見えない過去、歪められた真実
夕闇が迫る森の小径。馬を降りたマーレは、一人でラクスの家へと歩みを進めた。 ファロスには少し離れた場所で待機するよう命じている。今の自分には、領主としての護衛も、親友としての気遣いも、少しだけ重すぎた。
「……あら。マーレ様?」
扉を開けたラクスは、薬草を乾かしていた手を止め、驚きに目を見開いた。 彼女の指先には緑色の汁が滲み、部屋の中には、あの発作の夜に自分を鎮めてくれた、冷涼で懐かしい香りが満ちている。
マーレは答えず、ただじっと彼女を見つめた。 カイルがあれほど激昂し、先代が何かを隠すように目を逸らした、あの二年前。その中心にいたはずの彼女は、今、何もなかったかのように静かに微笑んでいる。
『少し、寄りたくなった。』
手帳に書かれた文字を見て、ラクスは僅かに目を細めた。 それは、慈しむような、けれどどこか遠くを見るような切ない眼差しだった。
「お疲れのようですわね。……今、お茶を。いつもの、少し苦いものでよろしいですか?」
マーレは頷き、慣れ親しんだシェーズロングに腰を下ろした。 彼女が背を向けて茶を用意する音。衣擦れの音。 そのすべてが、欠け落ちた記憶のパズルを刺激する。
(……私は、こうして何度も、君の背中を見ていた気がする)
ラクスが差し出した茶を一口飲むと、喉の疼きが、驚くほど静かに引いていった。 彼女は言葉を交わさずとも、彼が今、何を必要としているかを完璧に理解している。その「完璧な理解」こそが、今のマーレには、美しくも残酷な謎だった。
彼女はまるでそう決まっているかのように当然のごとくマーレの隣へ腰を下ろす。
(そう、この距離だ。)マーレは覚えていなくてもマーレの身体は彼女との距離感を覚えていた。
無意識に彼女の細い手首に触れた。 びくり、とラクスの肩が震える。
『君は、あの日も、私の傍にいたのか。』
手帳を突きつけるマーレの瞳には、飢えたような切実さが宿っていた。 ラクスは一瞬だけ、悲鳴を上げそうなほどに悲しげな顔をしたが、すぐにそれを穏やかな仮面の下に隠した。
「……私は、あなたの魔女ですから。いつだって、傍に。……さあ、城へお帰りください、マーレ様。皆がお待ちですわ。」
突き放すような言葉とは裏腹に、彼女の指先は、名残惜しそうに彼の袖を微かに掠めた。 マーレはそれ以上問い詰めることができず、重い足取りで森を後にした。
城に戻ったマーレが向かったのは、深閑とした地下書庫だった。 埃っぽい空気の中、彼は二年前の「就任式」の公式記録を取り出した。
『聖なる光の加護の下、マーレ・フォン・ヴァルデム、第十四代領主として就任。式典中、突発的な大気の乱れにより、精霊の怒りが発動。領主、喉を負傷。……以上。』
あまりに簡潔すぎる。 前後の式典の準備や、参列者のリストは数ページにわたって詳細に書かれているのに、肝心の「事故」の瞬間だけが、まるで誰かがページを破り、無理やり書き直したかのような不自然な余白に満ちていた。
マーレは、記録を担当した執筆官の名を確認した。 ――セバス・クロムウェル。 父の代から仕える古参の文官だ。だが、その名は、最近提出された別の予算報告書にも頻繁に登場している。
(……書き直されている。それも、組織的にだ)
自分を救ったはずのラクスの名も、あの日の詳細な被害状況も、そこには一行たりとも記されていない。 マーレは、暗い書庫の中で、熱を持った喉の傷を強く押さえた。
「……旦那。やはり、ここにいましたか。」
影から現れたファロスの声は、いつになく冷え切っていた。 その手には、先ほどカイルの使いから密かに届けられた、一通の封筒が握られていた。
「ベルンハルトの若獅子からの『お見舞い』です。……公式記録には載せられなかった、あの日、隣領の観測塔が捉えた『本当の記録』ですよ。」
マーレは封筒をひったくるように受け取り、震える指で封を切った。中から現れたのは、ベルンハルト領が国境沿いに配している「魔力観測塔」が自動記録した、二年前の就任式当日のグラフと日誌の写しだった。
書庫の微かな灯りの下、マーレの金の瞳がその紙面をなぞる。
「……これを見てください、旦那。ここです」
ファロスが指し示したのは、式典が最高潮に達した瞬間の魔力波形だった。 ヴァルデムの公式記録では「突発的な大気の乱れ」とされていたが、ベルンハルトの記録は全く別の事実を指し示していた。
波形は、自然発生的な乱れなどではない。 ある一箇所から、鋭い楔くさびを打ち込むように「人為的な魔力干渉」が放たれ、それに応答するようにヴァルデムの守護精霊が暴走――いや、「防衛本能による爆発」を起こしていた。
「精霊を、誰かが背後から刺したんだ。……それも、城の内部、式典会場の至近距離からだぜ。」
ファロスの声に、マーレの喉が激しく脈打つ。 さらに読み進めると、そこにはベルンハルト側の観測員のメモが殴り書きされていた。
『ヴァルデム城上空に、黒い蔦状の呪力拡散を確認。直後、一人の女性――おそらく魔女と思われる個体が、領主に接触。魔力の奔流を、自らの肉体を媒介に強制反転させている。……狂気の沙汰だ。あんなことをすれば、媒介となった者の魂は……』
そこで記述は途切れている。 マーレの視界が歪んだ。
(ラクス……。君は、私を助けたのではない。私に代わって、死んだも同然の罰を引き受けたのか)
公式記録では完全に抹消されていた「魔女」の介入。 そして、その原因となった「内部からの干渉」。 マーレは、先ほど見たばかりの公式記録の執筆官、セバス・クロムウェルの名を思い出した。彼のような実務方が、これほど大きな魔力の異変を見逃すはずがない。見逃したのではなく、「なかったこと」にしたのだ。
『ファロス。……セバスを洗え。』
マーレは手帳に、紙を突き破らんばかりの力で書き殴った。 文字は乱れ、彼の怒りを体現している。
「……承知しました。影の仕事に戻らせていただきます。ですが旦那、これだけは覚えておいてください。」
ファロスは扉に手をかけ、振り返らずに言った。
「その資料をカイル様が送ってきたってことは、ベルンハルト領は『いつでもこの証拠を公表できる』ってことだ。味方でいるうちはいいが、一歩間違えれば、ヴァルデムの隠蔽工作をネタに、帝国内での立場を悪くされる可能性だってある。……あの方は、それだけの覚悟を持って、この『劇薬』をあんたに投げたんです。」
ファロスが去った後、マーレは一人、暗い書庫で資料を握りしめた。 喉の傷が、焼けるように熱い。 ラクスが一人で守り抜いてきた真実。 城の内部に潜む、名前も知らぬ裏切り者。
マーレは、手近な机に拳を叩きつけた。 音にならない咆哮が、静まり返った書庫に空虚に響く。 彼は、自分が何をすべきかを理解した。
(公式が嘘をつくなら、私が真実を塗り替える。)
マーレは、カイルから届いた資料を胸に抱き、冷たい書庫を後にした。 その足取りは、もはや迷える青年領主のものではなく、獲物を追う獅子のそれであった。




