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ベルンハルトの蒼鷲

「余計なことを・・・」癖のある栗色の髪をかきあげ、椅子にもたれかかる。ヴァルデムに隣接するガルダ帝国、ベルンハルト領の若き領主カイル・フォン・ベルンハルトは眉間を指で押しながら目をつむる。読み上げた資料から我が領へのマイナスを考えながら。


「薬草だけのこれといった特徴もない都市で、領主が若造と侮った結果、でしょうか?どちらにせよ、やる事が杜撰過ぎますね。」部下のエリアスが言う。帝国内でも一部貴族が暴走した件は既に問題になっていた。




ヴァルデム領主マーレとは他国であっても森ひとつ隔てて隣。なんなら森の一部は我が領にある。狩猟権と国境警備などで頻繁にやりとりする間柄だ。歳が近いこともあり、二人はすぐ良好な関係を築いた。言葉は違うがもともと近しい言葉なのもあり、文化もそれほど差異が無かったことも幸いしたのだろう。




今までは。




カイルは「ガルダ帝国の貴族」ではあるが、先祖代々ヴァルデム家とは「森を共に管理する仲間」という意識が強い。今回のヴォルフの独断専行を苦々しく思うと共に、どうフォローするのかを考える。


「ひとまず、マーレに会わねばならんな。」おあつらえ向きに春先の獣害駆除という名目がある。


「マーレに通信を。」


「畏まりました。」






ヴァルデム領とベルンハルト領の境界に位置する、古びた狩猟用別館。


暖炉には太い薪がくべられ、爆ぜる音が静寂を埋めている。壁には巨大な鹿の剥製が並び、外では春先の冷たい雨が、共同狩猟の始まりを告げるように降り続いていた。




「――酷いものだな。本国の過激派が撒き散らした火の粉を、私がお前の前で謝罪する羽目になるとは。」


カイル・フォン・ベルンハルトは、重厚な革のソファに深く腰掛け、手元のグラスを揺らした。


卓上に置かれているのは、ナーウィスが作成したヴォルフの罪状を裏付ける報告書の写しだ。


「ヴォルフの奴は、本国の査問委員会へ引き渡した。奴の家系はこれで終わりだろう。……だが、失われたものは、書類一枚で済む話ではないな。」


カイルは顔を上げ、対面に座る友人を直視した。


マーレは椅子に深く背を預け、ただ静かにカイルを見つめている。かつて、寄宿学校の休暇中にこの場所で酒を酌み交わした頃のような、茶目っ気のある軽口は一切ない。


「マーレ。……いつまでその、置物のような振る舞いを続けるつもりだ? 俺に向かって『うるさいぞカイル』の一言も言えないほど、ヴァルデムの教育は厳しくなったのか?」


わざと挑発するように笑いかけたカイルだったが、マーレの傍らに立つファロスの沈痛な面持ちに、その笑みが凍りついた。


マーレはゆっくりと右手を持ち上げると、自らの喉元、シャツの襟を僅かに押し下げた。


そこにある、赤黒く脈打つ蔦のような呪いの痕。


「……!」カイルの青い瞳が見開かれる。


戦場で数多の傷を見てきた彼ですら、その異様な呪詛の気配に一瞬、呼吸を忘れる。


「……二年前、ですね。継承式のあの日から、旦那の喉はこうです」


ファロスが静かに、だが重い言葉を添える。


マーレは手帳を取り出すと、迷いのない筆致で数行書き、カイルの方へ滑らせた。




『心配をかけた。ヴォルフの件、迅速な対応に感謝する。』




「……感謝だと? 馬鹿を言え」


カイルは手帳を叩きつけるように置いた。


「お前が俺の立場なら、一言も告げずに軍を動かしていただろう。謝らなければならないのはこちらだ。……そして、何より。お前がそんな体たらくになるまで、何も知らずに隣で笑っていた自分自身に、ヘドが出る。」


