銀の天秤、解析の女王
嵐の森を城へと駆けるファロスの脳裏には、数時間前に先代領主ガリアスから、重苦しい沈黙の末に明かされた言葉が反芻されていた。
『ファロスよ。マーレの呪いは、「試練」である。精霊が課したものゆえ、手出し無用。私が真実を知っていてなぜマーレに言わぬか、と言いたげな顔だな?』先代領主はファロスの父をよく知っているので上司というより親戚のおじさんレベルであるが、ガリアスが揶揄うのはともかくファロスが態度を崩すわけにもいかない。歳の近いマーレとは違うのだ。そんなファロスの気持ちを知ってか知らずかガリアスは続ける。
『他人の口から真実を伝えれば、その瞬間に精霊の怒りが触れ、マーレの喉は永久に閉ざされる。そしてラクスも魔女としての資質を失い、廃人同然となるだろう。……これは、私と先代魔女が、死にゆくマーレの命を繋ぎ止めるために精霊と交わした、最後にして唯一の譲歩なのだ。故にお前であっても真実を教えるわけにはいかぬ。だが、お前には見えているのではないか?ならば見守り続ける事こそお前がすべきこと。』ガリアスの瞳には、親としての苦渋が滲んでいた。
(……とんだ、無理難題を押し付けやがる)
ファロスは雨に打たれながら、自嘲気味に笑った。 あの日、マーレの命が繋がったのは、精霊の気まぐれではない。 一人の女性が、自らの未来を差し出して、最愛の男を地獄から引き戻したのだ。
その記憶を、当の本人が忘れ、周囲の人間は口を噤つぐまねばならない。 マーレが自らの心で、あるいは魂に刻まれた痛みを通じて、再び「ラクス」を思い出すまで誰も手助けはできないのだ。
(旦那。……俺はあんたが自分で、その呪いをぶち壊すのを待ってる)
城の灯りが見えてきた。 ファロスは、あえてゆっくりと歩を進める。 今、あの家で重なり合っている二人の時間は、誰にも邪魔させてはならない、そして誰も介入してはならない「孤独な試練」の第一歩なのだから。
ヴァルデム城の地下深く、冷たい石造りの壁に囲まれた一画に、その「研究室」はある。
そこは、城内の華やかさとは無縁の、煤と魔力結晶の匂いが立ち込める空間だ。
「……遅かったじゃない。ファロス。」
眼鏡の奥の鋭い瞳が、不機嫌そうに歪む。
山積みになった魔導書と、複雑に絡み合う銀の歯車。その中心で、白衣のような薄汚れた上着を羽織った女性が、ピンセットで小さな黒い欠片を弄んでいた。魔法灯の光を反射する金髪は、幾日も研究に没頭したせいか少し乱れている。黙っていれば、その緑色の瞳はどこか異国の王女のような気品を漂わせるが、口を開けば出てくるのは毒舌と魔導の専門用語ばかりだ。
――そんな彼女の「素」の部分に、ファロスは惹かれているのかもしれない。
彼女の名は、ナーウィス。ヴァルデム領が誇る筆頭魔導研究員であり、失われた古代の知恵を現代の魔道具へと再構築する、偏屈な天才だ。
「悪かったよ。森の主ぬしが暴走しちまってな。ギルドにも寄って処理してきたから遅くなった。……ほら、約束の『ブツ』だ。」暴走した熊はそのままにはしておけなかったので亡骸の保管をギルドに頼んできたのだ。解析が済めば素材として扱えるだろう。
ファロスが、獣から回収した黒ずんだ金属の残骸をテーブルに置く。
普段は軽薄な彼だが、ナーウィスの前ではどこか落ち着きがなく、必要以上に装備の汚れを払ったりしている。
「! ……これは、ガルダ帝国の紋章じゃないわね。けれど、この術式の刻み方……『共鳴型』の呪具だわ。対象の負の感情を増幅させて、強制的に変異させる。最悪の代物ね。」これが公になれば帝国の特務機関が黙ってはいないだろう。
ナーウィスが欠片を魔法灯に透かす。その横顔は、研究対象への怒りと、純粋な好奇心で紅潮していた。
ファロスは、彼女の耳元に触れそうになった乱れ髪に一瞬手を伸ばしかけ、慌てて引っ込める。
「……解析、できそうか? ヴォルフの野郎、しらばっくれてやがるんだ。」
「私を誰だと思っているの? 三日……いえ、明日までには、この呪具がどの工房で、誰の魔力供給で作られたか、完璧な『証拠』として吐かせてあげるわ。」
ナーウィスは椅子を回転させ、至近距離でファロスを見上げた。
「その代わり、ファロス。……今回の報酬は、イスキュアの『銀の林檎酒』、二本分よ。あそこの蒸留所のものは、冷して飲むと最高なの。」
「……ああ、分かってる。何本でも用意してやるよ。」
ファロスは苦笑して視線を逸らした。
冷徹な隠密としての顔はどこへやら。彼女の無機質な研究室にいる時だけは、彼もまた、一人の不器用な男に戻ってしまうのだ。
一方、ラクスの家では、ようやく嵐が去り、清々しい朝日が窓から差し込んでいた。
「……マーレ様。」
ラクスが目を開けると、暖炉の前で眠っていたはずのマーレが、いつの間にか彼女のベッドの脇に座り、じっと彼女の寝顔を見つめていた。
ラクスがいつの間にかベッドに寝かされていたことに気づき、頬を赤らめる。
マーレの発作の赤みは引き、金の瞳には凪いだ海のような静けさが戻っている。マーレが立ち上がりベッドサイドの棚から手帳を取る。手帳を握る手に微かな力を込めていた。ラクスがそれに目をやると、
『すまない。……迷惑をかけた。』
そこには、三日前の事務的な筆致とは違う、どこか震えるような、切実な言葉が並んでいた。
ラクスは上半身を起こし、シーツを握りしめる。
「迷惑だなんて……。私は、あなたの契約魔女ですから。当然のことです。」
精霊の縛りにより、真実を告げることはできない。
けれど、こうして二人で朝日を浴びる時間が、何よりも残酷で、そして甘い毒のようにラクスの胸を満たしていく。
マーレは、答えの代わりにラクスの頬にそっと触れた。指先から伝わる冷たさに、彼女は思わず目を閉じる。
(ナーウィスが証拠を掴めば、ヴォルフは退けられる。……けれど、そうすれば、あなたは城へ帰ってしまう)
二人の間に流れる時間は、解決に向かうほど、別れの予感を孕んでいく。
城ではファロスとナーウィスが「真実」への包囲網を敷き、森では記憶を失った領主と、すべてを隠し通す魔女が、重なり合わない心を寄せ合っていた。




