とにかくわたしが育ったのと同じ宮廷で、第三側妃の娘として育った……というべきか、否か。
わたしたちきょうだいは、みんな同じ教育を受け育った。庭を走り回り、食卓で笑い合った。ビューティーも、最初はその輪の中にいた。しかし彼女は、いつしか輪の外に出ていった。自分から。
父はビューティーを溺愛していた。特別に膝に呼び、特別に名前を呼び、特別にものを与える。それが当然だというように。
まあ別に、それはいいのだ。我々に愛を与えるのは乳母だとか、長じてのちには恋愛指南役になるべくやってきた『家庭教師』だとか、なんなら性処理役の同性の使用人だっている。父も当然、同じものを所有していて、だが国王という重圧の元、それだけでは物足らないことだってあったろう。
ビューティー、あの子は父の埋まらない心の隙間を埋めてくれた。だからいっそのことわたしは、彼女に感謝しているくらいだ。
「ロルド、少しよろしくて?」
手を叩いて呼ぶと、ロルド=アーケティル侯爵、今は臣下に降って余っていた侯爵家を継いだ異母弟がやってくる。
「はい、女王陛下。御用ですか?」
「ええ。ビューティーの肖像画はあって?」
「ビューティー。ビューティー……ああ、ビューティー姉上ですね。はい、倉庫を探せば何枚かは残っていると思います。懐かしい。ヴァルデス前王様は、よくよくあの方を溺愛していらっしゃいましたねえ」
彼は目を細め、すぐ持ってまいりますと立ち去った。
わたしはインク壺を見つめながら考え込む。――あの子の顔を忘れてしまっただなんて、まったく困ったことだ。異母妹だというのに。
「クリスティーナ」
「はい、女王陛下」
独身のまま侍女として仕えてくれている異母妹を呼ぶ。彼女はたっぷりしたドレスのひだをかき分けるようにして頭を下げる。
「ビューティーが竜族に嫁いでから、何年になるのだったかしら?」
「姉上様――失礼いたしました、女王陛下。いいえ、あれは嫁いだなどというものではございません。まったくも乱暴に、我が国から仮にも王女を攫っていった竜族の蛮行でございます」
「ええ、ええ。わかっていてよ。それで、何年?」
まったくこのいもうとはロルドと違って自分の主張をしすぎるきらいがある。そんなところもかわいいのだけど。何より裏切らないと確信できるし。
ええと、とクリスティーナは眉をひそめた。侍女頭のセルフィーヌがそのスカートの裾をせっせと直した。
「確か……ああ、もう十年になりますね」
「十年」
「正確には九年と八か月ですよ」
戻ってきたロデルが肖像画を侍従にもたせ、わたしに見えやすくしてくれる。
「ああ、そうだったわ。こんなお顔の子だった」
「女王陛下、ロデル……いえ、アーケティル侯爵様。急にどうなさったのですか? ビューティーのことなんてわたくし、忘れておりましたわ」
クリスティーナにまったく同感だ。わたしは誰にというわけでもなく頷いた。
「彼女がここに来たいと言っています」
「えっ」
「うわっ」
きょうだいたちは同じしかめっ面をして顔を見合わせる。それだけで、ビューティーの対外的な評価はしれたというもの。
……父の愛を独占しているからといって、わたしたちは彼女を疎んじたつもりはなかった。だが彼女は何かあるとすぐに癇癪を爆発させ、泣きわめき、自分は不幸なのと金切り声で叫んだ。
「アタシのお母様が死んだからみんなアタシにいじわるするんでしょっ!」
という、絹を裂くような悲鳴を思い出す。
——ロルドが大切にしていた銀の馬の置物が消えた夜、リナーリア姉様のハンカチが泥の中に浮かんでいた昼、アーデル兄上の書棚から本が抜き取られていた朝。クリスティーナが頬を腫らして泣いた日のこと、まだ赤ちゃんだったピューネの髪の毛がひき毟られていたことにその母親が絶叫したこと。
誰も、声に出して言わなかった。
唯一の正妃である母はビューティーを呼び出してなんとか矯正しようとしたが、そのたび父ヴァルデス前王はビューティーではなく母を罰した。
みんなが少しずつ、ビューティーの隣から離れていった。
そしてビューティーは、自分が避けられているのは母がおらず、またその身分が低かったせいだと、ずっとそう思っていたようだった。乳母や家庭教師でさえ彼女は父にねだってクビにしたので、まともな教養は備わっていないだろう。
手紙を閉じる。
「日程を調整して、受け入れ準備を」
「はい。その、どのような立場の方として——」
「竜王の使者として迎えなさい」
セルフィーヌがぎょっとした顔をする。きょうだいたちも言いたいことがありそうだ。
すべて無視して、わたしは窓の外に視線を移した。ここにはよいものばかりだ。薔薇園。中庭。きょうだい。思い出。
――彼女はなんの要件なんだろう?
