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語られぬ過去、精霊の縛り

「!」




見開かれた金の瞳。意識は朦朧としているはずなのに、その視線は驚くほど鋭く、そして飢えた獣のようにラクスを捕らえて離さない。


彼は言葉の代わりに、掴んだ彼女の手を、自分の激しく波打つ喉元へと力任せに引き寄せた。手のひらから伝わる、焼けるような熱。そして、彼が必死に飲み込もうとしている、声にならない叫び。




(……忘れてなど、いない)




言葉にならぬその圧が、ラクスの脳裏に直接響くようだった。記憶を失っているはずの彼が、なぜ、これほどまでに執着に満ちた目で自分を見るのか。


「……マーレ様、動かないで。今、鎮めますから」ラクスは、自らの手首を掴む彼の強い力を、拒むことなく受け入れた。その指先から伝わるのは、暴力的なまでの熱と、喉の奥でせり上がる呪いの拍動。彼女は空いた方の手で、あらかじめ用意していた特殊な「鎮静の香」を焚いた。青白い煙が二人の間に漂い、森の奥深くにある泉の匂いが立ち込める。


「……っ、……ぁ……」


マーレの喉元が、激しく波打つ。


発作の苦しみに耐えかねたのか、彼は掴んでいたラクスの手首をさらに引き寄せ、あろうことか、自らの熱い喉元に彼女の掌を無理やり押し当てた。


(熱い……、焼けるようだわ)


ラクスの掌の下で、彼の呪いの痕が生き物のように脈打っている。


手のひらから伝わるのは、暴力的なまでの熱と、喉の奥でせり上がる呪いの拍動。


彼女は迷いを捨て、魔女としての術を起動させた。


「――静まりなさい。ヴァルデムの血に、安寧を。」


ラクスの濃紺の瞳が、魔力の高まりと共に淡い光を帯びる。彼女は掌を通じて、自らの生命力を注ぎ込むように、冷涼な精霊の力をマーレの喉へと流し込んだ。それは、二年前のあの日、彼を守るために行った「依代」の術の再現に近かった。




「……ふ、ぅ……」マーレの強張っていた体が、ようやく僅かに弛緩した。だが、その代わりに。熱に浮かされた彼の金の瞳が、じっとラクスの顔を見つめたまま離れない。彼は声の出ない喉で、必死に唇を動かした。




(……忘れて、いない)




音にはならない。けれど、その唇の形は、ラクスの名前を呼んでいるようにも見えた。彼は彼女の掌を離さず、あやすようにその指先に自分の頬を寄せ、深く、深く、彼女の薬草の香りを吸い込む。


「マーレ様……。」


(私を覚えていないはずなのに。)


ラクスは悲しげに微笑み、もう片方の手で彼の乱れた前髪をそっと掻き上げた。記憶は失われても、魂が、そしてこの呪いの痕が彼女を求めている。それは、領主と魔女という契約を超えた、あまりに危うく、官能的な光景だった。










マーレが森へ連れて行ってもらったのは、10歳になる頃だった。先代の領主であるガリアスに連れられ、森の魔女に面通しするためであった。




そこで、一人の少女に会った。




先代の魔女は、ソルという、見かけは月の女神のような容姿をしているわりに豪快な女だった。


「ほら、ラクス、挨拶しな。」そうソルが促すが、ソルのローブを掴んで後ろに隠れた少女は無言でマーレを見ている。マーレは失礼な奴だと思ったので、


「お前、口がきけないのか。」ぞんざいに言い放った瞬間、視界が火花と共に反転した。気がつけば、彼は床を転がっていた。


これまで領主の息子ということで、幼い頃に父の部下の子供とは喧嘩をしたが、女性にこんな仕打ちを受けたことはなかった。マーレの傲慢な態度に少女が放ったのは、挨拶代わりの無意識の衝撃波。


「こら、ラクス!」


ソルの叱責もどこ吹く風、少女はただ鋭い目でマーレを睨みつけていた。最悪の出会い。――けれどその日から、マーレの瞳には彼女しか映らなくなった。






「・・・また、来たの?」ラクスはため息をつく。そんなに領主の息子は暇なんだろうか。こちらは薬剤を覚えるのに必死だというのに。


仕方がないから不味いと言っていたハーブティーを入れてやろう。嫌がらせではない、領主の息子は次代の領主。自分のためにも元気でいてもらわねば。魔女と領主の関係はソルから聞いてわかっていたが、あの最悪な出会いからどうして足しげく通うようになるのか、ラクスにも検討はつかなかった。けれども、近い歳の子供たちはまるではじめからそこにお互いが居たかのように馴染んで、いつの間にかお互いに無視できない存在となっていった。


その後マーレは寄宿学校に通い、8年ほどこの地に居なかった。辺境の息子は中央ではそこそこの成績を収めた様子だ。ソルがガリアスと魔道具での通信をしているのを聞いたことがある。


そして、ヴァルデム領へ戻って3年は領内のどさ回りという領主研修だ。


次に二人が会った時、マーレは24歳。ラクスも魔女見習いとしてほぼ最終段階の学びをしているところだった。






10歳の夏、威厳に満ちた父の背中を追いかけてこの森の家を訪れた時、そこにいたのは自分よりも少し年下の、灰青色の髪をした不思議な瞳の少女だった。そして27歳――逃げ場のない縁談や、領主としての重圧に押し潰されそうになっていた頃。彼はいつしか、公務の合間を縫って、吸い寄せられるようにこの森へ通うようになっていた。




「……また、いらしたの?」




三年前と変わらぬ、けれど少しだけ大人びたラクスの声。


マーレは何も言わず、慣れ親しんだ椅子に腰を下ろす。ここは彼が唯一、領主という仮面を脱いで「ただの男」としていられる場所だ。


薬草を扱っている時は放っておかれるので、この家に来る時間も調整している。今は読書の時間のはずだ。マーレも城から持参した本と書類を眺める。


シェーズロングに二人並んで本を読む静かな時間。ラクスが淹れた茶の湯気が、二人の間に漂う。ページを捲る乾いた音だけが響く。たまに悪戯にクッションをずらして彼女の膝の上に頭を乗せる。彼女は困ったように微笑む、けれど愛おしげに。それから、視線は本に戻る。拒絶はされない、けれどこれ以上近づいてはいけない。




領主と魔女の均衡を崩してはならない。




もどかしさに叫びたくなる夜もあったが、ただ未来だけを見据えていた頃。このままこの関係が永遠に続けばいいと思っていた。




夢うつつの中でマーレは自分を心配そうに覗き込む藍色の瞳を見た気がした。

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