第8話 トイレとシャワー
「あなた、アンヘル!?」
お母さまが答えた。そして駆け寄ってくる、アンヘルという男の人。
「ゼナから聞いた。君が帰ってきたと聞いて。事情も少し聞いたけど、まさかこんな所で……」
だけど、お母さまは笑う。
「お笑いでしょ? 公爵家の身分を笠に着て、お高くとまっていた女が、こんな所で明日のパンにも困っているなんて!」
すると、その男の人は、お母さまに抱きついてきた。
「――アンヘル??」
「すまない。アンリットの親友がこんな目に遭っていたなんて……。アンリットのために駆けつけてくれた恩は忘れていない」
「だけど……私は何もできなかったわ。――ほら、男爵家の跡継ぎが、こんな所でみすぼらしい女を抱いてたら噂になるわよ。離れて」
そう言って、お母さまはアンヘルさんを押しやる。
「すまない。君への憐れみではないのだ。ただ、どうしようもない気持ちが溢れて……」
「ええ、わかってる」
「そういえばイングリドは一緒じゃないのかい? いつも一緒だったのに」
「彼女は危ないと思って、先に嫁ぎ先へ逃がしたわ。――それにしても大きくなったのね。力も強くなってて驚いた」
イングリド――お母さまの側仕えを務めていた。リガノを立つ少し前に暇を出された。美人だし、優しいから大好きだった。
「そうかい? この年なら皆こんなものだと思うよ。それから私は、男爵家の跡継ぎではないよ。今はただの文官として、男爵家からは離れて暮らしてる」
「どうして?? あなた、あれほどオルサバル家を継ぐと……」
「情けない話さ。アンリットのことが忘れられなかったんだ。アンリットに貰った祝福を活かそうと、王都の建物の設計に関われるよう、文官になった。父も今は第十騎団の団長を退いて、領地へ帰っている」
「そうなのね……あの子は、いちばん大事な人を置いて……」
「大丈夫。今は新しい仕事が楽しくて仕方がないんだ。――そうだ、うちへ来ないか? 独り暮らしだし、片付ければ部屋は空くんだ」
「それは…………できないわ。あなたに養ってもらう義理はないもの」
「では、住み込みで部屋の管理を頼めないか? それとも、公爵家のお嬢様には難しいか?」
「言ったわね、アンヘル!――けどやっぱりできないわ。娘とエドの面倒もみないと」
「ハハッ。奥様、あたしのことは心配しないでくだせえ」
でも、お母さまは頭を振った。
「エドは料理が得意なのよ。祝福がないから雇ってもらえるところがないだけで」
「なら、私に雇われてはくれないか? 忙しくて、まともな食事を食べてないんだ」
「そりゃあ、願ってもねえ!」
3人が笑って話してる。私は、奥へ引っ込んでた。
「アンリエット、いらっしゃい。こちらはアンヘル。古い友人なの」
「アンリエット?」
「ええ、あの子から名前を貰ったの。日に日に髪が黒くなって、どこかあの子みたいでしょ?」
「本当に。昔のアンリットを思い出すよ。――初めまして、アンリエット。私はアンヘル・ワリアン・オルサバルと申します。お見知りおきを」
「…………恐れ入ります。アンリエットと申します。こちらこそ、お見知りおきを」
アンヘルさんは微笑みで返した。
私たちは、アンヘルさんの家へ引っ越すことになった。
◇◇◇◇◇
「すまないね。オルサバルの屋敷は手放してしまって、今は平民街に棲んでるんだ」
王都の大きな建物が立ち並ぶ街。その建物のひとつの入り口をくぐると、建物の中にまた玄関があった。その玄関は狭いけど、中はちょっと広くなっていて、上りと下りの階段。
「気にしないで。思ったより広いくらいよ」
「この辺の部屋を使ってくれていいのだけど……」
けれど、アンヘルさんが押し開けた扉は中の物に引っかかる。その向こうには、長櫃とか封筒とか、まだ開けられていない包みが積まれていた。
「なるほど、これは働き甲斐がございますね。ご主人様?」
お母さまが声色を変えてそう言うと、アンヘルさんは苦笑いした。
「あはは…………、それよりもこっち。こっちを見てくれないか」
アンヘルさんは、別の部屋へ案内し、戸を開ける。
そこはタイル張りの小さな部屋で、銅色の変な形の壺がふたつ。
「これは?」
「トイレだよ! アンリットが欲しがってた、個室のトイレ! しかも城の落下式便所みたいなのじゃなくて、水で流せるんだ」
「これがそうなのね。あの子が欲しがってたものね……。この隣のは?」
「こっちはまあ、お尻を流すのさ。ああ、淑女方の前で失礼。――あとはこっち」
楽しそうに、子供みたいなアンヘルさんが別の部屋へ案内する。
「――これを見て」
「これは?」
「これが散湯口だよ! アンリットが作らせたものを参考にしたんだ。魔鉱を使ってお湯が出るんだ。この建物全体、どこでもね! 風呂は狭すぎて無理だったけど、街には公衆浴場があるから、そっちで入れる」
「公衆浴場というのは?」
「大勢で入れるお風呂だよ」
「大勢でお風呂に!? 服を脱いで!?」
「そりゃあそうさ。服を脱がなきゃ風呂には入れない」
「恥ずかしくないの??」
「南部では珍しくないそうだよ。それを取り入れたんだ。市民なら無料だし、市民権がなくてもたったの銅貨2枚で入れる」
「でも私……男の人の前で裸になんてなれないわ……」
「ああ、いや、男湯と女湯はもちろん別れてるさ! 当たり前だろ!」
お風呂は苦手だけど、アンヘルさんが楽しそうに話すので、ちょっと興味があった。
それから私は、寝床を作るためにお母さまを手伝った。




