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雨の轍、呪いの発動

三日後の朝、約束の場所である泉のほとりに、マーレは現れた。




領主としての重厚な正装ではなく、動きやすい革の軽装。だが、その腰にはヴァルデム家の象徴である長剣が静かに横たわっている。




ラクスは一足先に、泉の結界を確認していた。




雨は三日前よりも激しさを増し、森の木々を深い霧が覆っている。




「……お見えになりましたか。」




ラクスが振り返ると、そこにはマントのフードを深く被り、雨に濡れたマーレが立っていた。ファロスは少し離れた場所で、周囲の警戒に当たっている。マーレは答えず、ただ静かに一歩、彼女との距離を詰めた。




「少々失礼を。」ラクスがマーレに近づき、ふっと息を吹きかける。その一瞬でぬれたマントが乾いたことに気づく。次に、肩にむかって吐息がかけられたと思ったらそれが意思を持つかのように身体を包む。


「これでよろしいかと。ファロス様も…」


「感謝します魔女殿。便利なもんですなぁ。」雨に濡れないだけでも体温を下げずに済む。ファロスは無邪気に喜んでいるが、マーレは驚きもせず、その魔法の温もりを受け入れている自分に、得体の知れない違和感を覚えた。


――この吐息も、包み込むような魔力の流れも。


初めてのはずなのに、身体が、魂が、これを知っていると告げている。




雨粒が森の葉を叩く音だけが響く中、彼は無言でラクスの瞳を見つめる。






(……やはり、この目だ)濃紺の瞳を見るたびに何かが警告を鳴らす。






マーレは、喉の奥が微かに疼くのを感じた。


彼女と目が合うたび、そこには言葉にできないほどの情念が渦巻いている。


「行きましょう。……精霊たちが、奥の方で怯えています」ラクスの先導で、二人は森の深部へと足を踏み入れた。足元はぬかるみ、張り出した根が歩みを阻む。ラクスがふらりと体勢を崩しかけた瞬間、後ろから力強い腕が彼女の腰を支えた。


「っ……!」


反射的に振り向くと、そこには至近距離で自分を見下ろすマーレの顔があった。


彼は支えた手を離さず、目で大丈夫かと聞いてくる。


「……平気ですわ。」


ラクスは彼の視線から逃れるようにそっと彼の身体を押し戻した。


やがて、二人の目の前に惨烈な光景が広がった。








かつては希少な薬草が群生していた斜面が、まるで獣に食い荒らされたように無残に掘り返されている。精霊たちの淡い光は弱まり、泥にまみれて消えかかっていた。


「これは……」


ラクスが膝をつき、泥にまみれた薬草の茎に触れる。


「ただの乱獲ではありません。……結界の基点となる根を、狙って断ち切っています。これは、森を殺そうとする意志ですわ。」


マーレはその言葉を聞き、険しい表情で周囲を見渡した。


彼は腰の剣の柄に手をかけ、目を閉じる。


代々の領主なら聞こえるはずの精霊の声。だが、今の彼に聞こえるのは、自らの血管を駆け巡る呪いの拍動と、隣にいるラクスの微かな呼吸音だけだ。




(聞こえない。……私には、何も)






焦燥が、彼の理性を削る。


その時、森の奥から不気味な地鳴りのような音が響いた。


精霊たちが一斉に飛び立ち、ラクスが叫ぶ。




「マーレ様、下がって!」ラクスが放った護符が空中で弾け、不可視の壁を形成する。


狂った獣の爪が火花を散らしてはじかれた。その一瞬の隙、マーレは迷うことなく、ラクスの前へと踏み出した。




泥濘の中から巨大な影が躍り出た。




森に棲む大熊が、どす黒い魔力に汚染され、理性を失った咆哮を上げている。それは「呪具」による強制的な変異だった。


抜き放たれた長剣が、鈍い銀光を放ち、雨を切り裂く。




「……ッ!」声にならない気合と共に、マーレは獣の懐へ飛び込んだ。


だが、精霊の加護を失った彼の体は、かつてのような神速には届かない。鋭い爪が彼の肩をかすめ、軽装の革を裂いた。


「旦那、無茶しすぎだ!」横合いから飛び込んできたのは、数振りの暗器だ。ファロスが木々の間を縫うように現れ、正確に獣の関節を射抜く。獣が怯んだ隙を見逃さず、マーレは渾身の一撃を叩き込んだ。大熊はもんどりうって倒れた。


「……ふぅ。やれやれ、これじゃ森の調査どころか、掃除だな」ファロスは短剣を鞘に収めると、肩で息をするマーレと、倒された山の主を凝視しているラクスを見た。雨足はさらに強まり、視界を白く染めていく。その時、マーレの体が大きくよろめいた。




「マーレ様!?」ラクスが駆け寄る。




彼の喉元――シャツの隙間から覗く「呪いの痕」が、見たこともないほどに赤黒く膨れ上がり、脈打っていた。




激しい拒絶反応。魔力に汚染された獣と対峙したことで、彼の中の呪いが共鳴してしまったのだ。


「……く、ぅ……」


喉を押さえ、膝をつくマーレ。


その指先が白くなるほどに力が入り、苦悶に顔が歪む。


「ファロス様、私の家へ!」








ラクスは家に戻るとマーレを暖炉の前のシェーズロングに横たえた。薪を焚べマーレの喉元から鎖骨を見る。


「一時的な発作だと思います。特に服薬は必要ないと思いますが、念のため傷に鎮痛剤を用意しましたけど…効くかどうか。」ラクスの表情は暗い。精霊による呪いは精霊にしか解除できない。自分にできることは気休めでしかない。


「……承知した。俺は一度城へ戻る。さっきの獣、あいつらが仕込んだ呪具の残骸を回収して、ガリアス様に報告しなきゃならねぇ。」


ファロスはラクスの肩へ手を置くと、鋭い視線を森の奥へ向けた。


「旦那を頼みますぜ、魔女殿。……あんたにしか、治せないんだからな。」








ファロスは嵐の中を城へと駆けていき、家の中には爆ぜる火の音と、マーレの乱れた呼吸だけが残された。ラクスは鎮痛剤を用意し、彼の元へ歩み寄る。マーレは目を閉じ、脂汗を流しながら、今も激痛に耐えていた。


「マーレ様、失礼します……」


彼女は跪き、彼のシャツの襟元を躊躇いながらも大きく広げた。露わになった胸元。そこには、心臓から喉へと這い上がるような、悍ましい呪いの蔦が浮き出ている。それは、二年前に彼女自身が精霊の依代として、彼から引き受けきれなかった「残滓」だった。


「……ああ、こんなに……」ラクスは自責の念に駆られ、無意識にその熱を帯びた肌に指を触れた。




その瞬間。




マーレの大きな手が、彼女の手首を掴んだ。



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