***
ビューティーは美しかった。それは素直に認めよう。
竜王城での暮らしが合っているようで、以前より血色がよかった。以前のように猫背で恨みがましい目つきをするのではなく、背筋がしゃんと伸びて気取ったまなざしである。サテンの紫紺のドレスに身を包み、竜族の刺繍をあしらったマントがたなびく。まるで絵画から抜け出たようだった。
わたしはラノワールの女王として、謁見の間の玉座に座り、彼女を迎えた。
「ようこそ、ラノワールへ。竜王妃殿下」
「……アリアンヌ」
彼女はキリッとした目でわたしを呼び捨てにする。その目はよく知っていた。……ああ。少しは変わったかと思ったのに。十年も経っているのだから。
無礼な、と誰かの声がした。謁見であるからには、見届け人となる貴族が部屋のすみずみに散っているものだ。ビューティーは彼らをも順番にギリッと睨みつけた。
「此度はご訪問いただき光栄です。世界最強の種族の王妃様をお迎えできるとは、なんと幸運なことでしょう。歓迎の晩餐を用意しております。諸侯との顔合わせは明日の午後に——」
「ちょっと待ってよ!」
ビューティーがザッと一歩踏み出した。背後に控える、わたしの侍女たちが緊張するのがわかった。
「アタシ、あなたの妹よ。なんでそんな他人行儀なの」
「王妃殿下」
とわたしは壇上から静かに言う。
「こちらはラノワールの公式謁見の間です。竜王国との外交の場として、礼を持ってお迎えしています」
「何言ってんの? そんなこと聞いてない。なんて降りてこないの? なんで? アタシ、竜族の王妃なのよ。妹なのよ。それとも……それともっ、やっぱりアタシのこと家族だって認めてないんだ? ひどいっ、ひどおぉい……辛い、アタシ、辛いっ」
彼女の唇がわなわな震え、ひっくと泣きじゃくる。
嘘でしょあんた今いくつ?
と思いつつ、わたしは侍従頭に頷いてみせる。心得た彼は、ほとんど強制的な恭しさをもってビューティーを謁見の間から連れ出した。あとには貴族たちのざわめきが残された。
その夜、晩餐は滞りなく進んだ。
ビューティーは会場で一番豪華な身なりをしていた。壁際と自分の後ろに煌びやかな鱗の竜族を侍らせている。王城テシェンから連れてきた竜族の護衛や侍女たちを全員並ばせたらしいとあとで聞いた。
諸侯に囲まれ、竜王城の話を求められ、にこやかに社交的に喋っていた。
やればできるのだ、とわたしはほっとした。
ただ彼女は、その場でわたしを何度も目で探した。わたしはその度に、にこやかに別の方向へ視線を向けた。
翌日の昼過ぎ、ビューティーの侍女がわたしの元へ申し入れに来た。
「竜王妃殿下が、離宮のご見学をご希望です」
離宮。白亜の塔と水庭で名高い、わたしが女王になる前から自ら指揮して整えてきた場所だ。王女時代も、女王になってからも、心許した人以外をそこに入れたことはなかった。手ずから花を植え、小鳥を放ち、きょうだいや友人とだけ訪れる、わたしの小さな楽園。わたしがわたしになれる場所。
「あいにく」
とわたしは微笑む。
「本日は諸侯との会議が詰まっております。離宮の公式見学は、次の訪問の際にご調整いただけますでしょうか」
侍女が下がった後、セルフィーヌがそっと声をかけてくる。
「……よろしかったのですか」
「何が?」
「あれではまた、申し入れてきますでしょう」
「入れないし、その前に帰らせる」
わたしはきっぱりと言う。
「あとで薔薇の数が足りなくなっては困るでしょう?」
ご機嫌取りに、侍女たちがくすくす笑った。セルフィーヌも珍しくくすっと笑い、肩をすくめた。
「差し出口をお許しください、女王陛下」
「ふふっ」
ビューティーはその後も何度か離宮への立ち入りを申し入れ、ときには本人がわたしの前に立ちふさがって要求することもあった。わたしは頑として受け付けない。もう女王なのだ。この国の頂点。
竜族の王妃といえど、なんておこがましい。
そもそも竜族には、人の世に関わらない盟約がある。世界最強の種族ゆえに、その力を悪用されれば我らはひとたまりもない。よって、番探しとごく限られた用件以外で、彼我が交わることはない。
ビューティーはあらゆる意味で例外だったが、それだけである。
ようやく彼女が帰る日が近づいてきた。出発の前の朝、彼女は一人でわたしの部屋を訪ねてきた。侍女もなしで、強引に押し入ったといっていい。
わたしは仕方なく、侍女たちを人払いする。
「ねえ、アリアンヌ」
「王妃殿下」
「……やっぱりアタシのこと嫌いなんだ。なんでこんな意味のないいじわるするの?」
彼女は心から悲しげである。本当に、そう思っているのだ。不当に貶められる自分という幻想を信じているのだ。
わたしにはその幻想を解いてやる義務はない。それは父にある。
だが言葉は勝手に口をついて出た。