カイルは立ち上がり、窓の外、霧に煙るヘルバの森を見つめた。


二人の間には、かつてのような「地続きの平穏」があった。けれど今、その境界線には、言葉という橋が失われた深い溝が横たわっている。


「……あの日。二年前の就任式。何があったのか、公式の記録では『不慮の事故』としか聞いていない。だが、この呪いはそんな生易しいものではないだろう。」


カイルが鋭い視線をマーレに戻す。


マーレは答えず、ただ窓の外を見つめた。その金の瞳に宿るのは、後悔か、あるいはまだ見ぬ真実への渇望か。


「……ファロス。人払いをしろ。ベルンハルトの主としてではなく、マーレ・フォン・ヴァルデムの友人として聞きたいことがある。」


カイルの低い声が、別館の静寂を震わせた。


それは、ヴァルデム城の内部に潜む「毒」を暴くための、最初の号令だった。




人払いをし、マーレが席を外したその部屋には、カイルと、現役を退いてなお獅子の如き威圧感を放つ先代領主ガリアスが向かい合っていた。


カイルは、先ほど見たマーレの喉の惨状を思い出し、拳を握りしめたまま切り出した。


「ガリアス様。単刀直入に伺います。あいつの喉、あれを治す術はないのですか? 帝国中の名医や、秘蔵の魔道具を集めれば、あるいは……」


「無駄だ、カイル。」


ガリアスの低く、地響きのような声がカイルの言葉を遮った。


老領主は暖炉の火を見つめたまま、苦い酒を飲み下すように言葉を継ぐ。


「あれは病でもなければ、ただの呪詛でもない。……精霊との『契約』なのだ。それも、血を分けた我が息子と、この森の魔女が、互いの命と未来を秤にかけて結んだ、あまりに危うい均衡の上に成り立つ代物だ。」


「魔女……。あの、ヘルバの森の?」


カイルの脳裏に、マーレがかつて大切そうに語っていた、灰青色の髪の少女の姿が浮かぶ。ガリアスは重く頷き、カイルを射抜くような鋭い視線を向けた。


「カイルよ。お前はマーレの友だ。だからこそ、一つだけ、決して踏み越えてはならぬ一線を伝えねばならん。……いいか、お前を含め、他人の口から『二年前の真実』をマーレに伝えてはならぬ。」


「……! それはどういう意味です。理由を教えれば、あいつも対策が――」


「教えた瞬間に、マーレの喉は永久に閉ざされ、命の灯も消えるだろう。」


ガリアスの宣告に、カイルは息を呑んだ。


「精霊は、マーレが『自らの意志』で思い出し、自らの足で真実へ辿り着くことのみを許している。他者が手を貸せば、それは精霊への不敬と見なされる。そしてその報いは、マーレだけでなく、彼の代わりに呪いの大半を引き受けたあの娘……ラクスにも及ぶ。彼女は魔女としての資質をすべて失い、魂は壊れるだろう。」


ガリアスは、震えるカイルの肩に大きな手を置いた。


「真実を隠し通すことは、嘘を吐くよりも苦しい。だが、それがマーレとラクス……二人の命を繋ぎ止める、唯一の細い糸なのだ。……お前に、その地獄に付き合う覚悟はあるか?」


カイルは愕然と立ち尽くした。


親友を助けたいという情熱が、その「制約」という冷徹な壁に阻まれ、行き場を失う。


「……残酷すぎる。あいつは、何も知らずに、自分を救った女のことさえ忘れたまま、孤独に戦えと言うのですか。」


「そうだ。……そして我らもまた、彼が自力でその壁をぶち破る日まで、沈黙という共犯者でい続けねばならんのだ。」


カイルは奥歯を噛み締めた。


視界が怒りと悲しみで滲む。だが、彼は「若獅子」と呼ばれる男だ。絶望の淵で、彼は自分にできる唯一のことを掴み取った。


「……分かりました。ガリアス様、俺は『真実』は語りません。……ですが、あいつが自力で真実に辿り着くための『材料』を揃えることまでは、精霊も禁じていないはずだ。」


カイルの瞳に、不屈の光が戻る。


「ヴァルデムの城内には、この状況を利用して記録を改ざんしている鼠がいる。でなければ二年間もあいつが原因を特定できないわけがない。俺は、ベルンハルトの領主として、外部からの観測記録という形で、あいつに『ヒント』を投げ続けます。……たとえそれが、精霊の鱗を逆撫でする行為だとしても。」


ガリアスは一瞬、驚いたように目を見開き、やがて満足げに口角を上げた。


「……マーレは、良い友を持ったな。」


別館の外では、雨が激しさを増していた。


二人の密談は、冷たい石壁の中に深く封じ込められたが、カイルの胸には、親友を「沈黙の牢獄」から救い出すための、新たな静かなる怒りが燃え盛っていた。

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