「ロルドの銀の馬を覚えていますか」
ビューティーは息を呑む。
「あの子、ずっと探してたんです。十二歳の誕生日に亡くなったお祖父様からもらった、唯一の形見だったから」
「は? 何年前のこと持ち出してんの? そんなことでしかアタシを攻撃できないんだ。あんたって……ほんっとーに情けない」
はあーっと大きなため息、ビューティーは大げさに髪をかき上げる。彼女は老けない。竜族の番だからだ。長く子供を産むため、彼らは番の時を緩やかに引き延ばすのだという。ビューティーはたぶん、百年くらい若いまま生きるのだろう。
ところで、もしも彼女が自分の若さを誇示してわたしたちを苦しめたかったのなら、もう三十年くらい待つべきではなかっただろうか? と思いながら、わたしは続ける。
「あなたが持ち出したことは、誰も言わなかったのよ。証拠がなかったし、あなたがかわいそうだったから」
「ハァ!?」
彼女は癇癪を起こす前の仕草をした。ひっく、としゃくりあげ、泣き声で誰かを呼ぼうとする。
呼びたい人がいるなら、呼びかける方がいいのに。
そうすればその人がどれほど自分の声に注意を払ってくれているか、わかるだろうに。
「わたしたちはずっと、あなたに歩み寄ろうとしていたわ。でもあなたはいつも、自分が被害者だと思っていたわね。……竜族のところでは幸せそうで、よかった」
本心である。
「アタシが羨ましいからって僻みっぽい……」
と、ビューティーはなんとか言おうとした。
何か彼女の心に引っかかったのかはわからない。だってこの子は若いままなのだし、その心もおそらく十年前と同じままだ。だが何かが、故郷の何かが、彼女の琴線に触れたなら――それはたぶん、いいことだ。
がんばれ、と思った。ちょっと意地悪く。
がんばれ、ビューティー。
いつかわたしたちくらいに成長できるわよ、きっと。アハハ。
「アタシ、あんたがババアになっても若いのよ?」
「ええ」
「アタシ、毎日カレに愛され過ぎて眠れないくらいなの」
「よかったわね」
「あの離宮よりもっといい庭園をアタシは持ってる。造ってもらった!」
「そう。ならばそちらへお行きなさいな」
異母妹の一人であるエリーザベトが衣擦れの音もひそやかに入室してきた。彼女もまた独身のままわたしに仕えてくれているので、他の侍女たちと違ってわたしの命令を聞かなくても罰されることはない。何を置いても身分がもの言うこの時代、王族なのだから。
ビューティーはそっちを睨んだが、続けてクリスティーナと愛犬のブラウンシュガーがやってくると黙った。はくはく口を開け閉めしたまま、わたしたちを睨んで棒立ちである。
二人は何やらゴシップを喋り散らしながらカーテンを開け、部屋を陽光で満たした。ブラウンシュガーが楽し気に庭を駆け回り始めた。
エリーザベトが飼っていた猫を、懐かないからと言って父に頼んで殺させたことをビューティーは覚えているだろうか? 決して目を合わせようとしない異母妹の、全身から立ち上る憎しみを感じるだろうか?
クリスティーナが、異母弟のオイゲンが来ていると告げた。
「入れなさい」
「おはようございます、女王陛下。今日もよい朝ですね。さて、本日のご予定を申し上げます」
彼はわたしの身辺警護をする武装侍従武官の一人である。結婚したので身分は下がったものの、変わらず国とわたしに仕え続けてくれている。
今日も忙しい。予定を聞きながら、わたしは頷き、わからないところは指摘し、エリーザベトが淹れてくれた紅茶を飲む。
続いて異母弟のフリードリヒ・ベルロッツ伯爵が入室し、産後の肥立ちが悪く寝込んでいた。妻ヴィルヘルミナがやっと全快したことを伝えてくれる。
わたしたちきょうだいは喜びに沸く。
ビューティー以外が。
「ひどい……ひどい……っ。アタシのお母様がもういないこと知って、そんなこと言いに来たんだ……」
と呟く彼女を顧みる者は誰もいない。
何しろもう父は隠居の身。王宮ではない遠い辺境で今日も鏡を見ていることだろうから。
しばらくぶつぶつ言っていたビューティーが、ようやく踵を返したのはどのくらいあとだったか。わたしはそのとき、朝の会議に向かうため部屋を出ようと侍女を呼んだところだった。
「おかえりですか。よい旅を、殿下」
わたしはそう言って、ビューティーの背中へ深く礼をした。彼女は振り返っただろうか? 振り返って、わたしを睨んだのだろうか? ま、どうだっていいことだ。
わたしたちはわたしたちの時間を生きる。彼女は彼女のそれを。
人生ってそういうものじゃない?
彼女の翡翠色の竜が空へ舞い上がったとき、翼が旋風を巻き起こし薔薇園の花が散ってしまった。なので今、王宮には彩りが少ない。
新しく何を植えようか、みんなで頭を悩ませている。
完




